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第三章『年を経た友』
32 均衡による停滞は即ち平和。そして別れ
しおりを挟む僕が七つの世界に再召喚されて二年が経った。
二ヶ月ほど前に、魔術協会と魔術党、そして魔術協会と戦争をしていた大陸の東側国家同盟の三者が協定を結ぶ。
魔術協会の中で、強硬派の主導者達が軒並み権力を失い、代わりに穏健派の主導者が協会を率いる事になったからだ。
それに弱まった魔術協会、勢力を増した魔術党、大陸の東側国家同盟の三者の力は大差が無くなり、今は均衡が取れた状態になっている。
魔術協会と東側国家同盟は先ず停戦の協定を。
大陸の西側は元の国家の枠組みを少しずつ復活させるが、魔術協会と魔術党は勢力を保持し、国家が再び魔術師を虐げない様に監視する。
そして魔術協会と魔術党自体も、互いを監視し合い、抑止し合う。
また東側国家同盟と、魔術協会、魔術党は、定期的に会議を開き、この大陸の問題に関して話し合いを持つ等が協定の内容だった。
魔術師達は戦いと話し合いの果てに、己等が理知的な存在である事を証明したのだ。
魔術協会と魔術党は一つの組織に戻るべきだとの声もあったが、今や双方の組織の力関係はほぼ釣り合いが取れてしまっている。
どちらの組織を主体とするにしても、一つになれば揉め事の原因になるのは確実だし、何より矢張り一つの組織が持つ力が大きくなり過ぎるのは問題だろう。
だから今更元の鞘には戻れない。
勢力の大きくなった魔術党は名前を魔術連盟へと変え、その盟主にアニー・ミットを据えようとする。
しかしアニーは盟主の座を固辞し、グレイ・アース、師匠がグラモンさんと同門だったと言っていた、あの男性魔術師を推薦した。
まあ魔術連盟の今後は、もう僕には関係ない。
グレイへの親近感は多少あるが、既に十二分に協力はしたのだ。
後は彼等の努力がこの世界の明日を作って行くだろう。
其れよりも僕にとって大事なのは、盟主の座を固辞したアニーが、既にもう覚悟と準備を済ませているであろう事。
僕とアニーの間に交わされた、全ての契約は果たされた。
対価の支払いの時、そしてレニスとの別れの時が、今まさに訪れる。
「結局、気持ちは変わらないんだね?」
僕の問いに、アニーは黙って頷いた。
傍らのレニスは唇を噛み、少し辛そうな表情をしているが、其れでも何も言いはしない。
既に十分すぎる程、二人の間では話し合いが行われたのだろう。
僕が空を見上げれば、今日も変わらず七つの月が煌々と輝いて地表を照らす。
月の光には魔力が宿る。
頃合いも良い。
当人の覚悟が決まっていて、唯一の家族も其れを止められなかったなら、もう僕からの言うべき事は無かった。
「ではアニー、僕と君の間に交わされた契約は全て果たされた。僕は君から対価を貰う」
僕の言葉に、アニーは流石に顔に緊張の色を浮かべながらも、前に進みでて膝を突く。
今回の契約で僕がアニーから受け取るのは、全てだ。
全てを受け取り、僕は彼女を悪魔に変える。
「果たされた契約の対価として、私は全てをレプト君に捧げます」
僕は垂れたままのアニーの頭に手を置き、……レニスの隣に居るベラに、ちらりと視線を送った。
勿論レニスが暴走した際に、咄嗟に彼女を止める為である。
レニスは随分落ち着きを身に付けたし、重ねた話し合いで覚悟を決めても居るだろうけど、其れでも唯一の家族を失おうとしているのだ。
その心情は計り知れない。
けれども、今此処で手出しをされて僕の集中が乱れると、アニーにとっての危険が大きくなるだろう。
悪魔化に親和性のある魔獣や妖精であったベラやピスカとは違い、人間のアニーを悪魔にするなら、全てを一度僕の中に取り込む必要がある。
その方法には多大な集中力が必要で、邪魔が入れば僕が無事に、アニーをアニーとして悪魔に出来ない可能性があるのだ。
視線の意味を察したベラが、一歩レニスに寄り添った。
「ならば僕はアニー・ミットの全てを受け取り、我が眷属の悪魔と変えよう」
その言葉と同時にアニーの身体が光に、闇に、魔力になって、魂と共に僕の中へと取り込まれる。
僕は其れ等全てと、僕の一部を混ぜ合わせて、少しずつ馴染ませて行く。
一気に混ぜれば、アニーの魂は形を失い崩れ去ってしまう。
だからゆっくりと、ゆっくりと。
魂の形を保たせたまま悪魔化を進め、形が崩れそうになった時は、僕はアニーとの思い出から彼女を抽出して注ぎ、その形を何とか保持する。
……どれくらいそうしていただろう?
僕の胸の中に、一体の悪魔が生まれた。
さあ、お披露目の時である。
ずぶりと、僕の胸から手が生えて、掻き分けるように胸を開け、頭が、身体が、足が、ずるりと滑り出す。
痛くはないけど、自分の中から人型のモノが出て来るのは、正直あまり気持ちの良い物では無い。
恐らく、多分、成功だ。
彼女はきっと、アニーのままに悪魔となった。
難事を果たせた事に、僕は内心で安堵の溜息を吐く。
でも此処までは前提条件に過ぎない。
僕は以前レニスに、どんな形であれアニーとレニスの繋がりは保つと宣言した。
だから本当に大事なのは此処からなのだ。
僕の前で立ち上がるのは、栗色の髪をし、引き締まっているのに、ごく一部はとても豊かな身体をした一人の女悪魔。
角も、翼も、尻尾もある。
……でもまあ服が無いのは仕方ない。だってそんな余裕なかったし。
「さて、新たに生まれた悪魔にして僕の友人よ。君は自分の事がわかるかい? 名前は思い出せるかな?」
名前を呼ばずに、問いかける僕。
恐らく僕の考えが正しければ、自我はそのままでも、彼女の名前は失われている。
何故ならアニー・ミットは人間としての名前で、今の彼女はそうでは無いから。
「勿論よ、レプト君。私は全部覚えてる。君のしてくれた事もグラモンさんの事も、レニスの事も、全部。……なのに不思議ね。自分の名前だけが思い出せないの」
予想通りの答えに、僕は満足して頷く。
新しい自分に嬉しそうだが、でも少し不安げな様子の彼女。
「当然だよ。だって人間から悪魔に変わったのだから、人間としての名前はもう今の自分を指し示さない。僕もそうなって、レプトって名前をグラモンさんに貰ったんだ」
そう、僕はグラモンさんに名前を貰い、レプトになったのだ。
だからグラモンさんが亡くなった後も、彼との繋がりは僕の名前として残ってる。
「……そう、少し寂しいけど、仕方ないわ。ならレプト君。友達にして主様、私に新しい名を」
うっかり彼女の名を呼ぶ様なへまをしないで、漸く此処まで辿り着いた。
だから僕は、彼女の願いに首を横に振る。
「確かに新しい名前は必要だね。でも其れを付けるのは僕じゃない。レニス、其れは君の役割だ」
僕は涙を浮かべてこの光景を見守っていた、レニスを振り返りそう告げた。
「「えっ?」」
驚きの声は二つ。
彼女とレニス、その何方もが目を丸くして僕を見ている。
そんな二人の表情はそっくりで、僕は思わず笑みを浮かべた。
「名前は単なる言葉じゃない。僕等自身を表すモノだ。名前を付けた相手とは、その名が失われない限り繋がりが生まれる。血の繋がり何かよりもずっと強い繋がりが」
僕は彼女達の関係を詳しくは知らないし、追及する心算も無い。
だが彼女達の間に絆がある事は知っていて、其れはどうしても残してやりたかったのだ。
「勿論名付けを拒否する事も出来るよ。心の底から受け入れる事を拒めるならね」
僕の言葉に、いち早く驚きから立ち直ったのはレニスだった。
レニスは目元の涙を拭うと大きく息を吸い、
「新しい名前は『アニス』よ。御婆ちゃんのアニーと、私のレニス、両方を合わせてアニスなの。ねぇ御婆ちゃん、悪魔になっても良いから、私を一人にしないでよ!」
大きくその名を叫ぶ。
走って来て縋り付いたレニスの泣き声混じりの叫びに、アニー改め、アニスは困惑と、けれども喜びの混じった表情を浮かべる。
「ねぇ、レプト君。どうしてくれるの? 私の孫が独り立ちしそこなったんだけど」
そう言って僕を睨み付けて来るが、そんなの知った事では無い。
本当にそうしたければ、もっと上手く育てて、もっと上手く誘導すれば良かったのだ。
其れを途中から僕に任せっぱなしにしたのだから、こうなっても仕方は無いだろう。
「知らないよアニス。僕は君とは友人だけど、それでも僕は生徒の味方だよ。そもそも、そうしたのは君だろう? あとレニス、レニス・ミット。甘えるんじゃない」
悪魔であるアニスは、僕が退去すればこの世界に残れない。
そして僕もこの世界での契約は全て果たし、もう滞在時間は残っていなかった。
其れは泣こうが叫ぼうが、それはもう変わらないのだ。
「君の祖母、アニー・ミットは僕が残した手紙一枚で、僕を再びこの世界に召喚した。その孫である君が、自分で名付けを行った悪魔を召喚出来ない筈がないだろう。確かに今は無理だとしても、君は必ず其れを可能にする。君に魔術を教えた悪魔、レプトが保証しよう」
成すべき事は全て成し、言うべき事も言った。
僕は世界からの退去を開始する。様子を見守っていたベラも、ピスカも一緒に。
最後に、レニスを抱き返したアニスは何かを彼女の耳元で囁いて、頷くのを確認してから世界を去る。
僕の二度目の七つの世界への召喚は、こうして幕を下ろした。
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