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2章 深海の星空
ノートと約束2
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ようやく顔を上げた少年は、強く絞った体操服を片手にシャツをつまんで風を送りながら、ベンチまで戻って来た。
「これ、あげる」
丸めた体操服をテーブルに置き、頬に汗をこぼしながら水筒に口をつける少年に、少女は小さく折りたたんだビニール袋を突き出した。
「今から乾かしたって、そのまま入れたら、中身汚れるでしょ」
少女の珍しく素直な優しさに目を丸くしながらも、少年は口元を拭って礼を言うと受け取った。テーブルを挟んだ向かいのベンチに濡れた体操服を広げる彼が、その背側を見せないよう立ちまわっているのに、少女は気づかないふりをした。彼がなぜ、学校ですぐにその汚れを落とさずここまでやって来ていたのか。その理由は既に明確だったが、口にはしなかった。
ようやく少年は少女の隣に腰を下ろす。理由もなく無意識に並んでベンチに腰掛けるまで、出会ってから実に二か月半という時間が経過していた。
酷暑を迎えると予想されている今年の夏は、日増しに暑さをつのらせ、この日も今年一番の日中最高気温を記録している。タオルで額や首元を拭う姿を眺めていると、前髪についた汗を拭きとった彼と目があった。なに、と少女が見つめ返すと、彼は慌てて目を逸らしてしまう。恐らく彼が長期間ため込んできたコミュニケーション不全の弊害は、ちょっとやそっとでは失われないだろう。
「その、髪が、違うなと思って」
「あ、これ?」
少女は後ろで一つにまとめている髪の房を片手で軽く握った。
「さっきの時間、移動授業でさ。違う教室で授業あったんだけど、クーラー壊れてるとか拷問じゃない?」
髪が首にかかる暑ささえ耐え難く、細いエナメルのゴムで髪をまとめたまま、特に違和感もなく学校を出てきていた。
髪ゴムに指をひっかけ、それをするりと解く。頭を振ると、背の中ほどまで伸びる真っ直ぐで艶やかな黒髪が、揺れに合わせて緩やかに波打つ。
それを少年はただ見ているだけで、例え機器を持っていようが動画どころか写真さえも撮る気配なく、真っ黒な瞳に真っ黒な髪の毛先を流している。
「あんただって、目、見えてんじゃん。いつもより」
汗に濡れたおかげで少年の前髪は幾束かに分かれ、いつも通りにその目を隠してはいなかった。しかし少女が笑いかけると、彼はたちまち前髪を指で梳き、頼まれてもいないのに目を覆う。
「反抗すんな。可愛くない」
「そんなつもりじゃないです」
彼の声は小さく、笑っているように目を細めているが、その瞳の深度はいつもより深みを増しているように少女には見えた。瞳に被さる曇りの影は、伸びた前髪のせいだけではない。
「ねえ」と、少女は少年にぐっと顔を近づけ、頬を上げるといたずらっぽく笑った。「デートしよ」
ぽかんと目を見張った彼は、初めて耳にする英単語のように片仮名を平仮名に直して少女の言葉を反芻した。
「そう」
「……何するんですか」
あらゆる疑問を感じている様子の少年から顔を離し、少女は呆れた声を返す。
「そんなん決まってんじゃん」
口にしてから、自分自身そういった事柄に実に疎いことを思い出す。行き過ぎたことは必要以上に知ってしまったのに、そこに至るまでの実に初歩的でありきたりな事柄を、少女は具体的に習ったこともなければ、語り合う誰かもこれまで持たなかった。
「なにすんの」
「ええ……」少年が小さく呻いた。
「男でしょ、考えてよ」
「そんなこと言われても」
少女以上に疎い少年は、両腕を抱えてすっかり困り切ってしまった。
ぽとりと落ちた二人の沈黙に、うるさい蝉の鳴き声が侵食しては夏の色をつける。
「どっか行こうよ」少女が言った。
「どこに行くんですか」
「どこがいい」
「どこでも」
蝉の羽音に負けない大きさでため息をついた少女は、大袈裟に肩をすくめてみせる。
「それって一番困るやつじゃん。今日何食べたいで、何でもとか返すやつ。すっげー迷惑」
「公園とかじゃなく、もっと遠くですか」
「そりゃあね」
「どこまで遠くですか」
質問を重ね続ける少年に、少女は形の良い眉を顰めて半身を倒すと、わざわざ彼の顔を下から見上げるように覗き込む。
「もしかして、いや?」
「いえ、あの、全然、そんなわけなくって……」
過ぎた反感を買って嫌われやしないかと、慌てて少年は首を横に振った。伸びた前髪を揺らし、迷いを埋めた瞳で、身体を起こす少女を見返す。
「その、休みが合うかわからなくって……」
「新聞でしょ。別に休みが平日でもさ、もうすぐ夏休みじゃん。中学なんて補習もないし、いつだって楽勝じゃない」
「昼も、バイトがあるから……」
「バイト?」思わず少女は頓狂な声を上げる。「あんた、昼も働くの?」
「夏休み入ったら、夕刊も配るので」少年は頬を指でかきながら言った。その言葉に、彼女の喉から「夕刊?」と更に間の抜けた声が漏れた。
「特にお盆の時期とかだと、帰省する大学生や、大人の方も多いので。穴が空くよりは、ってやらせてもらってるんです」
「それって、去年の夏も? 昼間っからうちの前通ってたの?」
「いえ。夕刊は取ってる人が違うから、ルートも違うんです」
ぽつぽつと空く穴を補うために地理感覚のない未経験者を新しく雇うよりは、普段から朝刊を配っている地元の少年を使った方が効率的、という考えなのだろう。朝より部数は少なくとも、離れた距離同士をつないでいるおかげで、彼は街一体の地理に詳しくなった。公園近くの郵便局の場所を知っていたのも、真面目な仕事の賜物であった。脇にある細い路地が気になり、配達後一人で立ち寄った先にあったのが、崩れそうな古本屋や、老舗の駄菓子屋だった。
「それで休みがないって言ってんの。あんた、子どものくせに一体何が楽しくて生きてんの」
「さあ……なんでしょうね」いかにも不思議そうな声音だ。
「じゃ、もしかして冬休みも?」
「年末も帰省する人はいるし、折り込み広告も増えるから。雪が降ったりしたら夏よりずっと大変ですよ。手が動かないし、よく滑るし」
だけど春休みはしていないと取り繕うように言うのに、何もめでたくないじゃないかと、少女は呆れと感心のため息をついた。
だからこそ彼は、遠くへ行くことを躊躇っていた。朝と昼の配達に間に合わなければ、いくら築き上げた信頼があっても、立場の弱い中学生などあっという間に不適合だとみなされるだろう。これまで二年以上同じ仕事を真面目に続けてきた彼に対して、それはあまりに不憫かつ気の毒な話だ。彼は以前、何軒もあてを探した中で、唯一許可をくれたのが今の専売所だとも言った。それをただ一日の思い付きで壊してしまっては、意地悪の範疇を超えてしまう。
「ちょっと待ってください」
思いついた顔をして、彼は横に置いている通学鞄に右手を差し入れた。
「それぞれ週一で、どこかが休みになるんですけど……並んでる日があるかもしれない」
誰にも触れさせないよう、わざわざチャックのついた内ポケットから大事そうに取り出したのは、少女にも見覚えのある黒い手帳だった。
まだ骨の細い指でページを繰りながら、貼り付けた小さなカレンダーを見つめる瞳は、前髪を透かしてもひたむきで、少女は黙って彼の口が動くのを待った。
やがて、薄い紙の上を滑る人差し指が、日付の一つではたと止まった。
「一日だけですけど……」
「いつ?」
「八月五日。夕刊が休みで、次の朝刊も休みなので、少し遅くなっても大丈夫です。……だけど月曜日で、平日だから……」
「じゃあ、そこにしよ」
「いいんですか」
至極あっさりと言い切った少女に、手帳から目を離した彼は心配そうに言う。
「ぼくはよく知らないけど、高校って、中学みたいな夏休みじゃないんですよね。その、補習って、大丈夫なんですか……」
「気にすんなよ、少年」
彼が膝に置く手帳のカレンダーを、指先でとんとんと叩く彼女は不敵に笑った。
「あんたらみたいに四十日あるってわけじゃないけどさ、ちゃんと夏休みもあるっての。二週間ぐらい」
本当は八月七日の水曜日から終日の夏休みに入るのだが、彼女は平然と言ってのけた。進学校を名乗るために存在する半強制の補習授業で、貴重なたった一日を潰してしまうなんて、人生における損だ。馬鹿だ。そんな真面目さ、知ったこっちゃない。
「あんたじゃ頼りないからさ、どこ行くかは私が決めたげるから。あんたはてるてる坊主でも作っときな」
「変なところ、言い出さないでくださいよ」
「補導はされないようにしとくよ、一応。文句言うなよ」
それよりもと、少女は彼の左手に右手を重ね、ぱたんと手帳を閉じさせた。
「よくそんな身体でもつよね。義務教育なんだから、勉強しときなよ。どーせろくにしてないんでしょ」
閉ざされた手帳を両手で握り、どこか不安げな表情を見せていた少年がやっと笑った。素直に頷く彼の瞳からは、向こうに広がる夏空のように、曇はすっかり消え去っていた。
「これ、あげる」
丸めた体操服をテーブルに置き、頬に汗をこぼしながら水筒に口をつける少年に、少女は小さく折りたたんだビニール袋を突き出した。
「今から乾かしたって、そのまま入れたら、中身汚れるでしょ」
少女の珍しく素直な優しさに目を丸くしながらも、少年は口元を拭って礼を言うと受け取った。テーブルを挟んだ向かいのベンチに濡れた体操服を広げる彼が、その背側を見せないよう立ちまわっているのに、少女は気づかないふりをした。彼がなぜ、学校ですぐにその汚れを落とさずここまでやって来ていたのか。その理由は既に明確だったが、口にはしなかった。
ようやく少年は少女の隣に腰を下ろす。理由もなく無意識に並んでベンチに腰掛けるまで、出会ってから実に二か月半という時間が経過していた。
酷暑を迎えると予想されている今年の夏は、日増しに暑さをつのらせ、この日も今年一番の日中最高気温を記録している。タオルで額や首元を拭う姿を眺めていると、前髪についた汗を拭きとった彼と目があった。なに、と少女が見つめ返すと、彼は慌てて目を逸らしてしまう。恐らく彼が長期間ため込んできたコミュニケーション不全の弊害は、ちょっとやそっとでは失われないだろう。
「その、髪が、違うなと思って」
「あ、これ?」
少女は後ろで一つにまとめている髪の房を片手で軽く握った。
「さっきの時間、移動授業でさ。違う教室で授業あったんだけど、クーラー壊れてるとか拷問じゃない?」
髪が首にかかる暑ささえ耐え難く、細いエナメルのゴムで髪をまとめたまま、特に違和感もなく学校を出てきていた。
髪ゴムに指をひっかけ、それをするりと解く。頭を振ると、背の中ほどまで伸びる真っ直ぐで艶やかな黒髪が、揺れに合わせて緩やかに波打つ。
それを少年はただ見ているだけで、例え機器を持っていようが動画どころか写真さえも撮る気配なく、真っ黒な瞳に真っ黒な髪の毛先を流している。
「あんただって、目、見えてんじゃん。いつもより」
汗に濡れたおかげで少年の前髪は幾束かに分かれ、いつも通りにその目を隠してはいなかった。しかし少女が笑いかけると、彼はたちまち前髪を指で梳き、頼まれてもいないのに目を覆う。
「反抗すんな。可愛くない」
「そんなつもりじゃないです」
彼の声は小さく、笑っているように目を細めているが、その瞳の深度はいつもより深みを増しているように少女には見えた。瞳に被さる曇りの影は、伸びた前髪のせいだけではない。
「ねえ」と、少女は少年にぐっと顔を近づけ、頬を上げるといたずらっぽく笑った。「デートしよ」
ぽかんと目を見張った彼は、初めて耳にする英単語のように片仮名を平仮名に直して少女の言葉を反芻した。
「そう」
「……何するんですか」
あらゆる疑問を感じている様子の少年から顔を離し、少女は呆れた声を返す。
「そんなん決まってんじゃん」
口にしてから、自分自身そういった事柄に実に疎いことを思い出す。行き過ぎたことは必要以上に知ってしまったのに、そこに至るまでの実に初歩的でありきたりな事柄を、少女は具体的に習ったこともなければ、語り合う誰かもこれまで持たなかった。
「なにすんの」
「ええ……」少年が小さく呻いた。
「男でしょ、考えてよ」
「そんなこと言われても」
少女以上に疎い少年は、両腕を抱えてすっかり困り切ってしまった。
ぽとりと落ちた二人の沈黙に、うるさい蝉の鳴き声が侵食しては夏の色をつける。
「どっか行こうよ」少女が言った。
「どこに行くんですか」
「どこがいい」
「どこでも」
蝉の羽音に負けない大きさでため息をついた少女は、大袈裟に肩をすくめてみせる。
「それって一番困るやつじゃん。今日何食べたいで、何でもとか返すやつ。すっげー迷惑」
「公園とかじゃなく、もっと遠くですか」
「そりゃあね」
「どこまで遠くですか」
質問を重ね続ける少年に、少女は形の良い眉を顰めて半身を倒すと、わざわざ彼の顔を下から見上げるように覗き込む。
「もしかして、いや?」
「いえ、あの、全然、そんなわけなくって……」
過ぎた反感を買って嫌われやしないかと、慌てて少年は首を横に振った。伸びた前髪を揺らし、迷いを埋めた瞳で、身体を起こす少女を見返す。
「その、休みが合うかわからなくって……」
「新聞でしょ。別に休みが平日でもさ、もうすぐ夏休みじゃん。中学なんて補習もないし、いつだって楽勝じゃない」
「昼も、バイトがあるから……」
「バイト?」思わず少女は頓狂な声を上げる。「あんた、昼も働くの?」
「夏休み入ったら、夕刊も配るので」少年は頬を指でかきながら言った。その言葉に、彼女の喉から「夕刊?」と更に間の抜けた声が漏れた。
「特にお盆の時期とかだと、帰省する大学生や、大人の方も多いので。穴が空くよりは、ってやらせてもらってるんです」
「それって、去年の夏も? 昼間っからうちの前通ってたの?」
「いえ。夕刊は取ってる人が違うから、ルートも違うんです」
ぽつぽつと空く穴を補うために地理感覚のない未経験者を新しく雇うよりは、普段から朝刊を配っている地元の少年を使った方が効率的、という考えなのだろう。朝より部数は少なくとも、離れた距離同士をつないでいるおかげで、彼は街一体の地理に詳しくなった。公園近くの郵便局の場所を知っていたのも、真面目な仕事の賜物であった。脇にある細い路地が気になり、配達後一人で立ち寄った先にあったのが、崩れそうな古本屋や、老舗の駄菓子屋だった。
「それで休みがないって言ってんの。あんた、子どものくせに一体何が楽しくて生きてんの」
「さあ……なんでしょうね」いかにも不思議そうな声音だ。
「じゃ、もしかして冬休みも?」
「年末も帰省する人はいるし、折り込み広告も増えるから。雪が降ったりしたら夏よりずっと大変ですよ。手が動かないし、よく滑るし」
だけど春休みはしていないと取り繕うように言うのに、何もめでたくないじゃないかと、少女は呆れと感心のため息をついた。
だからこそ彼は、遠くへ行くことを躊躇っていた。朝と昼の配達に間に合わなければ、いくら築き上げた信頼があっても、立場の弱い中学生などあっという間に不適合だとみなされるだろう。これまで二年以上同じ仕事を真面目に続けてきた彼に対して、それはあまりに不憫かつ気の毒な話だ。彼は以前、何軒もあてを探した中で、唯一許可をくれたのが今の専売所だとも言った。それをただ一日の思い付きで壊してしまっては、意地悪の範疇を超えてしまう。
「ちょっと待ってください」
思いついた顔をして、彼は横に置いている通学鞄に右手を差し入れた。
「それぞれ週一で、どこかが休みになるんですけど……並んでる日があるかもしれない」
誰にも触れさせないよう、わざわざチャックのついた内ポケットから大事そうに取り出したのは、少女にも見覚えのある黒い手帳だった。
まだ骨の細い指でページを繰りながら、貼り付けた小さなカレンダーを見つめる瞳は、前髪を透かしてもひたむきで、少女は黙って彼の口が動くのを待った。
やがて、薄い紙の上を滑る人差し指が、日付の一つではたと止まった。
「一日だけですけど……」
「いつ?」
「八月五日。夕刊が休みで、次の朝刊も休みなので、少し遅くなっても大丈夫です。……だけど月曜日で、平日だから……」
「じゃあ、そこにしよ」
「いいんですか」
至極あっさりと言い切った少女に、手帳から目を離した彼は心配そうに言う。
「ぼくはよく知らないけど、高校って、中学みたいな夏休みじゃないんですよね。その、補習って、大丈夫なんですか……」
「気にすんなよ、少年」
彼が膝に置く手帳のカレンダーを、指先でとんとんと叩く彼女は不敵に笑った。
「あんたらみたいに四十日あるってわけじゃないけどさ、ちゃんと夏休みもあるっての。二週間ぐらい」
本当は八月七日の水曜日から終日の夏休みに入るのだが、彼女は平然と言ってのけた。進学校を名乗るために存在する半強制の補習授業で、貴重なたった一日を潰してしまうなんて、人生における損だ。馬鹿だ。そんな真面目さ、知ったこっちゃない。
「あんたじゃ頼りないからさ、どこ行くかは私が決めたげるから。あんたはてるてる坊主でも作っときな」
「変なところ、言い出さないでくださいよ」
「補導はされないようにしとくよ、一応。文句言うなよ」
それよりもと、少女は彼の左手に右手を重ね、ぱたんと手帳を閉じさせた。
「よくそんな身体でもつよね。義務教育なんだから、勉強しときなよ。どーせろくにしてないんでしょ」
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