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小学生「酒井樹」

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 毎日学校に行って、勉強に励み友達と遊ぶ。時には喧嘩をすることもあるけれど、仲直りしてまた遊ぶ。
 いつまでもこんな楽しい日々が続くのだと、思っていたんだ。
 酒井樹は小学五年生。友達も多く、笑顔が絶えない、快活な男の子だった。
 樹の周りにはいつだって友達がいて、勉強も一生懸命取り組んでいたから先生からも可愛がられていた。
「酒井はいつも周りの人から好かれていて、何も心配ないな」
 こんな言葉をかけられることはよくあることだった。

 けれどそれは外向けのいい子な役柄を無理矢理演じていただけであった。人には言えずにいた悩みを一人で抱え込んでいた。
 家庭内暴力。それが樹本人に及ぶことは稀であったが、何よりもその場面を見続けていたことが樹の何よりの悩みであった。
 父親から母親への暴力は日常茶飯事。母親は樹には心配をかけまいと強がる日々。
 子どもである樹にはどうしていいかわからず、母親の言葉を信じることしか出来なかった。
 父親は表向きは人当たりの良い、とても暴力とは結び付かない性格を通していた。それ故に、樹か母親が言い出さない限り表沙汰になることがなかった。
 母親がいない時、樹と父親の二人きりの際には樹へも父親の暴力は行われていた。表沙汰になれば、立場がないのをわかっているから外見ではわからないように。
 樹にとっては体の痛みもそうだが、心への痛みの方が辛かった。なんでこんなことをされているんだ…その思いはいつしか、自分が耐えていれば良いんだ…というものへと変わっていった。
 家に居るのが辛かった。母親の日に日に弱っていく姿を見ていたくなかった。
 それでも、周囲に心配を掛けたくないという思いが働いてしまい、誰にも言えずにひたすら耐える日々が続いた。
 酷い父親であることは明白。学校や警察にでも相談していれば、すぐにでも離婚や別居という話になり、平穏な生活を送ることも出来たのだろう。
 しかしそれは世間体を重んじている父親が断固として止めていた。もしその手の行動を匂わせでもすれば、暴力による支配が始まる。樹には手を出さずとも、母親に手を上げる場面を見せてしまえば樹には十分効果がある。そうやって父親の支配は続いた。

 そんな生活は樹が小学校に上がった頃から続いていた。人に相談することも許されず、何か話そうものなら母親が酷い目に合う。
 樹には父親の手が及ばない学校で、思いっきり楽しむことしか出来なかった。父親のように暴れるのではなく、仲良く手を取り合うような人間関係を築き、平和的に過ごす。樹が強く望んでいた生活を学校で形成していたのだ。
 学校は楽しかった。何に悩むこともなく、怯えることもなく、笑っていられる。学校があるから、家でのことがあっても明るく生きていける。今は辛くても、いつか、解放されるはず。
 そんな思いは現実によって打ち砕かれる。
 母親がいなくなった。自殺である。
 度重なる暴力に耐えられなくなり、家出を決行するも、また暴力を振るわれる生活に戻ってしまうかもしれないという恐怖から、自殺を選んでしまった。
 これにより樹の生活も一変する。
 父親が元凶であることがわかり、樹から遠ざけることとなる。まだ小学生の樹が一人で生活していけるわけもなく、遠くに住む母親の祖父母宅に引き取られる。
 今まで築き上げてきた学校という生活の場も、自分がいなくなってしまえば意味を成さない。
 両親を失い、積み上げてきた信頼関係も全て一から構成し直すようになってしまった。
 
 この時になって樹は改めて考えてみた。どこかで状況を変えられなかっただろうか。父親に怯えず、勇気を出して周りに相談していれば今の状態にはならなかったんじゃないだろうか。
 母親を救うことも出来たのではないだろうか。
 一番大切な現実から目を背けていたことをハッキリと実感していた。大きな過ちを犯していたと、後悔の念に駆られていた。

 しばらく、樹は塞ぎ込んでいた。誰とも会わず話さず、やつれていくばかり。祖父母もどう声をかけていいかわからず、樹はもうずっと一人なんだと思い込んでいた。

 一月が過ぎた頃、樹の元に前の学校の友達や先生達が訪れてきた。
 樹はとても会う気になれず、皆が帰るまで部屋に篭っていた。
 皆が帰った後、祖父母が樹へと一通の手紙を手渡した。

「樹へ
 いつも明るくてみんなの中心だった樹の苦しみに気づいてあげられなくてごめん。
 自分はそんな悩んでいたのに、一切感じさせず周りの俺らを助けてくれて、笑顔にさせてくれて、いつもいつもありがとう。
 こんなことになった後じゃ、もういろいろ手遅れだけど、俺たちはずっと樹の友達だから。
 いつでも連絡してきなよ! 」

 みんなの言葉が響いた。なんのことはない、励ましの言葉だったけど、今まで一度としてかけてもらったことがなかった言葉。
 自分のことばかり考えていて、周りの人がどう思っていたかなんて気にせず、信用し切らずに信用させていた。
 そのことに気付かされた。あれだけのことがありながら、涙の一つも流さなかったのに、手紙を読んだ後、とめどなく涙が溢れ出した。人との信頼関係を本物にするためには、弱さもさらけ出せるようにしなくちゃいけないと、この時初めて気付いたのだ。

 その後、樹は本当の意味で人を信用できるようになった。いろんなことを話すうちに離れていく人もいた。
 だが、自分の弱いところも汚いところも受け入れてくれる、真に信用できる人を見つけることも出来た。
 人を信用できるかどうかは、まず自分が相手を信用しきれるかどうか、真実の人間関係を築くことの大切さを、凄惨な事件からでも学べたのは、酒井樹にとっての生涯一の財産となっている。
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