うさぎはくじらを殺したのだろうか

田中潮太

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はじまりの再会

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 待ちきれなかったわたしはお昼ご飯を食べてすぐにおばさんの家を飛び出した。
 階段に座ってとーまお兄さんを待つ。今日はお絵かきは良いかなと思って、ポケットに入れていたスマホを開いた。

 悲しいことに友達がほぼいないわたしのスマホは誰からの連絡も知らせてくれない。SNSもやっていないし、ゲームもしない。ほとんどはママやパパから連絡が来る程度。それだって必要な用事があるときだけ。
 だけど今日は何故かメッセージアプリが誰かからの連絡を知らせていた。
 アプリを開くと一番上に表示されていたのは大学のグループ掲示板だった。教育専攻、その中でも文系に分類される、担任が同じ人たちが集まるグループ。

(あぁ、そういえば……)

 夏休み前。講義で集まるたびに夏休みにキャンプへ行く話で皆が盛り上がっていた。
 予想通り、掲示板にはキャンプの持ち物や連絡事項が投稿されていてコメント欄はそのことで盛り上がっていた。
 そもそもわたしは誘われていない。このグループだって入学すぐに声をかけられて入ったきりで全く発言したことがない。

「みゃう」

「とーまお兄さん!」

 すぐにスマホを閉じて振り返る。

「スマホ、何か見てたの?」
「ううん、ちょっと大学のこと。それよりも昨日、ごめんね。来られなくて……」
「もう来てくれないかと思った」
「まさか! 昨日はおばさんと出かけてて。あっでもね、見たよ。砂浜に描いてあったうさぎ!」

 さすがにもう、そのうさぎの絵は残っていない。

「見てくれたんだ」
「うん。すぐにわかった」

 わたしたちは日常の話をした。
 わたしは昨日、クレーンゲームでクジラのぬいぐるみを取った話をした。とーまお兄さんは最近読んだ本の話。

「みゃうはこの町に来る前、休日は何をしてたの?」
「家にいることが多かったかな」
「家で、何を?」
「家事。あとはテレビを見たり……」

 掃除、洗濯、料理も。それが終わったり合間にテレビをみたり。出かけることはしていなかった。趣味も行きたいところもなくて、大学の帰りに大学近くのゲームセンターをうろうろと歩いて帰るくらい。それほどわたしは普段特別な行動をしていない。

「家の人は?」
「あ、えっとね。ママとパパは仲が良くて、休みの日は一緒にどこかへ出かけるの」
「みゃうは一緒に行かないの?」
「うん。誘われないから」

 誘われないどころか。ママはわたしに「家のことはよろしくね」と言って家を出て行く。
 パパがおみやげを買ってきてくれるし家事を任されても悪い気はしない。あたりまえのこと。
 一緒に行きたい、とも思わないし。

「とーまお兄さんは何をしてたの?」
「この町へ来てからは……そうだな、本を読むか寝るかネットゲームをしてみたこともあるけど……外へはあまり出ないかな」
「外へ出るのは苦手?」
「んー、というか。こんな小さい町だと色んなところに目があるから」
「目?」
「そう。どこからともなく俺やみゃうを見てる目がそこらじゅうに」

 言われてみて初めて気が付く。
 後ろを通りがかるおばさんも浜辺を散歩する夫婦もトラックを運転するおじさんも海沿いに住んでる家の窓からも。
 無数の目がわたしたちを監視している。
 目。
 目。
 目だ。たくさんの目。
 それが途端に怖くなってわたしは自分自身を抱えるようにしてうずくまった。今この瞬間も、目はわたしを見ている。

「怖がらせちゃったね、ごめん」

 小さくなったわたしを引き寄せるようにしてとーまお兄さんはわたしを抱きしめてくれた。
 そうするとわたしたちの周りだけ、膜が出来たように何も、何も感じなくなる。目の気配だって感じられない。
 わたしたちはふたりでいれば無敵だ。
 ふたり一緒なら怖くなんかない。

『八月七日
 わたしたちは一緒にいれば大丈夫』


 朝起きると枕の隣に置いてあったクジラのぬいぐるみと目があった。

「おはよう。みーちゃん」

 わたしはこの子にみーちゃんという名前をつけた。
 とーまお兄さんの名前、都真の都はみやこって読むから。正しくはみやこちゃん。だけどみーちゃんって呼ぶことにした。


「いい天気、だな」

 窓の外をみてぼさぼさ頭のままそう呟くとわたしのスマホがぴろんっと音をたてた。すぐに確認するととーまお兄さんから「おはよう」とメッセージが届いていた。
 昨日、わたしたちは連絡先を交換した。
 こうしておけばどちらかが海に行けなくても連絡ができる。それ以外にも、連絡を取ることができる。これはわたしととーまお兄さんの繋がりだ。

 わたしも「おはよう」と返事をした。今日も午後から海で会えると思う。

 いい天気。日差しがまぶしいから今日は帽子をかぶってきた。とーまお兄さんもフードをかぶっている。
 暑い日だった。だけどそれでも、わたしたちは海に集まることをやめない。

「みゃう。今日は家族の話を聞いてくれない?」
「家族? うん、いいよ」

 とーまお兄さんは話始める。
 とーまお兄さんにはママとパパとお兄さんがいる。

「兄さんは俺と違ってすごいんだ」
「すごい? どんなふうに?」
「小さい頃から頭も良くて社交的で、今も大手の銀行に就職して結婚前提で付き合ってる女性もいる」

 ものすごい、それは天才なんじゃないだろうか。
 人生がとても順風満帆で理想の、世間一般の理想とする人生を歩んでいる。
 わたしも憧れたことがある。何もかもうまくいく幸せな人生。

「俺が兄さんに似てるのは顔だけなんだ。俺は小さい頃から何もかも普通で、だけど兄さんと比べられて馬鹿だって言われてた。だから今でも俺は自分が馬鹿でどうしようもないやつだと思う。社会からもドロップして。あはは、なーんにも、なんにもないや」

 とーまお兄さんの左目からは雫がゆっくりと、重力にそって流れ落ちた。わたしはポケットに入れていた桃色のハンカチでその雫を拭い取る。そこで初めて、とーまお兄さんは自分が泣いていることに気が付いたみたいだった。

「わたしはとーまお兄さんが好きだよ。とーまお兄さんは自分で自分を、そんなふうに思うかもしれないけど。でもわたしはそんなとーまお兄さんが好き」

 思っていること。素直にそう伝えた。
 だってとーまお兄さんが本当に何もなかったらわたしはきっととーまお兄さんに惹かれない……ううん、例え空っぽのとーまお兄さんでもわたしはとーまお兄さんを好きだと思う。
 だってわたしたちは似た者同士。互いが互いの、唯一無二と知っている。

「みゃう。やっぱり、みゃうはいい子だ」
「嘘じゃないよ。わたしはとーまお兄さんが本当に好き」
「ありがとう。ねぇ、今度はみゃうの家族のことを聞かせてよ」

 赤くなった目元もきれいだった。前髪が長くて、きっとわたし以外にこのきれいな目元は見えていない。
 優越感。誰もこの人のことを知らない。わたしだけが知っている。

「うん。いいよ」

 わたしは家族のことを話し始めた。
 ママは長らくシングルマザーでわたしは本当のパパを知らない。十三歳の時にパパが出来た。あとはママが鬱病だってことも。幼い頃はよくママにぶたれたりご飯を貰えなかったりしたこと。

「あと……これは秘密、誰にも話したことはないけど」
 わたしはそれを前置きしてから告げた。
「わたし。今のパパがちょっと苦手」
「みゃうとは気が合わない人?」
「そうじゃないの。優しいし学校の先生もしてる。だけど……だけど……」

 パパに感じた違和感。そのいくつかを思い出すと嫌な気持ちになる。だけどとーまお兄さんになら話してもいい、話したいと思った。

「何かあるわけじゃない。でもパパはママといる時もわたしを見てるの。わたしを、わたしを……」

 思い出す。そしてそれは一回だけじゃない。当たり前の日常のこと。

「なんでママとパパが結婚したのかもなんとなく、わかるの。あの人は……」

 ママは弱い人だ。
 病気で一人で子どもがいて精神が不安定で子どもに当たり散らして。それを知っていれば不安でしかないのに。
 なのに、パパはママと結婚した。

「ママはパパに依存してる。そしてパパも、それを良しとしてる……」
「共依存?」
「うん」

 ママには、精神的にも金銭的にも依存する相手が出来た。
 パパには自分が支配できる女がふたりもできた。

「利害の一致、パパとママの」

「怖いことだ。みゃうは頑張ってる」
 そう慰められると我慢して感じないようにしていた恐怖が沸きあがってきた。ぐっと下唇を噛む。
 突然に。両手で顔を包まれて持ち上げられた。正面から真っすぐ、とーまお兄さんと目があう。

「噛んじゃだめだよ」

 優しく、親指で唇をなぞられて私は力が抜けた。まっすぐ見つめ合う。照れるどころかわたしはとーまお兄さんの真っ黒な目に吸い込まれそうになる。
 やっぱりとーまお兄さんは優しい。
 そう思った時に、この光景は見覚えがあるように思った。
 十三年前。どうしてそうしたかはわからないけど、その時は確かわたしがとーまお兄さんの顔に手をあてた。それを思い出して手を伸ばす。わたしたちはお互いに、互いの顔を手で包み込む。

「もしかして……もしかして、十三年前もこうした?」
「覚えてない?」
「今は。思い出せない」

 ぐらぐらとした不安。だめだ。
 その時になぜこうしたのかはわからない。
 それに今日はどうしてもだめだ。ふわふわとしてる。視界が遮断されていく心地。

「早いけど今日は帰ろうか」

 ぱっと手を離されてわたしは意識が戻る。
 目の前には海。青々とした海。透き通る色とは程遠い、青いろの海だ。

『八月八日
 きょうのことはあまり覚えていない』
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