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現実、日常を見る
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「うさぎ? 帰ってる?」
いつものように大学から帰宅して部屋で課題をこなしているとドア越しにママから話しかけられる。
さっきまでいなかったはずなのに、いつの間に帰ってきたんだろう?
「いるよ」
「ねぇ、開けるよ」
まだ返事もしていないのにママは勝手にドアを開けて入って来る。勝手に入らなくなっただけマシだし別にやましいことはないけど、なんだかもやもやしちゃう。
そしていつものように、机に向かうわたしの背後。勝手にベッドに腰掛けて一方的に話始めた。
「ねぇねぇ、実はね。ママ、パートタイムで働こうかなって」
またかぁ……と正直そう思った。
定期的にやってくる、ママの働きたい欲。昔は仕事なんてしたくない、あんたの為に仕方なくやってるんだと口癖のように言っていたのに。
「そうなの? いつから?」
ここで適当な相槌を打つとママの機嫌を損ねると知っていたし、更に言えばそのパートタイムが長続きしないことも知っている。
「うん。良い求人があったの~。ほら、前はおばさん達に妬まれちゃったから、今度は若い人が多くておしゃれなカフェにしようかなぁって」
前、がいつだったかは忘れたけど確かにそんなことを言っていた。スーパーのレジのバイトを始めたらおばさん達がママを妬んでいじめてくる! って一週間と持たなかったはず。
ママだってもう四十二歳と、そう若くはないのに。ママの精神年齢はうさぎを産んだ歳ですっかりストップしているみたいだ。
「そうなんだ。どこにあるカフェなの?」
「駅の向こうの住宅街の中にあるの、近いし今日実際に行ってみたけど良い雰囲気。静かでね、客層も落ち着いてる」
こういう時の行動力はあるんだなぁと少しだけ思う。
駅の向こう、具体的な場所はわからないけどそれなら徒歩圏内だし電車に乗るのが憂鬱だからとパートをすっぽかすこともないはず。前科があるのをわたしは知っている。
「面接に行ったの?」
「ううん、明日」
「そっか、ママならきっと受かるよ」
笑顔を向けてそう言えばママは納得がいったように満足気に頷いて部屋を出て行った。ここで「頑張ってね」とか言うと「ママが頑張れないって言いたいの!?」と理不尽に叱られてしまう。さすがにもう二十年目、学習した。
はぁ、とため息を吐く。ママに関しては憂鬱なことが多すぎる。
面接に落ちても怒るし、受かったところで長続きはしない。パパはそんなママをなだめることができるけどわたしは正直もうその役目を担いたくない。
うーん、でも。
少しはママのことを信じても良いのかな。今度こそ頑張るのかもしれない。今までママの言動や行動に散々振り回されてきた。だからあんまり信用はない。
だけどわたしはもう大人だから、あまりママに振り回される必要はない。いざとなったら家出でもなんでもすればいい。そう考えると少しだけ気持ちが楽になる。
再び課題に取り掛かろうとわたしは机に向き直った。
十月。あれから毎日のようにとーまお兄さんと連絡を取り合っている。お互いの日常の些細なことを話したり、将来のことを話したりとあの海で一緒に語らっていたときとあまり変化はない。
変化と言えばわたしのピンク髪は未だ維持されているしピアスもあれから開けた。それをまだとーまお兄さんに見せることができていない。
「あれ~……」
ところで、わたしは困り果てていた。
今日は担任である柳田先生主催の研修旅行だった。といっても日帰りで少し遠くの動物園に来ているだけでこれは小学生の遠足と変わらない。
わたしは友達らしい友達がいないのでこの広い動物園を一人で練り歩いていたのだけど、自動販売機の前で立ち尽くしている。何度お金を入れても戻ってきてしまう。一人だからハイペースで歩いていたこともあって喉はカラカラだった。
(売店……うーん、でも)
所々に売店や軽食を食べるスペースはあるものの、そこには必ずといっていいほど同じ大学の学生がいる。わたしの小さなプライドがそこへ行くのはよせとブレーキをかけてくる。
あまり良く思われていない、というか空気のように思われているのはわたしが一番よく知っている。この時間も評価のうちに入るそうで、そうじゃなきゃサボっていたと思う。
「何してんの?」
「えっ、あ……」
突然声をかけられて振り向くと、そこには見覚えのある男の子が、前にもみたような不機嫌な顔で立っていた。
「お金、いれても戻ってきちゃって」
渡瀬くんだ。名前、覚えてる。
三年生の渡瀬くんが何故ここに? って疑問はあったもののわたしは素直に問いかけに答えてしまった。
「どれ?」
「オレンジジュース、買いたくて」
「どいて」
ぶっきらぼうにそう言われてわたしは自販機の前から退く。すると渡瀬くんはポケットに手を突っ込んで小銭を取り出すとそれを自販機に入れて、わたしが飲みたかったオレンジジュースのボタンを押した。
「ん」
がこんという音と共に落ちてきたそれを渡瀬くんはわたしに手渡した。
「あ……じゃあ、これ」
機械に拒絶されてしまう百円玉を渡そうと手を伸ばす。しかし渡瀬くんはそれを一瞥すると「いい」と短く返事をしてどこかへ行こうとしてしまう。
「あっ、ありがと! う……」
その背中に向かって声をかける。しかしこれと言った返事は貰えなかった。
手の中のオレンジジュースは汗をかいているのに、わたしの気持ちはどこかあたたかかった。だから咄嗟に、その背中を追いかけてしまった。
「ね、ねぇ」
腕を掴む。そうするとさすがに、振り向いてくれた。切れ長の目に睨まれた気分になる。だけどわたしは精一杯、声を出す。
「あの……良かったら、一緒に回らない?」
何故そんな提案をしたのかよくわからなかった。だけどわたしはここで彼を呼び止めて、できるならもっと話をしなければと感じてしまった。
同じ空気を感じていたから。もしくはただ、この箱庭のはみ出し者同士じゃないかと勝手に想像していたから。
「いいけど」
その四文字。それだけでわたしたちはここで出会った。
いつものように大学から帰宅して部屋で課題をこなしているとドア越しにママから話しかけられる。
さっきまでいなかったはずなのに、いつの間に帰ってきたんだろう?
「いるよ」
「ねぇ、開けるよ」
まだ返事もしていないのにママは勝手にドアを開けて入って来る。勝手に入らなくなっただけマシだし別にやましいことはないけど、なんだかもやもやしちゃう。
そしていつものように、机に向かうわたしの背後。勝手にベッドに腰掛けて一方的に話始めた。
「ねぇねぇ、実はね。ママ、パートタイムで働こうかなって」
またかぁ……と正直そう思った。
定期的にやってくる、ママの働きたい欲。昔は仕事なんてしたくない、あんたの為に仕方なくやってるんだと口癖のように言っていたのに。
「そうなの? いつから?」
ここで適当な相槌を打つとママの機嫌を損ねると知っていたし、更に言えばそのパートタイムが長続きしないことも知っている。
「うん。良い求人があったの~。ほら、前はおばさん達に妬まれちゃったから、今度は若い人が多くておしゃれなカフェにしようかなぁって」
前、がいつだったかは忘れたけど確かにそんなことを言っていた。スーパーのレジのバイトを始めたらおばさん達がママを妬んでいじめてくる! って一週間と持たなかったはず。
ママだってもう四十二歳と、そう若くはないのに。ママの精神年齢はうさぎを産んだ歳ですっかりストップしているみたいだ。
「そうなんだ。どこにあるカフェなの?」
「駅の向こうの住宅街の中にあるの、近いし今日実際に行ってみたけど良い雰囲気。静かでね、客層も落ち着いてる」
こういう時の行動力はあるんだなぁと少しだけ思う。
駅の向こう、具体的な場所はわからないけどそれなら徒歩圏内だし電車に乗るのが憂鬱だからとパートをすっぽかすこともないはず。前科があるのをわたしは知っている。
「面接に行ったの?」
「ううん、明日」
「そっか、ママならきっと受かるよ」
笑顔を向けてそう言えばママは納得がいったように満足気に頷いて部屋を出て行った。ここで「頑張ってね」とか言うと「ママが頑張れないって言いたいの!?」と理不尽に叱られてしまう。さすがにもう二十年目、学習した。
はぁ、とため息を吐く。ママに関しては憂鬱なことが多すぎる。
面接に落ちても怒るし、受かったところで長続きはしない。パパはそんなママをなだめることができるけどわたしは正直もうその役目を担いたくない。
うーん、でも。
少しはママのことを信じても良いのかな。今度こそ頑張るのかもしれない。今までママの言動や行動に散々振り回されてきた。だからあんまり信用はない。
だけどわたしはもう大人だから、あまりママに振り回される必要はない。いざとなったら家出でもなんでもすればいい。そう考えると少しだけ気持ちが楽になる。
再び課題に取り掛かろうとわたしは机に向き直った。
十月。あれから毎日のようにとーまお兄さんと連絡を取り合っている。お互いの日常の些細なことを話したり、将来のことを話したりとあの海で一緒に語らっていたときとあまり変化はない。
変化と言えばわたしのピンク髪は未だ維持されているしピアスもあれから開けた。それをまだとーまお兄さんに見せることができていない。
「あれ~……」
ところで、わたしは困り果てていた。
今日は担任である柳田先生主催の研修旅行だった。といっても日帰りで少し遠くの動物園に来ているだけでこれは小学生の遠足と変わらない。
わたしは友達らしい友達がいないのでこの広い動物園を一人で練り歩いていたのだけど、自動販売機の前で立ち尽くしている。何度お金を入れても戻ってきてしまう。一人だからハイペースで歩いていたこともあって喉はカラカラだった。
(売店……うーん、でも)
所々に売店や軽食を食べるスペースはあるものの、そこには必ずといっていいほど同じ大学の学生がいる。わたしの小さなプライドがそこへ行くのはよせとブレーキをかけてくる。
あまり良く思われていない、というか空気のように思われているのはわたしが一番よく知っている。この時間も評価のうちに入るそうで、そうじゃなきゃサボっていたと思う。
「何してんの?」
「えっ、あ……」
突然声をかけられて振り向くと、そこには見覚えのある男の子が、前にもみたような不機嫌な顔で立っていた。
「お金、いれても戻ってきちゃって」
渡瀬くんだ。名前、覚えてる。
三年生の渡瀬くんが何故ここに? って疑問はあったもののわたしは素直に問いかけに答えてしまった。
「どれ?」
「オレンジジュース、買いたくて」
「どいて」
ぶっきらぼうにそう言われてわたしは自販機の前から退く。すると渡瀬くんはポケットに手を突っ込んで小銭を取り出すとそれを自販機に入れて、わたしが飲みたかったオレンジジュースのボタンを押した。
「ん」
がこんという音と共に落ちてきたそれを渡瀬くんはわたしに手渡した。
「あ……じゃあ、これ」
機械に拒絶されてしまう百円玉を渡そうと手を伸ばす。しかし渡瀬くんはそれを一瞥すると「いい」と短く返事をしてどこかへ行こうとしてしまう。
「あっ、ありがと! う……」
その背中に向かって声をかける。しかしこれと言った返事は貰えなかった。
手の中のオレンジジュースは汗をかいているのに、わたしの気持ちはどこかあたたかかった。だから咄嗟に、その背中を追いかけてしまった。
「ね、ねぇ」
腕を掴む。そうするとさすがに、振り向いてくれた。切れ長の目に睨まれた気分になる。だけどわたしは精一杯、声を出す。
「あの……良かったら、一緒に回らない?」
何故そんな提案をしたのかよくわからなかった。だけどわたしはここで彼を呼び止めて、できるならもっと話をしなければと感じてしまった。
同じ空気を感じていたから。もしくはただ、この箱庭のはみ出し者同士じゃないかと勝手に想像していたから。
「いいけど」
その四文字。それだけでわたしたちはここで出会った。
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