うさぎはくじらを殺したのだろうか

田中潮太

文字の大きさ
13 / 29
現実、日常を見る

しおりを挟む
「うさぎ? 帰ってる?」

 いつものように大学から帰宅して部屋で課題をこなしているとドア越しにママから話しかけられる。
 さっきまでいなかったはずなのに、いつの間に帰ってきたんだろう?

「いるよ」
「ねぇ、開けるよ」

 まだ返事もしていないのにママは勝手にドアを開けて入って来る。勝手に入らなくなっただけマシだし別にやましいことはないけど、なんだかもやもやしちゃう。
 そしていつものように、机に向かうわたしの背後。勝手にベッドに腰掛けて一方的に話始めた。

「ねぇねぇ、実はね。ママ、パートタイムで働こうかなって」

 またかぁ……と正直そう思った。
 定期的にやってくる、ママの働きたい欲。昔は仕事なんてしたくない、あんたの為に仕方なくやってるんだと口癖のように言っていたのに。

「そうなの? いつから?」

 ここで適当な相槌を打つとママの機嫌を損ねると知っていたし、更に言えばそのパートタイムが長続きしないことも知っている。

「うん。良い求人があったの~。ほら、前はおばさん達に妬まれちゃったから、今度は若い人が多くておしゃれなカフェにしようかなぁって」

 前、がいつだったかは忘れたけど確かにそんなことを言っていた。スーパーのレジのバイトを始めたらおばさん達がママを妬んでいじめてくる! って一週間と持たなかったはず。
 ママだってもう四十二歳と、そう若くはないのに。ママの精神年齢はうさぎを産んだ歳ですっかりストップしているみたいだ。

「そうなんだ。どこにあるカフェなの?」
「駅の向こうの住宅街の中にあるの、近いし今日実際に行ってみたけど良い雰囲気。静かでね、客層も落ち着いてる」

 こういう時の行動力はあるんだなぁと少しだけ思う。
 駅の向こう、具体的な場所はわからないけどそれなら徒歩圏内だし電車に乗るのが憂鬱だからとパートをすっぽかすこともないはず。前科があるのをわたしは知っている。

「面接に行ったの?」
「ううん、明日」
「そっか、ママならきっと受かるよ」

 笑顔を向けてそう言えばママは納得がいったように満足気に頷いて部屋を出て行った。ここで「頑張ってね」とか言うと「ママが頑張れないって言いたいの!?」と理不尽に叱られてしまう。さすがにもう二十年目、学習した。
 はぁ、とため息を吐く。ママに関しては憂鬱なことが多すぎる。
 面接に落ちても怒るし、受かったところで長続きはしない。パパはそんなママをなだめることができるけどわたしは正直もうその役目を担いたくない。

 うーん、でも。

 少しはママのことを信じても良いのかな。今度こそ頑張るのかもしれない。今までママの言動や行動に散々振り回されてきた。だからあんまり信用はない。
 だけどわたしはもう大人だから、あまりママに振り回される必要はない。いざとなったら家出でもなんでもすればいい。そう考えると少しだけ気持ちが楽になる。
 再び課題に取り掛かろうとわたしは机に向き直った。


 十月。あれから毎日のようにとーまお兄さんと連絡を取り合っている。お互いの日常の些細なことを話したり、将来のことを話したりとあの海で一緒に語らっていたときとあまり変化はない。
 変化と言えばわたしのピンク髪は未だ維持されているしピアスもあれから開けた。それをまだとーまお兄さんに見せることができていない。

「あれ~……」

 ところで、わたしは困り果てていた。
 今日は担任である柳田先生主催の研修旅行だった。といっても日帰りで少し遠くの動物園に来ているだけでこれは小学生の遠足と変わらない。
 わたしは友達らしい友達がいないのでこの広い動物園を一人で練り歩いていたのだけど、自動販売機の前で立ち尽くしている。何度お金を入れても戻ってきてしまう。一人だからハイペースで歩いていたこともあって喉はカラカラだった。

(売店……うーん、でも)

 所々に売店や軽食を食べるスペースはあるものの、そこには必ずといっていいほど同じ大学の学生がいる。わたしの小さなプライドがそこへ行くのはよせとブレーキをかけてくる。
 あまり良く思われていない、というか空気のように思われているのはわたしが一番よく知っている。この時間も評価のうちに入るそうで、そうじゃなきゃサボっていたと思う。

「何してんの?」
「えっ、あ……」

 突然声をかけられて振り向くと、そこには見覚えのある男の子が、前にもみたような不機嫌な顔で立っていた。

「お金、いれても戻ってきちゃって」

 渡瀬くんだ。名前、覚えてる。
 三年生の渡瀬くんが何故ここに? って疑問はあったもののわたしは素直に問いかけに答えてしまった。

「どれ?」
「オレンジジュース、買いたくて」
「どいて」

 ぶっきらぼうにそう言われてわたしは自販機の前から退く。すると渡瀬くんはポケットに手を突っ込んで小銭を取り出すとそれを自販機に入れて、わたしが飲みたかったオレンジジュースのボタンを押した。

「ん」

 がこんという音と共に落ちてきたそれを渡瀬くんはわたしに手渡した。

「あ……じゃあ、これ」

 機械に拒絶されてしまう百円玉を渡そうと手を伸ばす。しかし渡瀬くんはそれを一瞥すると「いい」と短く返事をしてどこかへ行こうとしてしまう。

「あっ、ありがと! う……」

 その背中に向かって声をかける。しかしこれと言った返事は貰えなかった。
 手の中のオレンジジュースは汗をかいているのに、わたしの気持ちはどこかあたたかかった。だから咄嗟に、その背中を追いかけてしまった。

「ね、ねぇ」

 腕を掴む。そうするとさすがに、振り向いてくれた。切れ長の目に睨まれた気分になる。だけどわたしは精一杯、声を出す。

「あの……良かったら、一緒に回らない?」

 何故そんな提案をしたのかよくわからなかった。だけどわたしはここで彼を呼び止めて、できるならもっと話をしなければと感じてしまった。
 同じ空気を感じていたから。もしくはただ、この箱庭のはみ出し者同士じゃないかと勝手に想像していたから。

「いいけど」

 その四文字。それだけでわたしたちはここで出会った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

愛しているなら拘束してほしい

守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

処理中です...