深海の星空

柴野日向

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1章 邂逅

手話と公園3

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 少年は不審そうに眉根を寄せたが、すぐに返事をした。
「医者になります」
「医者? 自分が?」
 あはは、と少女は明るく笑う。
「あのね、中学生、医者ってそうそうなれないんだから。あんたの偏差値知らないけど、よっぽど頭良くって、ずっと勉強してないといけないんだから。それに、治らないってさっき言ったじゃん」
「それなら、頑張ります。現代医学で駄目なら、その先で成功するまで頑張ります」
 なんて根拠のない話だ。やっぱりこいつは馬鹿なんだ。さっきまで笑ってたくせに、たちまちこんなに真剣な顔をして。
「そんでもさ、病気の治療とか研究だとかって、お金もかかるのよ。たとえ技術があってもお金がなければどうしようもない」
「なら、もっと働きます。もっとずっと働いて、早く大人になります」
「それでも足りなかったら? 大人になる時間もなかったら?」
「内臓売ります」
 いいことを思いついたという表情をみせ、彼は言った。
 だがあまりの台詞に少女は吹きだした。現実的なのか妄想的なのかわからない言葉につられて笑ってしまう。
「若い臓器って、高く売れるって言うじゃないですか」
「ばかだね、ほんとに。腎臓でも売るの?」
「二個ある分なら、かたっぽぐらい平気ですよ。助けられるなら、腎臓でも、肺でも、目でも」
「心臓ならって言われたら」
「あげます」
 即答する彼は、彼女の冗談に冗談を返していなかった。まるで本当に弟が病気になったかのように、真剣に考えている。
「よっぽどだね、あんた。よっぽど頭悪いんだ」
 だが、馬鹿にする彼女には「嘘でしょ、いざとなれば出来ないくせに」という意地悪な台詞は思いつかなかった。ただ本気でこんな台詞を並べる彼の真剣さに笑った。
 そうして笑われる少年は、不本意だと憮然な顔を見せたが、全てがifの話であると思い出せば、口元を緩めた。可笑しそうな顔をする少女に何も言わないまま、どこか幼さの残る笑顔を見せた。
 笑われてんのに、やっぱり変なやつ。
 そう思う彼女は、そんな変なやつに対して不思議な感情が湧いているのに気が付いた。ほんの少し前の自分が抱いていた、世界の生きとし生けるものに対する憎しみの嵐はいつの間にか収まり、穏やかな波間へと化けていた。押しつけではない控えめで緩やかな彼の笑顔は、儚いくせにそんな効果を彼女に与えた。
「なんか、ちょっと気晴れたわ」
「気?」
「すっごい苛々してたからさ。もーほんと、通り魔にでもなろうかってぐらい」
「いらいらって、何かあったんですか」
 伸びた前髪の向こうで不思議そうな目をする少年に、少女は軽く手を振ってみせる。
「大人の話よ。おこちゃまのあんたに言ったって、どーしようもないこと」
 男どもの下心や女どもの嫉妬心が原因だなんて、わざわざ年下の彼に語ろうという気にはなれなかった。思い出すと、折角収まりかけた心の波が再びざわめきだす気もしたのだ。
 そうして少女は少年に煽るような台詞を吐いたのだが、彼は少し考えるそぶりを見せた後、再び自分の鞄に手を入れた。
「ひとつ、食べますか?」取り出すのは、残りの四袋が連なった子ども向けの駄菓子。「これ、カルシウムが入ってるって。いらいらしてる時って、カルシウム摂るといいんだって、聞きました」
 いかにも子どもじみた台詞だが、これが彼なりの励まし方なのだ。中三の癖に可愛いやつだなと、少女は笑う。
「でもこれ、さっき言ってた弟の分でしょ。千切ったのバレたらすねるんじゃない?」
「綺麗に切ったら、きっとわからないし……」
 袋同士の境目を折り曲げながら、しかし少年は首をひねった。「いや、察しのいい子だから、わかっちゃうかな……」
「怒るよ、その子。せっかくの大好きなおやつをさ、兄貴が女の子二人に浮気してプレゼントしたなんて知ったら、ぶちギレんじゃない? もう遊んでくんないかもよ」
 そんな彼女の言い方に初めはきょとんとしていた少年も、やがて可笑しそうに笑った。それを見ていると何故だか彼女の方も、カルシウムを摂る前から心のもやもやが晴れていくのを感じる。
「それなら、半分こしましょう」
「半分こって、その言い方。小学生じゃないんだから」
「ぼくが我慢できなくて、食べちゃったってことにします。食べれば嘘にはならないから。あと三つは全部あげて、許してもらいます」
 開いた子袋の中身を、二人は一粒ずつ数えてちょうど同じ数だけ食べた。少女がかつてそれを口にしたのはもう覚えていないほど昔のことだったが、これほど美味しいものだったか。口の中で小さなクリーム色の粒は、柔らかく溶けていった。
「じゃあ、お返し。いいこと教えてあげる」
 最後の一粒が消えてなくなると、少女は少年の方へ身を乗り出した。
 戸惑う彼の右手を掴みこぶしに握らせ、顔の横に持ち上げる。
「これで、おはよう」
 その手を下ろさせると、少年はようやく納得したように頷いた。
「知っといて損はないでしょ。さっきの子がまた道に迷った時泣いちゃったら、あんたも泣いちゃうんじゃない?」
 短時間では会話になるほど詳しい手話は教えられないが、少女は自分の手を動かし、彼に真似させる。対する彼も至極興味深そうな顔をして、覚えてしまおうと同じように手を動かした。

 おはよう。ごめんね。ありがとう。

 軽く握った左手の甲を、右手で撫でる仕草をする。
「これで、大好き」
「だいすき……」
 呟いて、彼は真剣な態度で手を動かす。そうして顔を上げ、正面の少女がにやにやと笑っているのに気が付くと、うっと息を呑んだ。たちまち一気に口を結び視線を泳がせてしまうのは、彼の幼い照れ隠しだった。
「マセガキ」
 少女がわざと意地悪に笑って顔を覗き込もうとすると、彼はたちまち前髪に隠れてしまう。
「そういうことじゃ……」
 一気に小さくなった彼の声は、公園の時計台から流れる六時を告げるメロディーにかき消えてしまった。

「もう遅いけど、大丈夫ですか」公園を出て少女の左手側を並んで歩きながら彼が言った。
「大丈夫よ。まだ日が暮れたわけじゃないし」
「でも、家まで距離ありますよね」
「家知ってんの。ストーカーか」
「だって、毎朝……」
「わかってるって」
 不満げな少年は少女は笑いかける。これでも彼は怒りはしないらしい。ようやく笑顔は見られたが、彼の苛立ちや怒りだといった表情は、少女はまだ目にしていなかった。
「大した距離じゃないし、大通り通ってくし。それよりあんたの方がずっと遠いじゃん。よかったの? こんな時間になって」
 「大丈夫です」そう言って彼は頷いた。「今日は、お迎えもないし……」
「お迎え?」
「弟が、保育園に行ってるので。今は母も時短で職場の帰り道だから、いつもは母が行ってるんですけど。それでも行けなかったり遅くなりそうなときは、ぼくが代わりに行ってるんです」
「それじゃ今日みたいなさ、迎えがない時は、なにやってんの。夕刊は配ってないんでしょ」
「バイトは、朝だけです。普段は……洗濯物入れといたり、掃除とか……上手にはできないけど、ちょっとだけ、晩ご飯作るとか」
「苦労少年」
「難しいことはしてないです。昼間は家に誰もいないし。ぼくはどうせ暇だから」
 今時珍しい中三だな。まるで漫画みたい。そんな出会った当初に抱いたのと同じ感想を少女は抱いた。
「今日はよかったの」
「まあ、少しぐらいは……。明日から、ちゃんとやり直します」
「明日やろうは馬鹿やろうよ」
 随分とふざけた無慈悲な台詞だったが、困った顔をした少年は少女が可笑しそうに笑うと目を細めて笑った。
 彼女にとってこれほど誰かと話し込んだのは、随分と久々のことだった。せいぜい一休みする程度のはずが、一時間以上も隣にいる相手と言葉を交わしていただなんて。普段の生活では考えられない。
 強火で燃えていたはずの炎が、いつの間にか弱火どころかすっかりかき消えてしまっていることに、少女は気がついた。
 今日最後の日差しを横顔に受ける少年が、さようならと言いかけた。
「またね」
 よく通る声とともに、少女が片手を上げる。それを見た少年は小さく頭を下げ、同じ言葉を口にした。逡巡しながらも上げた左手を軽く振り、家を目指す人たちの雑踏に踏み込んでいく。

 変わったやつ。変なやつ。

 声に出さず呟きながら、少女は彼の後ろ姿が見えなくなってしまうまで幾度も振り返り見送った。しっかりと伸びた少年の細い背中は、朝とは異なる夕暮れの世界に、消えていった。
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