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5章 近くて遠い
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氷が溶けてすっかり薄まったミルクティーを一度口にし、考える。「もしかして……」亜希は口を開くが、わかるわけないだろうと、彼は余裕の表情で自分のグラスを手にしている。
「春乃さんのためですか?」
その名を聞いた途端、航は目を丸くしてむせた。手で口を覆い苦しそうに咳き込むのに、「大丈夫ですか」と亜希は声をかける。が、その言葉は耳に入らなかったのか、なんとか落ち着いた彼は眉根を寄せてじとりとこちらを見た。
「もしかして、苗字は飯田?」
「そうですね」
「なんで知ってんの」
思わず、内緒ですと言ってやり返してやろうかとも思う。しかし彼にこの話題で冗談は通じなさそうだと判断し、亜希は夏休み前に龍太郎と出かけた先で春乃に会ったことを話した。
「来栖くんとも、会いたいみたいでしたよ」
彼は大きくため息をついて頭をかいた。
「私が知ってたこと、不満ですか」
「不満っていうか……まさかうちの事情知ってるとは思わなかったからさ。意外だったんだよ」
「春乃さん、来栖くんのことすごく気にかけてて……」彼の写真を見たことは伏せておく。「それで、来栖くんも春乃さんのこと大事なのかなって。春乃さん、お金がなくて進学できないって言ってたから、もしかして来栖くんが働く目的はそのためなのかと思ったんです」
彼は腕を組み、再度ため息をついた。今回のそれは、観念の吐息だった。「……そうだよ」降参、とでも言いたげだ。
「姉さんは諦めたって言ってるけど、本当は進学したがってるの知ってるからさ。金で解決できるんなら、どうにかしたいんだよ。取り合えず、入学金としばらくの学費があれば、考え直してくれるかもしれないし」
「そのことは、話してないんですか」
「優しいから、俺が自分のために働いてるって知ったら、委縮しちゃうと思うんだよ。俺が苦労してるとかいって気に病ませるのも嫌だし、拒否されても困るし。一度に渡した方が、断れないだろうから」
「もし、それでも進学してくれなかったら」
「万が一そうなったら、家出る時の足しにしてもらうよ。バイトしてるのに使い込まれてるから。それでも金があれば逃げられるだろ」
春乃は航を心配していた。それと同じように、航も春乃の将来を心配している。
「俺の親父さ、今も昔も女好きのクズなんだよ。姉さんの母親と結婚してた時も、店で仕事だって全然帰らないで女と遊んでたわけ。そんで二年で愛想尽かされて別れたんだ」
「不倫してたのがバレて……」
「前からバレてたけど、金だけは家に入れてたから、見過ごされてたんだよ。そんでもいい加減プライドが許さなかったみたいで、離婚になった」
亜希にとって、それらは随分遠い世界の話に思える。幸いなことに、不倫だの離婚だの、そういった話とはこれまで無縁のまま生きてきたからだ。
「そんで親父有責なのに、姉さんの母親も変にプライド高くてさ、クズの施しなんか受けたくないって慰謝料受け取らなかったんだ。馬鹿だよ、ほんと。それがあれば娘の進学に当てられたし、そうでなくとも姉さんがバイト代貯金することだって出来たのに。そのうえ自分が前の旦那と借金で揉めて別れたからって、姉さんが奨学金貰うのも許さないんだ」
彼は苦虫を噛み潰したような表情をしている。それが、いつも飄々と生きている彼の本心に見え、亜希は少しでもそれを理解しようと自分に置き換えて考えてみる。が、極めて平々凡々な自分の人生と、彼の非凡な生き方はなかなか重ならない。二本の線の接点は、クラスメイトとアルバイト仲間というその二つしかない。
「……大変なんですね。来栖くんも、春乃さんも」
口にできたのは、そんな間の抜けた台詞だった。少しも機転の利かないことに亜希が自己嫌悪を覚えるほど、仕様のない言葉だ。
「きっと、喜んでくれますよ」自分の言葉をフォローするようになんとか繋げる。
彼は何も言わず、ストローを咥えて中身を飲み干した。亜希も黙って自分のミルクティーに口をつける。
「俺はさ」
窓のを外を見つめながら、航が言う。
「幸せになって欲しいんだ。姉さんに」
あの夏の日、終始にこにこと笑っていた春乃は、優しく可愛い人だった。彼が不貞を働く実父より、自分を大事に想ってくれる義理の姉を大切にすることは何の不思議でもない。
「その為なら、惜しいことなんて何もないよ」
彼女の進学という夢が叶うことを、彼もただ願っているのだった。
気づけば、予定していた一時間はとうに過ぎていた。
駅の中にある店だったから、改札は目と鼻の先だ。駅から徒歩圏内に住んでいる彼は、店を出て少し歩くと改札の前で立ち止まる。
「そんじゃ、また学校で」
ひらひらと手を振るのに、亜希も小さく手を振り返す。それを見ると彼は方向転換し、駅の出口の方へ向かって行く。
「あの」
声が届く距離にいる内にと、亜希は咄嗟に彼を呼び止めていた。足を止めて怪訝な顔で振り向く航。
「教えてくれて、ありがとうございました」
ぺこりとお辞儀をして顔を上げる。呆れた風に笑う彼は、そのままズボンのポケットに右手を入れ、チョコレート菓子の小袋を取り出すと軽く振る。そして再度こちらを向く背中は、次第に遠ざかっていった。
彼は賢い。けれども気づかなかっただろうと、亜希は思う。「教えてくれて」の言葉が、勉強だけを指しているわけではないことに。そして、彼が独りぼっちの場所に戻ることを、自分がこんなにも寂しく思っていることに。
「春乃さんのためですか?」
その名を聞いた途端、航は目を丸くしてむせた。手で口を覆い苦しそうに咳き込むのに、「大丈夫ですか」と亜希は声をかける。が、その言葉は耳に入らなかったのか、なんとか落ち着いた彼は眉根を寄せてじとりとこちらを見た。
「もしかして、苗字は飯田?」
「そうですね」
「なんで知ってんの」
思わず、内緒ですと言ってやり返してやろうかとも思う。しかし彼にこの話題で冗談は通じなさそうだと判断し、亜希は夏休み前に龍太郎と出かけた先で春乃に会ったことを話した。
「来栖くんとも、会いたいみたいでしたよ」
彼は大きくため息をついて頭をかいた。
「私が知ってたこと、不満ですか」
「不満っていうか……まさかうちの事情知ってるとは思わなかったからさ。意外だったんだよ」
「春乃さん、来栖くんのことすごく気にかけてて……」彼の写真を見たことは伏せておく。「それで、来栖くんも春乃さんのこと大事なのかなって。春乃さん、お金がなくて進学できないって言ってたから、もしかして来栖くんが働く目的はそのためなのかと思ったんです」
彼は腕を組み、再度ため息をついた。今回のそれは、観念の吐息だった。「……そうだよ」降参、とでも言いたげだ。
「姉さんは諦めたって言ってるけど、本当は進学したがってるの知ってるからさ。金で解決できるんなら、どうにかしたいんだよ。取り合えず、入学金としばらくの学費があれば、考え直してくれるかもしれないし」
「そのことは、話してないんですか」
「優しいから、俺が自分のために働いてるって知ったら、委縮しちゃうと思うんだよ。俺が苦労してるとかいって気に病ませるのも嫌だし、拒否されても困るし。一度に渡した方が、断れないだろうから」
「もし、それでも進学してくれなかったら」
「万が一そうなったら、家出る時の足しにしてもらうよ。バイトしてるのに使い込まれてるから。それでも金があれば逃げられるだろ」
春乃は航を心配していた。それと同じように、航も春乃の将来を心配している。
「俺の親父さ、今も昔も女好きのクズなんだよ。姉さんの母親と結婚してた時も、店で仕事だって全然帰らないで女と遊んでたわけ。そんで二年で愛想尽かされて別れたんだ」
「不倫してたのがバレて……」
「前からバレてたけど、金だけは家に入れてたから、見過ごされてたんだよ。そんでもいい加減プライドが許さなかったみたいで、離婚になった」
亜希にとって、それらは随分遠い世界の話に思える。幸いなことに、不倫だの離婚だの、そういった話とはこれまで無縁のまま生きてきたからだ。
「そんで親父有責なのに、姉さんの母親も変にプライド高くてさ、クズの施しなんか受けたくないって慰謝料受け取らなかったんだ。馬鹿だよ、ほんと。それがあれば娘の進学に当てられたし、そうでなくとも姉さんがバイト代貯金することだって出来たのに。そのうえ自分が前の旦那と借金で揉めて別れたからって、姉さんが奨学金貰うのも許さないんだ」
彼は苦虫を噛み潰したような表情をしている。それが、いつも飄々と生きている彼の本心に見え、亜希は少しでもそれを理解しようと自分に置き換えて考えてみる。が、極めて平々凡々な自分の人生と、彼の非凡な生き方はなかなか重ならない。二本の線の接点は、クラスメイトとアルバイト仲間というその二つしかない。
「……大変なんですね。来栖くんも、春乃さんも」
口にできたのは、そんな間の抜けた台詞だった。少しも機転の利かないことに亜希が自己嫌悪を覚えるほど、仕様のない言葉だ。
「きっと、喜んでくれますよ」自分の言葉をフォローするようになんとか繋げる。
彼は何も言わず、ストローを咥えて中身を飲み干した。亜希も黙って自分のミルクティーに口をつける。
「俺はさ」
窓のを外を見つめながら、航が言う。
「幸せになって欲しいんだ。姉さんに」
あの夏の日、終始にこにこと笑っていた春乃は、優しく可愛い人だった。彼が不貞を働く実父より、自分を大事に想ってくれる義理の姉を大切にすることは何の不思議でもない。
「その為なら、惜しいことなんて何もないよ」
彼女の進学という夢が叶うことを、彼もただ願っているのだった。
気づけば、予定していた一時間はとうに過ぎていた。
駅の中にある店だったから、改札は目と鼻の先だ。駅から徒歩圏内に住んでいる彼は、店を出て少し歩くと改札の前で立ち止まる。
「そんじゃ、また学校で」
ひらひらと手を振るのに、亜希も小さく手を振り返す。それを見ると彼は方向転換し、駅の出口の方へ向かって行く。
「あの」
声が届く距離にいる内にと、亜希は咄嗟に彼を呼び止めていた。足を止めて怪訝な顔で振り向く航。
「教えてくれて、ありがとうございました」
ぺこりとお辞儀をして顔を上げる。呆れた風に笑う彼は、そのままズボンのポケットに右手を入れ、チョコレート菓子の小袋を取り出すと軽く振る。そして再度こちらを向く背中は、次第に遠ざかっていった。
彼は賢い。けれども気づかなかっただろうと、亜希は思う。「教えてくれて」の言葉が、勉強だけを指しているわけではないことに。そして、彼が独りぼっちの場所に戻ることを、自分がこんなにも寂しく思っていることに。
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