音楽魔法具店の歌姫

ほか

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第1幕 歌うバロタン・ボックス

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 初出勤日。ティナは日の出とともに『音楽魔法具店』を訪れた。

 しんと静まり返った応接室。奥の給湯室には赤い絨毯の階段がある。
 二階に住まいがあるらしいヒューは、まだ降りてきていないようだ。

 まずは窓を開け放ち、朝の新鮮な空気を肺一杯に吸い込んだ。
 いろいろと複雑ないきさつはあるにせよ、ともかくやると決めたからには、精いっぱい努めよう。
 一人頷くとティナは、用具を探して掃除をしたり、花瓶に出勤途中で買ってきた花を飾って、環境整備にいそしんだ。


「これはどうしたことだろう」

 開店時間の半刻ほど前。午前十時半頃。
 三面のガラスがピカピカに磨かれ、部屋に黄色いバラに添えた月桃のほのかな甘い香りが満ちるころ、そんな声をこぼしながらヒューが降りてきた。

「部屋全体が見違えるようだ。劇団の看板女優だったときはボタンつけ一つできなかったきみが」


 扉に看板を出し終えたティナが振り向きざま得意げに微笑む。

「あれから一年も経つのよ」

「いやぁ、朝、新鮮な空気を入れ替えるだけで、こうも心持が違うとはね」

 胸いっぱいにその空気を堪能するヒューを見ていると、多少心配になってくる。

「あなた、ちゃんと生活してるの? ごはんとか、家事とか」

 昨日来たときには気にならなかったが、掃除に熱中してみると、ピアノや棚の裏なんかに見えないほこりが結構出てきた。

 思わず真剣に訊いてみると、なぜだが逆に心配そうな顔をされる。

「ティナ。……まさか、まさかっ」


 ヒューは急に後ずさり、その拍子に片足をどんっと机にぶつけた。

「もうほかの男の世話をしているなんてことはあるまいね?」

 すがるような眼差しで、よく言うものだ。
 少しだけティナの中に意地悪な気持ちがわいてくる。

「そうだとして、なんのふしぎがあるかしら? どこかのダメ男に手ひどく裏切られ地位も失った女性が、新たな手にすがりたくなったとしても、おかしくないわ」

 容赦なく言うと、がっくりと、半身を机にもたれたままヒューはぼやいた。

「わかっているさ。きみを責める権利なんか一ミリもありはしない。でも。だけど。……いや、ショックだ」

 明らかにしおれている姿を見て、やれやれと息を吐き出す。
 不本意ながら、少しだけ気が緩んでしまう。

「いないわよ、そんな人。男の人には懲りたの」
 え、と顔を上げるヒューの隣の窓辺に立ち、朝市の花の香りを楽しみながら言う。
「世話を焼く価値があるのは、この世でたった一人、かわいい妹だけ」

 ぱぁぁぁっと効果音でもさせるかのように大仰に顔を上げ、ヒューは足取りも軽く執務机に向かった。

「そうか、妹さんか! たしか今頃は、初等教育を終えるくらいの年だったかな? よく話してくれたね。ダンスの才能があるとか」

 途端に多弁になるその姿に、密かに肩をすくめる。
 昔からこの人はわりと単純だった。

「元気にしているかい?」

「去年の秋に、コッツウォルズの実家からロンドンのわたしのアパートに移って来たの。パーヴェル音楽学校への進学を期に」
 初等教育を終えた十一才以上の者が入学を許される音楽のパブリックスクールだ。
「そりゃすごい。名門じゃないか。お姉さんに憧れてミュージカルスター志望かい?」
「まぁ……舞台に立ってみたいようね」
「待てよ」
 机の上に整理された書類を確認する手を止め、ヒューははたと首をかしげた。
「すると、きみと二人暮らし?」
 最重大事項の確認のような語調に、ティナは首をかしげる。
「そうだけど……」
 首肯すると、ヒューは書類から手を離し腕を組んだ。
「それはいけないなぁ。この世辞辛い大都会に女性二人なんて。なにかと物騒じゃないかい?」
 そして、意味もなく一度話した書類の端を折ったり直したりしながら、ぼそぼそと、ヒューの言葉がテーブルの上に落下する。

「その。……よければだね、つまり、なにか力になれたら――」

「そうでもないわ」

 ティナの視線の先では、通りを挟んでカフェでモーニングを楽しんだり、深緑もさかりのプラタナスの並木道を塗って通勤する人々が立ち動いていく。

「妹はしっかりしているし。このあいだなんて、『お姉ちゃんを泣かせた男なんか、全身切り裂きジャックの刑にして、足にヴィクトリア像をくくりつけて、ロンドン橋に沈めるか、ロンドンアイから突き落してあげる!』って、それは無邪気に」

「……え?」

 もじもじした動きをヒューがぴたりと止めたとき、扉を開ける音が響いた。
 部屋の中央にあるアンティーク風の柱時計に目をやればもう開店時間間近。さっそくお客様のようだ。

 呆然としているヒューをほうっておいて、ティナは給湯室へ急いだ。
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