パパには言わない

田中潮太

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邂逅

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 教室へ戻ると厚木が職員室に掃除が終了したと報告をしに行ったとの事だった。自分は一切掃除に参加していないというのに教師の前では良い顔をする。その精神が紅には気に食わなかった。そして、そんな厚木に馬鹿にされても動じない前田の事も。


 それから二日後の事だった。その日は英語の小テストでノートが必須だった。前日に英語教師が絶対にノートを忘れるなと釘を刺しており、その理由というのも小テストは自分で書いたノートであればテスト中に自由に閲覧して良いという物であるからだ。英語の小テストはこれが初めてではない。当然ほとんどの生徒が今日までにきちんとノートを用意しているが、そんな中英語の授業が始まる前の十分休みで厚木が仲の良い友人たちを背後に前田に詰め寄った。

「前田くんさぁ、俺とノート交換しない?」

 前田の机に思い切り両手をついて厚木がそう話しかけると背後にいる友人たちはニヤニヤと気色の悪い顔で見守る。その様子が聞こえてくる周囲の席にも緊張が走った。紅は葉月と話していたが、不穏な空気を感じて二人ともそちらに注意を向けた。

「何あれ、厚木って最低だよね」

 葉月が聞こえない程度の声量でぼそりと呟く。紅はその通りだと思ったが反撃しない前田にも非はあると感じている。
 しかし前田は誰にも迷惑をかけていない。ただ性格が大人しいというだけで他者に踏み台にされてしまう。それはかつての翠のようだった。

「い、いやそれはちょっと……」
「なんで? いいじゃん! 俺のノートみれば百点取れるからさ!」

 厚木が授業をまともに聞いておらずノートも取っていないのは明白だった。誰しもが見て見ぬふりをしている。前田が不憫であると内心そう思っているにも関わらず。
 しかし紅は違った。前田は不憫などではない、前田本人に問題があるのだ。ノートを交換するのが嫌であればはっきりそう言えばいいものを言わずにおどおどとしている。
 紅は見て見ぬふりが一番だと判断し葉月と先程まで話していた内容に戻ろうとした。しかし。

「あーじゃあさ、浦上さん? 交換してよ! ノート!」

 思わぬ火種が飛んできた。心当たりがあるとすれば、この前掃除の際に前田と行動を共にしていた事に目をつけられたか。或いは今までの翠の性格を見て目立たない、大人しい性格であると判断されたか。どちらも充分にあり得る理由だった。

「…………どうして?」

 この三週間、続けていた翠の演技はこの期に及んでもう必要なかった。
 火種が飛んで来たら、打ち返すほかはない。紅は本気だった。

「え? いやぁ前田が交換してくんねーからさ!」
「自分のノートを見れば良いんじゃないの?」

 厚木の背後から「こいつのノートは天才的すぎんだよ!」と野次が飛ぶ。しかしそれは紅の耳には入っていなかった。

「いいじゃん、交換しようよ浦上さん!」

 こうして紅と厚木が向かいあっても、間にいる前田はまるで空気のように両者の顔色を伺っていた。ここで紅を助けようともしない、前田という生徒に最早軽蔑しか感じなかった。

「いい加減にして。人をおちょくって遊ぶのも大概にしたら?」
「怒んなって。ちょっとした冗談じゃん?」

 げらげらと下品な笑い声が飛んでくる。クラスの空気も最悪のものだった。教師を呼んでくるべきかと思案している生徒もいる。しかし場外のことなど紅は全く視界に入っていない。

「笑って誤魔化すことじゃない。何もしていないわたしをおもちゃにしないで」

 尊厳を傷つけられた事に紅は怒りが止まらなかった。
 こいつをどうすべきか。
 何を言えばわからせる事が出来る?
 言い負かすのは得意分野だ。
 けれど、話し合いさえ通用しない人間は中にはいるものだ。

「はいはい、わかりましたぁ」

 冷めたような適当な返事。
 明らかにこちらを馬鹿にしている態度。対等な存在だとも思っていないのだろう。
 紅は厚木に近づいた。周囲が面白がる声も聞こえない。まっすぐに厚木の下品な顔を目にして、そして。
 いとも容易く体をコントロールできた。
 体重をかけて相手を突き飛ばす。そして仰向けに転んだ厚木に馬乗りになり顔面に拳を打ち込んだ。抵抗した厚木が紅の腕を掴むと今度は足を持ち上げて顔面に蹴りを入れた。

「なっ……、おい! やめろ!」

 厚木の腕を振りほどき何発も顔を殴り続けた。抵抗されている事すら理解できていない。それはあまりの事に動力を失っていたクラスメイトが冷静になり近くにいる教師を呼びに行き、紅を無理矢理引きはがすまで続いた。

「本当に申し訳ありませんでした」

 普段は絶対に入る事のできない中学校の応接室。紅の隣にいるのは父親ではない、家政婦の葛だった。

(こんな場面でさえあの人は来ないものね)

 仕事を抜ける事ができないという父親に代わって中学校へ駆けつけた葛が厚木の母に向かって頭を下げる。紅は謝罪する気など一切なくただ黙ってその様子を眺めていた。

「いえね、もとはと言えばうちの子に非がありますから……」

 厚木はすぐに保健室へと移動したが打撲で済んでいたようで今はただ黙って母親の隣に座っている。そもそも紅が人を殴った所でその力はたかが知れている。むしろ紅が手を痛めたと、葛が謝罪している最中も紅は自身の手を気にしていた。

「いえ、手を出したのはこちらが悪いので後日また謝罪に……」
「いいのいいの、喧嘩なんて慣れっこだし」

 厚木の母親は紅を咎める事はしなかった。厚木自身が以前から問題児であった為に揉め事は慣れているのだろう。

「浦上。厚木。お互いに謝りなさい」

 両方の保護者の間で沈黙を貫いていた担任教師がそう促す。しかし紅は謝る筈もなく、厚木も黙って紅を睨みつけていた。

「翠」

 葛が強めの口調で謝罪を促す。
 厚木に暴力を振るった事で一度は冷静になった紅も何故自身が謝罪させられるのか理解が出来ず再び苛立ちが上昇していた。

「わたし、悪い事してないけど」

 紅が正直にそう述べると場の空気が凍り付くのがわかった。それでも紅は続ける。

「元はといえば厚木くんが弱い者いじめをしていたからじゃない。わたしが言葉で説得しようとしていたのはクラスの皆が聞いていて知っている筈よ。勿論、厚木くんがそれに耳を貸さなかった事も。言葉で言っても伝わらない、それならどうしろと言うの? ただ黙ってやりすごせって? 悪いのは厚木くんなのにどうして? それに厚木くんは普段から前田くんをいじめていたじゃない。誰もそれを止めなかった。だからこうでもしなきゃ厚木くんを止められなかったのよ。わたし、何か間違ってる?」

 翠の演技をする事は完全に頭から抜け落ちていた。紅は自らの言葉をひたすらに連ねる。自身の正当性を主張する単語たちが溢れ出して止まらない。その単語を繋ぎ合わせて自らを証明する為の台詞を口から吐き出す。

「…………別にいじめてねぇし。ちょっとからかっただけじゃん」
「あんた、いじめなんてしてたの!?」

 厚木の母親が思ってもいなかった事実に声をあげる。厚木本人は黙り込んだ。それは肯定してるも同然だった。

「落ち着いてください。浦上、いじめがあったのは本当か?」
「クラスの皆に聞けばすぐわかる事よ」

 話はいじめの話にすり替わり、最後まで紅が謝罪することは無かった。今日のところは早退扱いとなり、紅は葛に連れられて帰宅する。中学校から家まで車で揺られている最中、葛は何も言わなかった。そして紅も黙り込んでいた。
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