うさぎはくじらを殺したのだろうか

田中潮太

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はじまりの再会

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 しばらくの間、日記はさぼっていた。
 もちろんその間の出来事は覚えているけど、わたしはベッドの上でぶどうのグミを食べながら唐突に日記の存在を思い出した。

 とーまお兄さんとは変わらず毎日会っていたし、毎晩寝る前におやすみって連絡を取り合った。
 だけど何が深刻かと言えば、わたしはあと一週間程でこの桃果町を出て行かなければならない。
 それはつまりとーまお兄さんと一緒にいられるのはあと一週間ということ。たった、たったの七日間だ。

「あと七日」
「うーん……そうだね」

 今日は目の前に青いろがない。
 ううん、あるにはあるけどそれはわたしの好きな青いろじゃない。
 あるのは青く塗装されたすべり台、ぶらんこ、鉄棒だ。ここは桃果町一丁目公園。この町に住む子どもの数は少ないから、わたしたち大人がこの公園に居座ってもなんら問題はなかった。

「近くで一緒にいられるのは、七日」
「うん」
「でも遠くにいたって……遠く、の定義もわからない。同じ国にいるから近い。同じ惑星。同じ世界」

 それはその通り。わたしの住む町からこの桃果町まではバスと電車を乗り継いで二時間。それなら会いに行ける距離。同じ世界で同じ惑星にいる限りわたしたちはすぐそばにいる。

「それなら今日は秘密の話をしよう」
「秘密?」
「うん。秘密」

 わたしたちは既にたくさん秘密を共有したと思う。だけどまだまだ、とーまお兄さんには秘密があるみたい。
 どんな秘密を教えてもらえるのかとどきどきしているととーまお兄さんは小さな声でその秘密を口にした。

「それが秘密?」
「もちろん」
「そう、そうだね。それが他の人に知られちゃうのはみゃうも嫌」

 その秘密を他の人には話さない。だからわたしももう一つ秘密にしてほしいことを伝えた。このことは前にも伝えたけど、みゃうも一緒で誰にも言わないでほしいとお願いした。

『八月二十四日
 久しぶりの日記。きょうは秘密の話をした。あと一緒にいられるのは六日だけ』



 いつものようにサンダルを履いて家を出て行こうとしたとき、書斎からおばさんに呼び止められた。

「うさぎ。ちょっと」
「何?」

 玄関から返事をする。しかし書斎から手招きされてはそちらへ行かなくてはいけない。履いたばかりのサンダルを脱いでもう一度家へ戻る。

「どうしたの?」

 おばさんの顔は強張っている。みゃうはまた、何か悪いことをしてしまっただろうか。

「うさぎ。これはあなたの為を思っていうけど」

 わたしの為。そのセリフはママとパパの口から何度も聞いた。
 自分の意見を相手に押し付けたいときの常套句だと知っている。

「あの子と関わるのはあまりよくないと思う」
「あの子?」

 それが誰を指すかはわかっていたけどわたしはあえてわからないフリをした。

「三野さん家の。都真くん」
「どうして?」
「あの子も礼子と同じ病気なのよ。うさぎ、一志くんと結婚するまでの礼子がどれだけ大変だったか覚えているでしょ」

 それはもちろん。ママはいつでも不安定だった。
 部屋はどんどん汚れていくし、わたしはママの気分次第で構ってもらえたり、もらえなかったりした。きれいなドレスを着て朝方に帰って来るママが号泣するから、わたしは目を覚ましてそれを慰めたりもした。
 大変だった。でも当時がそれが普通で。嫌な思い出に昇華されたのはつい最近のことだ。

「……でも今日はもう、会う約束をしてるから。行って来るね」

 約束なんかしてない。でも絶対今日もとーまお兄さんは海へと来る。だからわたしも行かなくちゃ。
 おばさんの言葉を無視してわたしは家を飛び出した。

「とーまお兄さん」

 もしかしたらおばさんが家を飛び出してきてわたしを無理矢理に家へ連れ戻すんじゃないか。そんなあり得ない不安を抱えながら海へと急ぐ。
 いた。みえた。

 後ろから声をかけて階段に座る。

「みゃう。遅かったね」
「うん。おばさんに呼び止められて」

 確かにママも鬱病で、それはそれは大変だった。
 だけど今こうして隣にいるとーまお兄さんからはあまりそれは感じられない。

「人間だから泣いちゃうことだってあるもんね」

 確認の意味を込めてそう呟くと「うん」と短く同意してくれた。

「俺はよく、そうなる」

 知っている。とーまお兄さんがよく涙を流すこと。
 だけどママみたいに暴れて泣きわめいたりしない。
 とーまお兄さんはただ、ずっと静かに海をみて涙を流す。最初はわたしも涙を拭う役目を買って出たけど、でも後にそれは間違いだと気が付いた。

「うん。みゃうはとーまお兄さんの泣いてる姿が好きだと思うよ。特別なんだよ」

 そのきれいな雫が流れ落ちる様子を見るのがわたしは好きだ。だってとてもきれいだから。
 きれいなものは、うつくしい。
 そんなことはわかりきっている。きれいでうつくしいから、とーまお兄さんが泣いている姿をわたしはずっと眺めていられる。

「歪み」

 大きな手で頭を撫でられた。

「普通のことだよ。歪んでなんかない。だってきらきらした宝石はみんなきれいだと思うでしょ?」

 言われっぱなしなのが悔しくてわたしは言い返す。
 事実、そうだ。とーまお兄さんはわたしの前でなんの躊躇いもなく涙を流すから。隠したりしない。そこに存在するきらきらした宝石を愛でているだけに過ぎない。

「そうだね。でも十三年前もそうだったでしょ」

 きれい。きれい。すごくきれい。
 十三年前、七歳のみゃうが言った言葉だ。

「いまおもいだした」
「嘘」
「本当は、もう少し前に」
「でしょう」

 今までにわたしは十三年前の、とーまお兄さんとの記憶をほとんど思い出した。トリガーがたくさんあったから。
 十三年前、わたしたちは砂のお城をつくった。
 砂のお城が完成して、お世辞にもそれは上手とは言えなかったけど。そのお城が海に攫われて、その時にもとーまお兄さんは雫を零した。それが最初だ。彼がわたしに涙を見せたのは。

「みゃうだけだよ」
「それは、どっち? わたしの前でだけ泣けるってこと? それとも……」
「どっちも。みゃうの前でだけ泣けるし俺なんかの涙をきれいって言うのは」
「思ってることを言ってるだけだよ」
「素直。いい子」

 再び、今度は優しく頭を撫でられた。
 もう頭を撫でられて喜んで良い歳じゃない。だけどとーまお兄さんの前でならべつに、いいかなって。

『八月二十五日
 わたしは病気の専門家じゃない。それに、例えば風邪を引いている人を十人集めてそれぞれに症状を聞いたとしてみんな症状が同じなわけはない。
 ママは元々感情をバクハツさせる人だった。だけどとーまお兄さんは感情をそんなに出さない。
 同じ病気でもずいぶんと違うのだと思う』

 そもそも病気なんて、誰かが勝手に病名という名前をつけただけだ。他人が決めつけたものに自分を動かされてはだめ。
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