32 / 48
7章 楓
5
しおりを挟む
「楓、ちょっとペン貸してくれ」
航が手を差し出す。楓は不思議そうに、手元のボールペンを彼に手渡した。
右手に持ったそれで、彼はチラシの余白に数字を書いていく。ハイフンで繋がった十一桁の数列は、電話番号だった。
「これ、俺の電話番号だから。何かあったらすぐにかけてこいよ」
「なにかって、なに?」
「腹が減ったとか、助けてほしいとか、なんでもいいよ。いつでも逃げてきていいから」
差し出されたチラシの数字を、楓は幾度か呟く。眠たげなとろんとした声で、覚えてしまおうと繰り返す。
「いいな。約束してくれよ」
「うん。やくそくする」
頷いて差し出される小指に、航も自分の小指を絡めた。
指切りを終えると、航は彼の頭に手を乗せて少し乱暴に撫でる。
「さ、もう寝な。いくら明日が休みっていっても、限界があるだろ」
「まだおきれるよ」
「駄目。小一なんだから、たくさん寝とけ」
眠くないと言い張り楓はぐずる。だが眠気には抗えないのか、航に促されて歯磨きを終えた頃には、目をしょぼしょぼさせていた。
隣の和室には、三組の布団がぎゅうぎゅうに敷かれていた。「ねたくない」と眠たげに囁く彼を、亜希と航は奥に寝かせ、毛布と布団をかけてやる。
「また、いっしょにごはんたべようね」
「うん。約束だね」
枕元に膝をつき、亜希は楓と指切りをした。
「おやすみ、楓くん」
「楓、おまえは大丈夫だ」航は楓の頬の痣をそっと撫でた。「いい夢見ろよ」
寝たくないと言っていた楓はやはり疲れていたようで、五分もすると寝息を立てて眠りについた。名残惜しいが、亜希と航は部屋を出て炬燵のスイッチと電灯を切り、静かに外に出る。預かっていた鍵で施錠し、新聞受けに鍵を入れた。カタン、と小さな音を聞いてその場を去る。
時刻は既に十時。二人は互いに黙ったまま帰路を辿る。風が髪を撫でていく。
普段の自分なら、決してこんなことはしなかった。亜希は思う。七歳の子どもの話を鵜呑みにして、他人の家に上がって弁当を食べて団欒するなんて、そんな非常識な真似など出来ない。
しかし楓はひどく喜んでいた。自分たちと居ると楽しいと言って、終始笑っていた。あの笑顔を見られたのだから、この選択は間違っていなかったのでは、なんて思ってしまう。
間違いないはずの潔癖が、間違ったものに思えてくる。非常識な判断は、幼い心の救いになった。自分が十六年で育んだ常識は、必ずしも常に正解ではないのかもしれない。
「楓くん、大丈夫でしょうか」
亜希は視線を伏せたまま呟いた。
「あの怪我、きっと……」
「そうだろうな」
航は亜希の言いたいことを察して頷く。楓が二人の居る店まで来たのも、家で食べたいとごねたのも、心が寂しくなったからだ。不条理な仕打ちで傷つけられた心は、無意識に助けを求めていたのだ。
「でも、身体に傷はなかったよ。あの痣だけだ」
亜希は顔を上げて航の横顔を見る。彼は前を向いたまま。
「風呂で言ってたけど、年内に引き取られるってさ。少なくともあと一か月ちょっとなら、きっと大丈夫だ」
航が楓を風呂に誘った理由をやっと理解する。傷を確認したいから服を脱げと言われても、楓は警戒するだろう。だから彼が喜ぶ方法を取ったのだ。共に風呂に入れば、楓の傷を確認し、なおかつ彼を笑顔に出来る。
そこまで考えが及ばなかったことに、亜希は少しだけ恥ずかしくなる。
「もし大丈夫じゃなくても、あいつは賢いから、電話ぐらいかけられる」
「……そうですね」
そんな場面にならなければいいが。あと少しで事態が好転するのなら、いつでも触れられる距離で見守るのが一番だろう。
「来栖くん、楓くんのことが本当に大事なんですね」
「水無瀬は違うのか」
「私だって、大事に想ってますよ。でも、そこまで思いつけなかったから」
亜希が笑うと、航も微かに笑った。みんなに良いことが起きればいい。だが、それを願うあの子に、とにかく幸せになって欲しい。駅までの道のり、ただそう願う。
航が手を差し出す。楓は不思議そうに、手元のボールペンを彼に手渡した。
右手に持ったそれで、彼はチラシの余白に数字を書いていく。ハイフンで繋がった十一桁の数列は、電話番号だった。
「これ、俺の電話番号だから。何かあったらすぐにかけてこいよ」
「なにかって、なに?」
「腹が減ったとか、助けてほしいとか、なんでもいいよ。いつでも逃げてきていいから」
差し出されたチラシの数字を、楓は幾度か呟く。眠たげなとろんとした声で、覚えてしまおうと繰り返す。
「いいな。約束してくれよ」
「うん。やくそくする」
頷いて差し出される小指に、航も自分の小指を絡めた。
指切りを終えると、航は彼の頭に手を乗せて少し乱暴に撫でる。
「さ、もう寝な。いくら明日が休みっていっても、限界があるだろ」
「まだおきれるよ」
「駄目。小一なんだから、たくさん寝とけ」
眠くないと言い張り楓はぐずる。だが眠気には抗えないのか、航に促されて歯磨きを終えた頃には、目をしょぼしょぼさせていた。
隣の和室には、三組の布団がぎゅうぎゅうに敷かれていた。「ねたくない」と眠たげに囁く彼を、亜希と航は奥に寝かせ、毛布と布団をかけてやる。
「また、いっしょにごはんたべようね」
「うん。約束だね」
枕元に膝をつき、亜希は楓と指切りをした。
「おやすみ、楓くん」
「楓、おまえは大丈夫だ」航は楓の頬の痣をそっと撫でた。「いい夢見ろよ」
寝たくないと言っていた楓はやはり疲れていたようで、五分もすると寝息を立てて眠りについた。名残惜しいが、亜希と航は部屋を出て炬燵のスイッチと電灯を切り、静かに外に出る。預かっていた鍵で施錠し、新聞受けに鍵を入れた。カタン、と小さな音を聞いてその場を去る。
時刻は既に十時。二人は互いに黙ったまま帰路を辿る。風が髪を撫でていく。
普段の自分なら、決してこんなことはしなかった。亜希は思う。七歳の子どもの話を鵜呑みにして、他人の家に上がって弁当を食べて団欒するなんて、そんな非常識な真似など出来ない。
しかし楓はひどく喜んでいた。自分たちと居ると楽しいと言って、終始笑っていた。あの笑顔を見られたのだから、この選択は間違っていなかったのでは、なんて思ってしまう。
間違いないはずの潔癖が、間違ったものに思えてくる。非常識な判断は、幼い心の救いになった。自分が十六年で育んだ常識は、必ずしも常に正解ではないのかもしれない。
「楓くん、大丈夫でしょうか」
亜希は視線を伏せたまま呟いた。
「あの怪我、きっと……」
「そうだろうな」
航は亜希の言いたいことを察して頷く。楓が二人の居る店まで来たのも、家で食べたいとごねたのも、心が寂しくなったからだ。不条理な仕打ちで傷つけられた心は、無意識に助けを求めていたのだ。
「でも、身体に傷はなかったよ。あの痣だけだ」
亜希は顔を上げて航の横顔を見る。彼は前を向いたまま。
「風呂で言ってたけど、年内に引き取られるってさ。少なくともあと一か月ちょっとなら、きっと大丈夫だ」
航が楓を風呂に誘った理由をやっと理解する。傷を確認したいから服を脱げと言われても、楓は警戒するだろう。だから彼が喜ぶ方法を取ったのだ。共に風呂に入れば、楓の傷を確認し、なおかつ彼を笑顔に出来る。
そこまで考えが及ばなかったことに、亜希は少しだけ恥ずかしくなる。
「もし大丈夫じゃなくても、あいつは賢いから、電話ぐらいかけられる」
「……そうですね」
そんな場面にならなければいいが。あと少しで事態が好転するのなら、いつでも触れられる距離で見守るのが一番だろう。
「来栖くん、楓くんのことが本当に大事なんですね」
「水無瀬は違うのか」
「私だって、大事に想ってますよ。でも、そこまで思いつけなかったから」
亜希が笑うと、航も微かに笑った。みんなに良いことが起きればいい。だが、それを願うあの子に、とにかく幸せになって欲しい。駅までの道のり、ただそう願う。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる