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邂逅
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本心では紅の行いが良くなかったと葛は考えていた。しかしひとつの疑問を感じていたのだ。
「ねぇ翠」
マンションの駐車場に到着するなり紅の赤くなった手を包むようにして葛は言った。
「人を殴ったって事はそれほど感情が揺さぶられたって事でしょ?」
「そうね」
「そういう時に、翠ちゃんが出てこようとしなかったの?」
紅はやんわりと手を引っ込めて首を振った。
「あの人格はただ周囲に流されて生きる為に生まれたんだからわたしの感情が昂ったぐらいじゃ出てくる訳ないの」
それを伝えると葛は「わかった」とだけ短く返事をした。
紅は聡い。葛が本当は翠を心配している事も察していた。そもそも葛は翠と仲が良かった。突然その翠が消えてはいそうですかと頷ける訳もない。
葛は紅を父親からは守ってくれる存在になるだろう。しかし本当の意味での完全な味方にはなりえない。結局この期に及んでも紅はひとりだった。長い間この体を操っていた人格が自分の全てを奪っている。
今夜家に帰ってきた父親がどんな反応をするのか、紅は密かに楽しみだった。どうせ相手は敵だ。怒鳴り散らしても淡々と怒りを露にしてもはたまた無関心でも。どの反応をされた所で敵に変わりはない。紅は精々、高い位置からそれを見守るだけだ。
もう怖いものは無い、そんな気分だった。
「お前ならやりかねない」
父親の反応は冷めたものだった。夕食を食べながらそれだけを述べる。紅はシャワーを浴び終えて部屋に戻ろうとしていた足を止める。
「わたしはあの子と違うから」
紅なりの父親への皮肉だった。何事も流されるような事はしない。歯向うものは全力で迎え撃つ。それが自分なのだと紅は強く思う。
「好きにしろ」
「もちろん。わかってるわ」
親子の会話はそれで終了だった。今回の件に関しても紅は言葉が通じなかったが為に暴力という手段に出たのであってそれは単なる相手への抵抗手段だ。今回の件で人を殴れば自分の手も痛むと理解した。他人の為に自分の体を犠牲にするのは紅としても納得がいかない。余程の事がなければ二度と暴力という手段には出ないだろう。
殴られている間の相手の顔だけは非常に愉快で楽しかったが、手の痛みとそれらは釣り合わなかった。
翌日登校すると周囲は紅を遠巻きにした。いじめのターゲットが自分になるのではないかとやや危惧していたがそんな事もなく、朝から厚木やその取り巻き達が代わる代わる担任教師に呼び出されていたのを見ると今まで前田をいじめていた件について動き始めたのだろう。
朝一でいつものように葉月に話しかけた紅だったが葉月の反応はどこかぎこちなく、それ以降紅は葉月に話しかけるのを止めた。クラスメイトも皆自分に対し余所余所しい。見下されて孤立している訳ではない。皆自分を恐れている。それならば一人で居るまでだと紅は開き直り一日中一人で過ごし、三日ほど経った時だった。
「翠!」
登校してすぐ、玄関前で翠は聞きなれない声に呼び止められた。
「……柚希?」
背が伸び声も変わっていたがそこにいたのは柚希だった。中学に入学して以降、あまり接点が無かったがそういえば自分の幼い頃を知る数少ない人物だと紅は身構える。
「朝早いのな」
「まぁね……」
翠の演技が必要な相手だと瞬時に判断し翠のように振舞うよう心掛ける。
「男子殴ったってマジ?」
何の遠慮も感じられずまるで日常会話のように尋ねられたその質問。翠が翠であれば人を殴るなんて事は絶対にしない。そこをどう誤魔化すか紅は頭をフルに回転させる。
「あー……うん、ちょっとね。どうしても許せなくて」
「ふーん。そうなんだ」
柚希の反応はあっさりしたものだった。昔から翠を通してみていた世界でもそうだった。柚希の事は読めない。クラスメイトが紅を遠巻きにするような出来事でも今のように柚希はおくびにも出さない。
「引かないの?」
その不思議さに紅が思わずそう尋ねると柚希はきょとんとした顔で紅の顔を見た。
「え? 別に。だって翠、昔もそういう事してたじゃん? むしろ変わってねぇんだなーってなんか懐かしいっつーか」
「……何かしたっけ?」
「ほら、保育園のとき。翠のおもちゃ横取りした奴にグーパンお見舞いしてたじゃん。俺あれ見て翠には絶対逆らわないどこって決めたもん」
「普通、近寄らないでおこうってならない?」
「はぁ? なんで? だって別にそれが翠じゃん?」
その言葉が紅の中ですとんと落ちた気がした。
繕わなくとも、翠の演技をしなくとも、それが翠であると。今まで人に認められる為には翠の演技をするか従わない相手を丸め込む事かどちらかだと紅は考えていた。
しかしそんな事はしなくとも素の翠を認めてくれる人が存在したのだ。今までの翠が絶対に起こさない行動をしても、尚翠だと認識してくれる人がいる。そんな事は今までに無い。
「まーでも流石にもう人殴るのは良くないと思うけど」
「そうね、その通りだと思う。でも理由があったのよ」
簡単に手を出す事も、相手を従わせる事も、すぐに敵を作るのももうやめてもいいのかもしれないと、そう思った。ありのままの自分を受け入れてくれる人がいるのなら、自然体でいても良いのかもしれない。
自然体で過ごす。たったそれだけの事も紅には大きな発見だった。
「ねぇ翠」
マンションの駐車場に到着するなり紅の赤くなった手を包むようにして葛は言った。
「人を殴ったって事はそれほど感情が揺さぶられたって事でしょ?」
「そうね」
「そういう時に、翠ちゃんが出てこようとしなかったの?」
紅はやんわりと手を引っ込めて首を振った。
「あの人格はただ周囲に流されて生きる為に生まれたんだからわたしの感情が昂ったぐらいじゃ出てくる訳ないの」
それを伝えると葛は「わかった」とだけ短く返事をした。
紅は聡い。葛が本当は翠を心配している事も察していた。そもそも葛は翠と仲が良かった。突然その翠が消えてはいそうですかと頷ける訳もない。
葛は紅を父親からは守ってくれる存在になるだろう。しかし本当の意味での完全な味方にはなりえない。結局この期に及んでも紅はひとりだった。長い間この体を操っていた人格が自分の全てを奪っている。
今夜家に帰ってきた父親がどんな反応をするのか、紅は密かに楽しみだった。どうせ相手は敵だ。怒鳴り散らしても淡々と怒りを露にしてもはたまた無関心でも。どの反応をされた所で敵に変わりはない。紅は精々、高い位置からそれを見守るだけだ。
もう怖いものは無い、そんな気分だった。
「お前ならやりかねない」
父親の反応は冷めたものだった。夕食を食べながらそれだけを述べる。紅はシャワーを浴び終えて部屋に戻ろうとしていた足を止める。
「わたしはあの子と違うから」
紅なりの父親への皮肉だった。何事も流されるような事はしない。歯向うものは全力で迎え撃つ。それが自分なのだと紅は強く思う。
「好きにしろ」
「もちろん。わかってるわ」
親子の会話はそれで終了だった。今回の件に関しても紅は言葉が通じなかったが為に暴力という手段に出たのであってそれは単なる相手への抵抗手段だ。今回の件で人を殴れば自分の手も痛むと理解した。他人の為に自分の体を犠牲にするのは紅としても納得がいかない。余程の事がなければ二度と暴力という手段には出ないだろう。
殴られている間の相手の顔だけは非常に愉快で楽しかったが、手の痛みとそれらは釣り合わなかった。
翌日登校すると周囲は紅を遠巻きにした。いじめのターゲットが自分になるのではないかとやや危惧していたがそんな事もなく、朝から厚木やその取り巻き達が代わる代わる担任教師に呼び出されていたのを見ると今まで前田をいじめていた件について動き始めたのだろう。
朝一でいつものように葉月に話しかけた紅だったが葉月の反応はどこかぎこちなく、それ以降紅は葉月に話しかけるのを止めた。クラスメイトも皆自分に対し余所余所しい。見下されて孤立している訳ではない。皆自分を恐れている。それならば一人で居るまでだと紅は開き直り一日中一人で過ごし、三日ほど経った時だった。
「翠!」
登校してすぐ、玄関前で翠は聞きなれない声に呼び止められた。
「……柚希?」
背が伸び声も変わっていたがそこにいたのは柚希だった。中学に入学して以降、あまり接点が無かったがそういえば自分の幼い頃を知る数少ない人物だと紅は身構える。
「朝早いのな」
「まぁね……」
翠の演技が必要な相手だと瞬時に判断し翠のように振舞うよう心掛ける。
「男子殴ったってマジ?」
何の遠慮も感じられずまるで日常会話のように尋ねられたその質問。翠が翠であれば人を殴るなんて事は絶対にしない。そこをどう誤魔化すか紅は頭をフルに回転させる。
「あー……うん、ちょっとね。どうしても許せなくて」
「ふーん。そうなんだ」
柚希の反応はあっさりしたものだった。昔から翠を通してみていた世界でもそうだった。柚希の事は読めない。クラスメイトが紅を遠巻きにするような出来事でも今のように柚希はおくびにも出さない。
「引かないの?」
その不思議さに紅が思わずそう尋ねると柚希はきょとんとした顔で紅の顔を見た。
「え? 別に。だって翠、昔もそういう事してたじゃん? むしろ変わってねぇんだなーってなんか懐かしいっつーか」
「……何かしたっけ?」
「ほら、保育園のとき。翠のおもちゃ横取りした奴にグーパンお見舞いしてたじゃん。俺あれ見て翠には絶対逆らわないどこって決めたもん」
「普通、近寄らないでおこうってならない?」
「はぁ? なんで? だって別にそれが翠じゃん?」
その言葉が紅の中ですとんと落ちた気がした。
繕わなくとも、翠の演技をしなくとも、それが翠であると。今まで人に認められる為には翠の演技をするか従わない相手を丸め込む事かどちらかだと紅は考えていた。
しかしそんな事はしなくとも素の翠を認めてくれる人が存在したのだ。今までの翠が絶対に起こさない行動をしても、尚翠だと認識してくれる人がいる。そんな事は今までに無い。
「まーでも流石にもう人殴るのは良くないと思うけど」
「そうね、その通りだと思う。でも理由があったのよ」
簡単に手を出す事も、相手を従わせる事も、すぐに敵を作るのももうやめてもいいのかもしれないと、そう思った。ありのままの自分を受け入れてくれる人がいるのなら、自然体でいても良いのかもしれない。
自然体で過ごす。たったそれだけの事も紅には大きな発見だった。
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