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9章 航
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どうするべきか迷い続けたが、何を迷っているのかも自分自身、よく分かっていない。
春乃との約束は絶対に無視できない。かと言って、航がショックを受ける姿も見たくない。
「亜希ちゃん、お疲れさま」
「お疲れさまでした」
遂に訪れてしまった金曜日、亜希は八時までの仕事を終え、挨拶をして店を出た。やけに暗い夜で、見上げても夜空に月や星はない。一面に雲が敷き詰められていて、明日の雨を予感させる。
この天気だ、早く帰るに越したことはない。
そう思いながら、亜希は駅の向かいにあるチェーンの喫茶店に入った。安いオレンジジュースを注文し、カウンター席に腰を下ろす。温かいものを頼まなかったことを一瞬後悔したが、暖房が強すぎるほどに効いているから、これでも良しとする。
鞄からノートと参考書を取り出し、苦手な化学の勉強に取り掛かった。
外は雨が降りそうだ。腹も随分減っている。家では風呂を沸かしてくれているに違いない。さっさと帰るべきだ。帰るべきなのに、スマートフォンに伸びた手は、「遅くなるかも」と母にメッセージを送っていた。
陽子や電子や中性子の説明を読んでいても、ちっとも頭に入ってこない。必死になって集中し、ふと顔を上げて歩く人々に目をやって、ため息を吐く。
「なにしてるんだろ……」
いくら天邪鬼な理由を並べ立てたところで、自分が航を探しているのは事実だった。金曜日、駅。それだけの情報で、会えるかどうかわからない彼と鉢合わせようとしている。
昼間は学校だから、放課後。航は今日のシフトに入っていなかったが、春乃は電車を乗り継いでやって来るはずだ。だから六時とか七時とか、待ち合わせはそんな時間だろう。
しかしすぐに解散していれば既に帰っているだろうし、駅から離れた場所に移動していたら、会える確率はぐっと下がる。
それでも会おうとして待っているだなんて、まるでストーカーではないか。
ぱたんと音を立てて、亜希は参考書を閉じた。止めよう。こんなの気持ち悪い。嫌われたって仕方がない。すぐに帰ってご飯を食べて、落ち着こう。
ジュースを飲み干し、のろのろと片付けをする。頭では分かっているのに、気が進まない。あと一分待てば会えるかもという期待と、ストーカー紛いになりたくないという理性がせめぎ合う。
重い足取りで店を出た時、気が付いた、ぽつりぽつりと雨粒がアスファルトを濡らし始めている。
生憎、折り畳み傘も持ってきていない。地元の駅から家までは徒歩だ。迎えに来てもらうのも忍びない。もったいないが、冬の雨に濡れて風邪をひく方がもったいないと、近くのコンビニに飛び込んだ。随分と割高な値段に辟易しながら、ビニール傘を一本買う。
雨脚が次第に強さを増す中、傘をさして横断歩道を渡った。傘を忘れた人たちが、急いで駅の中に走っていく。たちまち出来た水たまりに、信号や街灯の光が浮かんで揺れている。タクシー乗り場にはあっという間に長い列ができた。
それらを見ながら視線を巡らせて、亜希は足を止めた。駅の出入り口に、二人の高校生がいる。制服のままの来栖航と飯田春乃が、雨の降る夜空を並んで見上げている。
春乃が彼に何かを言った。恐らく「傘持ってる?」と。
航も彼女に返事をした。恐らく「持ってる」と。
彼女はいつも通りの優しい表情で笑いかけ、彼も彼女にしか見せない笑顔を向ける。家族というよりは、誰がどう見ても仲の良い高校生カップル。だが二人は、ただのカップルでは及ばない、強い絆で結びついている。相手を誰より大切に思い、だからこそひどく傷つくこともある。
春乃が航の両手を握って軽く振り、解いた右手を軽く振る。航も手を振り、駅の中、改札の方へ消えていく彼女を見送る。見えなくなるまで、ずっとずっと、手を振り続ける。
その手をぱたりと落とし、彼は振り返った。細い両肩はすっかり落ち、春乃に見せていたのとは真逆の無表情で、大粒の雨を引っ切り無しに降らせる空を見上げる。
打ちひしがれた彼は、やがてそのまま歩き出した。制服の身体一つで、とぼとぼと駅から離れて行く。誰もが傘をさして足早に行く道を、ひとりぼっちでびしょ濡れになって去っていく。
彼は、春乃に教えなかった。今まで自分が必死に働いてきた理由を、幸せを目前とした彼女に告げなかった。そしてこの日を目指し、夢見た彼は、今もたった一人でさ迷っている。
亜希は走り出していた。水たまりを蹴って、駅の前を通り過ぎ、疲れ切った航に駆け寄る。
足を止めた彼に、握っていたビニール傘をさしかけた。
彼は一度目を見張り、何かを言おうとしたが、結局何も言わずに再び歩き出す。
既にずぶ濡れの彼がこれ以上濡れないよう、亜希も傘をさしたまま隣を歩く。傘からはみ出る左肩に冷たい雨粒が触れるが、ただ黙って歩を進める。
ゆっくり、ゆっくりと。二人は歩く。
春乃との約束は絶対に無視できない。かと言って、航がショックを受ける姿も見たくない。
「亜希ちゃん、お疲れさま」
「お疲れさまでした」
遂に訪れてしまった金曜日、亜希は八時までの仕事を終え、挨拶をして店を出た。やけに暗い夜で、見上げても夜空に月や星はない。一面に雲が敷き詰められていて、明日の雨を予感させる。
この天気だ、早く帰るに越したことはない。
そう思いながら、亜希は駅の向かいにあるチェーンの喫茶店に入った。安いオレンジジュースを注文し、カウンター席に腰を下ろす。温かいものを頼まなかったことを一瞬後悔したが、暖房が強すぎるほどに効いているから、これでも良しとする。
鞄からノートと参考書を取り出し、苦手な化学の勉強に取り掛かった。
外は雨が降りそうだ。腹も随分減っている。家では風呂を沸かしてくれているに違いない。さっさと帰るべきだ。帰るべきなのに、スマートフォンに伸びた手は、「遅くなるかも」と母にメッセージを送っていた。
陽子や電子や中性子の説明を読んでいても、ちっとも頭に入ってこない。必死になって集中し、ふと顔を上げて歩く人々に目をやって、ため息を吐く。
「なにしてるんだろ……」
いくら天邪鬼な理由を並べ立てたところで、自分が航を探しているのは事実だった。金曜日、駅。それだけの情報で、会えるかどうかわからない彼と鉢合わせようとしている。
昼間は学校だから、放課後。航は今日のシフトに入っていなかったが、春乃は電車を乗り継いでやって来るはずだ。だから六時とか七時とか、待ち合わせはそんな時間だろう。
しかしすぐに解散していれば既に帰っているだろうし、駅から離れた場所に移動していたら、会える確率はぐっと下がる。
それでも会おうとして待っているだなんて、まるでストーカーではないか。
ぱたんと音を立てて、亜希は参考書を閉じた。止めよう。こんなの気持ち悪い。嫌われたって仕方がない。すぐに帰ってご飯を食べて、落ち着こう。
ジュースを飲み干し、のろのろと片付けをする。頭では分かっているのに、気が進まない。あと一分待てば会えるかもという期待と、ストーカー紛いになりたくないという理性がせめぎ合う。
重い足取りで店を出た時、気が付いた、ぽつりぽつりと雨粒がアスファルトを濡らし始めている。
生憎、折り畳み傘も持ってきていない。地元の駅から家までは徒歩だ。迎えに来てもらうのも忍びない。もったいないが、冬の雨に濡れて風邪をひく方がもったいないと、近くのコンビニに飛び込んだ。随分と割高な値段に辟易しながら、ビニール傘を一本買う。
雨脚が次第に強さを増す中、傘をさして横断歩道を渡った。傘を忘れた人たちが、急いで駅の中に走っていく。たちまち出来た水たまりに、信号や街灯の光が浮かんで揺れている。タクシー乗り場にはあっという間に長い列ができた。
それらを見ながら視線を巡らせて、亜希は足を止めた。駅の出入り口に、二人の高校生がいる。制服のままの来栖航と飯田春乃が、雨の降る夜空を並んで見上げている。
春乃が彼に何かを言った。恐らく「傘持ってる?」と。
航も彼女に返事をした。恐らく「持ってる」と。
彼女はいつも通りの優しい表情で笑いかけ、彼も彼女にしか見せない笑顔を向ける。家族というよりは、誰がどう見ても仲の良い高校生カップル。だが二人は、ただのカップルでは及ばない、強い絆で結びついている。相手を誰より大切に思い、だからこそひどく傷つくこともある。
春乃が航の両手を握って軽く振り、解いた右手を軽く振る。航も手を振り、駅の中、改札の方へ消えていく彼女を見送る。見えなくなるまで、ずっとずっと、手を振り続ける。
その手をぱたりと落とし、彼は振り返った。細い両肩はすっかり落ち、春乃に見せていたのとは真逆の無表情で、大粒の雨を引っ切り無しに降らせる空を見上げる。
打ちひしがれた彼は、やがてそのまま歩き出した。制服の身体一つで、とぼとぼと駅から離れて行く。誰もが傘をさして足早に行く道を、ひとりぼっちでびしょ濡れになって去っていく。
彼は、春乃に教えなかった。今まで自分が必死に働いてきた理由を、幸せを目前とした彼女に告げなかった。そしてこの日を目指し、夢見た彼は、今もたった一人でさ迷っている。
亜希は走り出していた。水たまりを蹴って、駅の前を通り過ぎ、疲れ切った航に駆け寄る。
足を止めた彼に、握っていたビニール傘をさしかけた。
彼は一度目を見張り、何かを言おうとしたが、結局何も言わずに再び歩き出す。
既にずぶ濡れの彼がこれ以上濡れないよう、亜希も傘をさしたまま隣を歩く。傘からはみ出る左肩に冷たい雨粒が触れるが、ただ黙って歩を進める。
ゆっくり、ゆっくりと。二人は歩く。
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