影の消えた夏

柴野日向

文字の大きさ
1 / 51
1章 暝島

しおりを挟む

 ――殺すしかない。

 目の前に立つ背中に、逢坂おうさか陽向ひなたは強く殺意を固めた。列の先頭にいる相手は、あと三歩も前進すれば線路に落ちる。電車が到着するタイミングを測って突き落とせば、高確率で死に至る。上手く意識を失えば、痛みを感じる間もないだろう。それが俺の最大の温情だ。
 右手のスマートフォンに視線を落としている相手は、真後ろの殺意に微塵も気づく様子はない。

 こいつは殺す。絶対に殺す。確実に殺す。

 油断すれば口から漏れそうになる感情を、食いしばる歯で噛み締める。頭の中で緊張が膨れ上がり、指先が意図せず細かく震える。感情と共に噛み砕く理性が、やめておけと警鐘を鳴らすのが聞こえる。馬鹿な真似はやめろ、早まるな、と。
 だが、理性が殺意を上回る前に、電車の到着を知らせるアナウンスが流れた。二番ホームに、電車が参ります……。機械的な音声は、理性の主張を打ち砕いた。

 今しかない。こいつだけは、殺してみせる。

 相手は自分より五センチほど背が高いが、思い切り押せば三歩は前に進むだろう。手元に夢中でがら空きの無防備な背中を凝視する。
 僅かに身じろぎした相手の肩越しに、右手のスマートフォンの画面が覗き見えた。誰もが使う、チャットアプリの緑色の画面。メッセージの送り先の名前が視界に入る。
 途端に強い感情が燃えるように立ち昇った。遠くからの音が、電車の到来と共に猛烈な勢いで迫り来る。
 両てのひらを外側に開き、両腕を持ち上げる。足元を揺るがす轟音の中、その背中を差し出すように、陽向は両腕に力を込めた。

 ぐんと強い力で肩を掴まれ、体勢を崩しかけ、一歩引いた状態になる。腕は宙をかき、電車は無事ホームに滑り込んでいた。開いたドアの向こう、電車の車両に相手がすんなりと乗り込むのが見えた。呆然として見つめる一対の瞳に気付くこともなく、こちらに背を向ける位置で座席に腰を下ろす。むしろ、降りる客が怪訝な視線を向けてきた。
「あの彼を突き落とそうとしただろう」
 その声に振り返る。未だに肩を掴んでいるのは、見覚えのない青年だ。あの彼、というところで視線を向けたから、陽向は再度車内に目をやる。さっきまで殺そうとした奴の背中は、電車の発車と共に右から左へ滑るように流れていった。
 立ち尽くしてそれを見送る陽向の肩から、通学鞄が滑り落ちる。激しい感情の波は嘘のように落ち着いて、行き場を失った奴への殺意は、ぽかりと空いた心の中で迷子になっていた。
 代わりに鞄を拾った青年に促され、陽向はホームの壁際へ歩き、すとんと椅子に腰を落とす。なりを潜めていた理性に今の状況を告げられ、人を殺そうとした両手で己の頭を抱えた。殺せなかった。それだけでなく、その現場を他人に見られてしまった。完全犯罪はあらゆる角度から失敗した。いや、完全でなくても奴を殺せればよかったのに。
「危なかった。人殺しになるところだった」
 隣に座る青年が言う。頭を上げて彼を見やり、陽向は顔を歪めた。
「なんで止めたんだ」
「どうして殺そうとした」
 質問を質問で返され、咄嗟に反論しようと口を開く。彼は自分を責めているのではなさそうだ。だが、何と言えばいいのかわからず、途方に暮れる。理性が戻ってきた今、数分前の衝動がいかに愚かなものだったかを思い知る。この青年が止めてくれなければ、自分は罪のない高校生を殺した犯罪者になっていたのだ。
 わかっているのに、心の中では怒りや悲しみが混ぜこぜのぐちゃぐちゃになり、眩暈に額を抑えた。
「よかったら、話を聞かせてくれないか」
 嫌だと言えずに頷いた。背を撫でる手が、思ったより温かなせいだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

処理中です...