百万回目の大好き

柴野日向

文字の大きさ
35 / 35
3章 百万回目の大好き

21-2

しおりを挟む
 たどり着いたのは、屋上だった。陽光に照らされ、春先のうららかな風が吹く。見下ろした運動場には、ホームルームを終えて最後の記念撮影に望む生徒たちの姿があった。
 やはり緊張していた彼は、誰もいないそこでようやく夏実の手を離すと、力の入っていた肩を下ろす。彼女と向かい合うと、久々に笑ってみせた。
「夏実先輩って、教室では大人しいんですね」
 突然の意地悪な台詞に、夏実も咄嗟に反論した。
「そ、そうでもないよ。偶然そう見えただけ」
 偶然を主張する夏実は、余計に彼の言いたいことがわからなくなる。もう会話すらしない、顔すら見ないことを覚悟したはずなのに。こうして現れるだなんて、理解ができない。
 それでも、久々にその姿を目にすることができて、声を聞くことができて、戸惑いと共に嬉しさがこみ上げる。冷えていたはずの心臓が、どきどきと鳴る。不安と喜びが綯交ぜになって、何も言えない。
「久しぶりだけど、元気でしたか」
「うん……元気だよ」
「元気なようには見えないけど」
「びっくりしてるだけ。全然元気」
「こっちだって、びっくりしたんですよ。急に消えちゃうから」
「……消えてなんかないよ」
 麻斗の前でだけ。彼の前から消えていただけ。消えなければならないと思ったから。
「私は、麻斗を騙してたんだよ。見るだけで、腹が立つでしょ。傷ついちゃうでしょ。勝手だけど、私はもう、麻斗を傷つけたくない」
「だから、嫌いになりましたか」
 はっとして、俯きかけた視線を上げる。彼の口元は笑っているのに、その目は真剣そのもので、決して誤魔化しは許さないと語っていた。真実を知りたいのだと言っていた。だから夏実も、唇を軽く噛んで、本当のことを訴える。
「……嫌いに、なりたかったよ」
 いくら足掻いても、嫌いになんて、なれるわけがなかった。
「どうして、そんな意地悪なこと言うの」
「もう、すれ違いたくないから」
 麻斗はそう言って、左足の先でとんとんと床を軽くたたく。見えない緊張を解く仕草だ。
「傷つきましたよ。腹も立ったし、二度と会いたくないとも思った。だけど、ぼくも同じなんです。先輩のことを、嫌いになれない」
 ぽっかり空いた溝は、いつの間にか埋まってしまう。嫌いになれたらと思っているのに、嫌うことができない。二人に共通する、苦しい感情。いっそ大嫌いになれたら楽なのに、心はそれに静かに反発する。

「ぼくらは、不器用すぎるんですよ。どうでもいい相手にならこんな苦労しなくて済むのに、そう思えないから、馬鹿みたいにぶつかるんです。器用になんて生きられないんです」

 麻斗はもう、笑ってなどいなかった。真っ直ぐに夏実を見つめ、必死に言葉を絞り出していた。今だけは間違えないよう、確実に相手に届くよう、不器用な心で精一杯伝えていた。
 夏実も、わかっていた。自分の不器用さが。だから好き好き言って誤魔化していたのだ。器用な人間は、百万回も好きだとは言わない。ただ一度で伝えられないから、何度も繰り返して、失敗してきた。
「私は、ほんとに不器用だよ」
「だから」
 途絶えそうな声を、麻斗は懸命に張り上げる。こみ上げてくる恥ずかしさや臆病を飲み込んで、この一度に全てをかける。

「ぼくが、夏実先輩の不器用さを埋めます。卒業しても、一緒にいて欲しいんです」

 ブレザーのポケットから取り出した紙を広げ、まるで卒業証書を渡すように両手で夏実に差し出した。意味を理解できずに目を丸くする夏実は、それに視線を落とす。小さく折りたたんで保管されていたのか細かく折り目のついたそれは、プラネットでの練習の際に貰ったチラシだった。
 将来、離ればなれになってしまっても、一緒に音楽を続けられることを願って作られた学外合同バンド。

「好きです!」

 麻斗が息を吸う音が聞こえた。

「付き合ってください!」

 大声で言い切ると、彼は深く頭を下げた。

 思考が完全に停止する。しかし、彼の言葉にはひとつしか意味が存在しない。 震える指で、夏実は差し出されるそれを受け取った。
 ゆっくりと顔を上げる麻斗と目が合う。緊張しすぎた彼の表情は、怒っているようでもあり、今すぐ泣いてもおかしくないようにも思えた。
 これは、何かの夢だろうか。今まで百万回の告白を断ってきた彼が、望んでもいなかった台詞を伝えてくれる。こんなことがあるだろうか。
 すると、夢じゃないよという風に、麻斗が笑った。夏実の大好きな穏やかな表情で、二度と見ることは出来ないと悲しみに暮れたその顔で笑ってみせた。それを見て、夏実もひくつく頬を上げて、やがて満面の笑みで頷く。

「……うん!」

 涙が溢れてくる。
 両手を伸ばして、夏実は麻斗に抱きついた。
 麻斗も、夏実を抱きしめた。

 今度こそ互いに相手を両腕に感じて、受け入れてくれる温もりを初めて知って、ふたりは強く抱きしめ合う。夏実は嗚咽を漏らして泣きじゃくる。ようやく触れてくれた彼の左手が、優しく慰めるように頭を撫でる。その手の温かさに、余計に涙が止まらない。細い彼の肩や背中の感触、確かな鼓動や体温が、愛おしくて仕方がない。

 突然の物音と共に、彼が飛び退るように腕を離し声を上げた。
「み、見るな、見るなってば!」
 何事かと思いながら彼の視線の先に夏実は目をやった。濡れた視界に入ったのは、階下へ続く扉から数名の制服姿の誰かが団子になって溢れている光景。よく見知った人たちだ。「おー!」と声を上げて彼らは拍手をしている。
 押し付けるようにこちらの手にハンカチをねじ込み、麻斗は慌ててそちらへ走っていく。これで涙を拭けということらしい。

「すげーじゃん、そんなこと出来たんだな、麻斗!」
「よかったよー、夏実、おめでとー!」
「二人ともよくやったな、お疲れさん」
「ああもう、帰れ! 見せもんじゃないって! 五樹に茜先輩! 岸先輩まで! あと誰ですか!」
 麻斗や夏実のクラスメイトだけでなく、野次馬根性で集まってきた見知らぬ生徒たちも拍手をして湧いている。調子に乗って口笛を吹く誰かまでいる。それを見ながら笑って涙を拭き、夏実は手元の刺繍に気がついた。ピアノの鍵盤が縫い止められた水色のハンカチは、いつか彼に渡したものだ。

「夏実先輩、手伝って! この人たち全然帰らない!」
 もう恥ずかしさから顔を真っ赤にし、必死に野次馬を押し返す麻斗が振り向いた。そうだ、それが一条麻斗だ。こんなかっこつけ、似合ったもんじゃない。

 だから、大好きなんだ。

「わかった! 今行くよ!」
 明るくよく通る声を上げて、夏実も駆け出す。もう何一つ怖いものはない。みんながついていてくれる。一人で耐える夜も、悲しみに打ちひしがれる朝も、何一つ無駄ではなかった。
 きらきらと、春の光が降り注ぐ。夜を終えた朝に喜び、生き延びた命たちを祝福する。笑い声が、こだました。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

処理中です...