うさぎはくじらを殺したのだろうか

田中潮太

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現実、日常を見る

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 約束通り、次のお休み。
 渡瀬くんと一週間会っていなかっただけで随分と久しぶりな感じがした。
 ゆっくり話せる場所が良いと、ふたりでカフェに入って隅っこの席に座る。渡瀬くんはコーヒーを頼んで、わたしはオレンジジュースを頼んだ。

「話してなかったことって?」

 わたしは膝の上にあるバッグの中をちらりと見る。みーちゃん。クジラの小さなぬいぐるみ。

「うん。あのね……ええと、ちょっと難しいことかもしれないんだけど」

 わたしはゆっくり、できるだけ言葉を選んで話し始めた。とーまお兄さんの名前こそ出さなかったけど小さい頃に出会って、再会して、未来の約束をしたこと。今でも連絡を欠かさずとっていてお互いが唯一の理解者のように思っていることも、わたしは将来何もかもを捨ててその人と遠くへ行くこと。
 そして大切な友達である渡瀬くんにそのことを話していなかったことも。すべてを。

「……なるほどな。なんだ、思ったより普通のことだった」
「え?」
「実は子どもがいるとか結婚してるとか、借金があるとか。もしくは同性愛者だとか。そういうのを想像してた」
「驚かなかった?」
「驚いたには驚いたけど。要は将来を約束した人がいますってことだろ? もう少し複雑みたいだけど。でもそれなら納得。話してくれてありがとな」

 優しい言葉に、わたしはどうしていいかわからなかった。
 わたしは渡瀬くんの気持ちをふいにしたも同然なのに。傷つけてしまったかもしれないとすら思っていたのに。
 どうすれば良いかわからなくて、すっかりぬるくなってしまったオレンジジュースに口をつけて内心息を吐く。

「あの、ね。都合の良いことを言うかもしれないけど……わたし、渡瀬くんのことは大切な友達だと思ってるよ。恋人、にはなれないけど、でも」
「うん。それもわかった。それならこれからも友達でいようぜ」
「いいの?」
「当然。俺も大学でこんな仲良い奴が出来ると思ってなかったし。例え大学に通ってる間だけでもこんなふうに出かけたり話したりしよう」
「うん。ありがとう」
「おう」

 それからは他愛のない話を重ねた。
 とーまお兄さんがどんな人なのか、それも聞かれたからわたしは素直に答えた。とても繊細だけど綺麗な人だよって。

 友達、お友達。
 孤独でひとりぼっち。そう感じていた過去が塗り替えられていくように、普通の女の子になれた気がして。

 けれどその一方で、まだ問題が残っていた。
 とーまお兄さんはわたしに友達がいることを知らない。
お互い孤独で、寄り添っていた。それなのにわたしだけ友達を作って楽しく過ごしていることをとーまお兄さんが受け入れてくれるのかわからなかった。
 約束をやぶったと非難されるかも。悲しんでしまうかも。でも、そうして泣いてくれたら……なんて思うわたしもいる。でもとーまお兄さんが泣いている時にそれを見ることができないのはとっても嫌だから。やっぱり、渡瀬くんのことは内緒にするべきかな。
 今日、秘密の相手に秘密をつくった。悪い子でもいいや。いずれは全部なくなっちゃうものだから。

「やっぱり三屋はおもしろいよ」
「おもしろい?」
「うん」

 おもしろい、かぁ。
 つまんない人間だと思っていたけどこう言ってくれる人もいる。なんだか不思議だ。
 次にとーまお兄さんに会えるのは春休み。その時にどんな話をしよう? どうやって過ごそうか。結局とーまお兄さんのことを考えてしまう。
 友達のことで頭を悩ませても結局わたしの心はとーまお兄さんのところにあるんだなと、急にとーまお兄さんのことが恋しくなった。


 とーまお兄さんとは相変わらず連絡を取っていた。日常の些細なことを報告しあっている。家にいる限りママやパパに聞かれるかもしれないから長い時間電話をすることができないけど、それでもたまにお互いの声を聞いていた。
 冬休みになるとわたしはたまに外へ出てとーまお兄さんと電話を繋ぐ。そろそろ、おばさんに電話をして春休みに泊りにいく許可を貰わなきゃいけないかも、そんなことを考えていた頃にわたしはママとパパに呼び出された。

「話ってなに?」

 リビング。食卓テーブルの反対側にはママとパパが座っている。ママの視線は目の前のわたしよりパパに向いていて、それは明確なことだった。

「あぁ。進路のことなんだけど」

 パパが話し始めてドキッとした。
 わたしの中の計画。まだはっきり決めたわけじゃないけど、とーまお兄さんと話していたこと。
 わたしは教師にならない。一般企業に就職する――内定だけ貰って大学を卒業したら遠くへ姿を消す。姿を消した後で内定辞退をする。一年間はフリーターとしてお金をためながら海の見える町の学校の就職試験を受ける。

「うさぎは当然、教師になるんだよな?」

 それは想像に容易い質問だった。
 わたしたちの計画の難関はパパとママに一般企業に就職することを納得させること。
 これについては色々なパターンを考えていて、教員試験にわざと受からず仕方なく一般企業に入るかもしくは教師に近い職業、塾講師や家庭教師の会社を志していることにすること。
 しかしまだ計画途中だ。なんて答えたらいいのか……。

「うーん、と。もちろん先生にはなりたいよ。だけど、たくさんの生徒たち相手に、先生になれるのか不安で」

 慎重に言葉を選びながらそう答えるとパパに意識を向けっぱなしだったママがいつもの、侮蔑したような目線でわたしを真っすぐに射貫いた。

「うさぎはいじめられっ子だったもんね。こんなにいい子なのに、きっといい子すぎて目を付けられたんだわ」

 わざとらしい。
 本当のところ、ママはわたしがいじめられて当然だと思っているし言われたこともある。パパがいるから、そんなふうに言ってるだけ。

「うさぎは真面目だし良い教師になれるよ。それでパパからアドバイスなんだけど、生徒の質が良い学校に絞って試験を受けるべきだと思うんだ」
「生徒の質?」

 その言葉に違和感を覚える。生徒に質も何も、その存在に優劣をつけるような発言。差別的だ。とはいえこのパパからそんな発言が出ること自体は違和感がなく、そう考えていてもおかしくないなとすら思ってしまう。

「あぁ。偏差値の高い進学校なら生徒達も落ち着いているから。そのぶん授業する側は大変だろうけど、底辺高校じゃまともに授業するのも難しいからね」

 言いたいことは、わからなくもない。
 現にわたしは定時制高校に通っていたから不良のような生徒も多くて、授業によっては中々成り立たないものもあった。大人しめな先生は生徒に舐められていたしあれは可哀想だった。
 言われてみればわたしはきっと生徒に舐められるタイプの先生だ。だからパパの言い分もわからないこともない。だけどわたしの一番はとーまお兄さんと一緒にいることで、そこでわたしが生徒に舐められるかとか学校のレベルだとかそういうのは関係ない。

「うん、考えてみる」
「学校のことはパパが詳しいから。就活が本格的になったらなんでも相談してほしい」

 相談してほしい。その言葉はある種の命令だ。

「ありがとう、パパ……」
「ね、血が繋がってないのに本当の親子のようでママは嬉しい」

 ママの意識も視線もパパに向いている。
 違うよ、わたしがママやパパの思い通りに行動しているだけ、流されてきただけだよって心の中でだけ毒づいた。というかわたしよりたった十二歳年上なだけで、ママと再婚したから戸籍上父親なだけで、学校でもそんな地位が高い年齢でもないのに、こんなに偉そうに父親面するなんて嫌になっちゃう。

「冬休みの課題があるから部屋に戻るね。ママもパパもありがとう」

 表面上の感謝を伝えればそれ以上引き留められることはなかった。
 部屋に戻ったわたしはまず机の上に課題を開いて、次にスマホを取り出した。とーまお兄さんからの返信はまだない。だけど両親に就職のことを心配されたとメッセージを送る。

 スマホを投げ出して課題に向き合おうとしたけど生憎気分じゃなかった。そもそも海が見えるような田舎の学校の先生の倍率ってすごく高いんじゃないだろうか? いきなりその町の外から来た人が先生だなんて名乗っても受け入れられないんじゃないだろうか? そんな不安が過る。
 こんな現実味を帯びた悩みは意味がないんじゃないだろうか?

(そう、夢だけ……幻想だけを)

 それはみーちゃんが囁いてきたような、そんな気がした。
 今のわたしは現実にいる。大学に通って友達とおしゃべりをしてバイトに行く。
 だけどあの海が見える桃果町にいたときはどうだろう?
 とーまお兄さんと一緒に過ごしたあの時間。それは七歳の頃も、二十歳の今もそう。まるで夢の中みたいだ。
 あれは夢だったのかな? わたしの、みゃうの妄想? 
 そう考えると急に怖くなってわたしは投げ出したスマホを手に取ってメッセージアプリを起動した。きちんと確認する、「都真」の名前。大丈夫、とーまお兄さんは存在してる。

「ちょっと、うさぎー?」

 その声で途端に現実に戻る。

「ママ? どうかした?」

うさぎは返事をした。そして咄嗟に、机の上に放置していたシャープペンを握ってあたかも課題に取り組んでいたような姿勢を作る。

「今から買い物に行って来るけど何か欲しいものある?」
「ううん、ないよ」
「そう。わかった」

 足音は去っていく。ほっと胸を撫でおろして再びシャープペンを机の上に置いた。
 ママがわざわざそんなことを聞いてくるなんて。よっぽど気分がいいのかパパに言われたのか……どっちでもいいけど。ママと話すたびにもやもやしちゃって最悪だ。
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