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第四章『主を遺す老臣』
53 悪魔の執着
しおりを挟む僕等がこの世界に来て、十年程が経った頃だろうか。
ある日屋敷の一部屋で、静かに酒を飲むアニスを見付けた。
僅かに部屋に漂う香りから察するに、あの酒は酒精の強い、此の世界の技術では未だ造られてない酒だ。
つまりは此の世界ではアニスしか仕入れる事の出来ない高級品である。
アニスは僕が部屋に入って来た事に気付くと、少し寂しそうに微笑む。
「悪魔になって、良い事も色々あるけれど、でも好きな様に酔えなくなったのが難点ね」
そう言って彼女はグラスに酒を注ぎ、一気に煽った。
アニスのその言葉に、僕は少し首を傾げる。
僕が初めて酒を飲んだのは悪魔になってからだったので、酔った事が無いのでわからないが、あまりメリットはない気がするのだ。
「酔って良い事ない気がするけど、酩酊したいなら再現しようか?」
配下の悪魔を酩酊させる位なら、受け入れてくれればほんの少しの干渉で可能だろう。
後は悪魔王グラーゼンが悪魔でも酔える酒を持っていると言っていた。
今度アニスの為に、分けて貰っても良いかも知れない。
「違うわ、そう言う事じゃ無いの。其れじゃ風情が無いわよ。レプト君は本当にお子様ね。でも、それで良いわ。今日は本当に酔いたいの。お願いできる?」
アニスは一度老齢に達するまで人間として生きた大人である。
しかし彼女の特徴は、其れでも翳る事の無い快活さであったのだけど、……今はその快活さが見る影もなく弱々し気だ。
僕はアニスの額に手を当てて、ほんの僅かに干渉を行う。
あまり普段は配下に対しての干渉はしないのだけど、今の彼女は少し心配だった。
軽い酩酊と軽い多幸感、酒に依って得られる物に近しいだろう其の状態に、アニスの状態を調節する。
干渉を終えて手を離せば、アニスはまた一口酒を煽った。
「……ふぅ、うん。思ったより、良いかもね。レプト君、座って、ちょっと付き合ってよ」
そう言ってアニスは正面の席でなく、自分の隣の席をポンポンと叩く。
うん、僕は酒に酔った経験が無いけど、知ってる。
何だか目が座ってるから、此れが噂に聞く悪い酒って奴だ。
でもまぁ、別にアニスが相手なら絡まれるのもそんなに苦痛では無い。
多分聞いて欲しい事があるんだろう。
僕は席に着き、収納から薄切りの燻製肉を盛った皿を取り出してテーブルに置く。
「あー、気が利く! でもレプト君本当に、ソレは私よりずっと上手くなったわね。私が教えた術なのに」
アニスは早速一切れ摘まんで口に運び、目を細めた後にまるで僕を非難するかの様に唇を尖らせた。
どうして皿を出しただけで絡まれるのかは本当に不思議だが、収納に関しては確かにそうかも知れない。
何だかんだで、僕が一番良く使う魔法はこの収納魔法だ。
後一つ、アニスから教わったのは門を出す転移術があるが、其方に関しては彼女に敵う気がしないけれども。
「でも其れって、術の腕って言うより、僕が物を溜め込むのが好きってだけじゃない?」
悪魔となってある程度以上の実力を身に付けたなら、収納内の容量も使い切れない程になるし、収納内の物品の状態を固定する事も容易い。
内容物の検索等の、収納をより使い易くする為の機能等は付け足したが、別に其れも技術的には大した事じゃ無かった。
だから結局の所、僕とアニスの収納魔法の活用度に差があるとすれば、其れは気質の違いが生み出す物に過ぎないだろう。
まあ僕の場合、今まで悪魔としてこなした契約の内容が、安全に過ごせる拠点の提供と言った物が多かった為、物資の確保には余裕を持つ癖が付いただけだ。
一方のアニスは、彼方此方に動くのが好きで、尚且つ何処へでも行ける能力を手に入れた為、溜め込む事に然程の執着が無い。
他愛の無い話をしながら、僕はゆっくりと、アニスはかぱかぱとグラスの酒を空けて行く。
当然酒瓶は直ぐに空になるのだが、アニスは直ぐに収納から新しい酒瓶を取り出して開ける。
いや、まぁ、僕等は悪魔なので酒で身体を壊したりしないから良いのだけれど、流石にその消費の仕方は勿体ないよね。
他の世界から持って来ているとは言え、別に盗んだ訳じゃ無くて対価を支払って購入した品なのだ。
もう少し、味わって飲んだ方が良い気がしてしまう。
「ねぇ、レプト君。私ね、振られたの」
でも、僕はその事を注意出来なかった。
何故アニスが落ち込み、寂しがり、そして荒れた風を見せているのかを理解したから。
この絡み方は、彼女なりの甘え方なのだ。
「そっか、レニスはそうなったか。……あの子らしい気はするね」
悪魔の齎す誘惑に、死の間際に首を縦に振らない。
その強さは、悪魔になる事を選んだ僕やアニスには無い物だ。
僕は単純に死にたくなかったから、アニスが悪魔になった理由を詳しくは知らないけれど、多分もっと広い世界が見たかったんだろう。
悪魔の傷は、同種である悪魔同士でしか舐め合えない。
だから僕はアニスの傷を舐めて、其の痛みを紛らわすけれど、でもその前に一つだけ言う事がある。
「おめでとうアニス。君の孫は立派だよ。君は胸を張って良い。だからこそ、君は本当に悪魔になったね」
僕も以前、同じ経験をした。
あの頃は未だ其の意味も良くわかって無かったけど、グラモンさんを悪魔になる道に誘って、そして断られたのだ。
多分其れまでの僕は、人間を止めはしたけど悪魔にはなり切れてなかったと思う。
「昔ね、伝承の悪魔は何で人間を堕落させようとするんだろうって、不思議に思った事があるんだよ」
魂を契約で縛る為にしたって、もっと効率の良い方法は幾らでもある。
堕落させる事を楽しむのだとしても、遊びならば失敗を心底悔しがりはしまい。
「僕はね、伝承の悪魔達は、誰かどうしても堕落させて、自分と一緒にしてしまいたい人が居て、だから人間を堕落させる練習をしてるんだと思ってるよ」
手を伸ばし、隣に座るアニスの栗色の髪に触れる。
本当に、今のアニスの心中は複雑だろう。
悪魔になったばかりのアニスなら、レニスが同じ道に来る事はきっと望まなかった。
否、今でも心の中の多くはそうなのかも知れない。
でも同時に悪魔になって一緒に過ごして欲しい気持ちだって嘘じゃないのだ。
死んで行くレニスを見ていられ無くて、でも口に出した言葉は否定されて、安堵して哀しくて、誇らしくてやるせなくて。
けれども、これで終わりじゃない。
「僕達は、繋がりを持ってる。僕はグラモンさんに名付けられ、君はレニスに名付けられた。例え生まれ変わっても、その繋がりは決して消えない」
悪魔である僕等は基本的には不死不滅の存在だ。
勿論より他の悪魔や天使等と、現界せずに魔界等で戦ったりすれば消滅する恐れは無くもないが、まあそんな事は滅多に起きない例外である。
だから長い時間を掛けて、何度でも挑戦出来るだろう。
「レニスが生まれ変わったら、また其の世界に会いに行けば良い。何度でもね。アニスの何処へだって行ける力は、きっとその為にあるんだから」
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