短編集

明人

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大切なものをなくしました

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昔読んだ本を思い出した。多くの困難を乗り越え、最後には幸福な未来を掴み取る物語だ。
僕はその本が嫌いだった。
現実はそう上手くいくものではない。下げたくもない頭を下げ、自分のためにはさほど使えない金を機械的に稼ぐつまらない人生だ。
子供達が巣立ち、2人きりになった家での会話はほとんどない。
おはよう。おはようございます。
いってらっしゃい。いってきます。
ただいま。おかえりなさい。
おやすみ。おやすみなさい。
夫婦で挨拶だけの日々。
そんなある日

妻が亡くなった。

事故ではなく病だった。気づけなかった。倒れている妻を見つけ、すぐに救急車を呼んだが彼女の心臓が再び動くことはなかった。
何十年も添い続けていたはずなのに涙は出なかった。
妻が亡くなって家が汚くなった。いつも通り過ごしたはずなのにいつもと違う景色に妻の影を見た。
風呂に入ってシャンプーが無くなったことに驚いた。今まで切れたことなどなかったからだ。
好物のハンバーグはいつもと比べ物にならないほど不味かった。
洗濯物をして乾いたシャツはクシャクシャだ。いつも見るピシッとのりの効いたシャツは存在しない。
沢山の驚きを得てようやく僕は嗚咽を漏らし、実感した。
僕は、大切な物をなくしました。

end
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