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2章 深海の星空
双澄海岸1
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八月五日 月曜日 午前十時 中央南口 時計台
遅れたら殺す
そんなふざけたメモを、少女が新聞受けに挟まなくてはならない理由は二つあった。
一つは、彼が自分専用の連絡手段を持っていないということだった。今やベビーカーに座る赤ん坊でさえ画面を眺めているスマートフォンを、彼は持っていないと言った。かといって折り畳みの携帯電話さえ使ったことがないと、八方ふさがりな台詞を述べたのだ。
「お金かかるし、あと少しだし……」
元から手にしていなければ大して不便さなど感じないという実に古臭い言い草に、今まさに不便だろうと少女が口を挟むと、彼は言葉を呑んでしまった。だが、今更どうしようもない話だ。
二つ目は、少女の不眠が治る気配を見せず、この朝は必ず会えるという確証が持てないことだった。時間より早く目が覚める朝もあれば、耳障りなアラームを慣らす機械を床に叩きつけて黙らせたくなるほど、不定期な睡眠欲に支配される日もあった。
彼女がようやく場所と時間を決定したのは、八月四日の昼間のことで、書き上げたメモを路上側へはみ出すように新聞受けに挟んだ時刻は、既に夜の十時。八月五日のアラームでは瞼一つ動かすことなく、とうに陽の昇った七時を超えた時刻に身を起こした。急いで覗いた新聞受けからメモ用紙が姿を消し、代わりに朝刊が差し込まれているのに胸をなでおろした。
この街で中央といえば多くの人が認識する広い駅は、浸透しない正式名称を持っていたが、彼にも意味はきちんと伝わっていた。正面口よりもバス停やファストフード店が肩を並べる南口へ改札を抜け、二階の高さから階段下の広場を見下ろし、少女は少年の姿を見つけた。
「よく来たね。待った?」
十時までにはまだ五分ある。広場の時計台に向かって、安っぽい噴水の縁に浅く腰かけていた少年は、彼女の良く通る声に顔を上げた。
「いえ。今来たところです」
「上等じゃん」
「殺されたくないから」
少女にパーカーのフードを軽く引っ張られ、少年は苦笑いしながら手元の文庫本をぱたりと閉じる。少女は屈んで、それを覗き込んだ。
その視線に気づいた彼は、慣れた手つきで青いブックカバーを外し、親指の幅ほどの厚さしかない本を裏表と左手でひっくり返してみせた。群青色の夜空に、ぽつぽつと五つの星が灯る表紙。
「本なんか読むんだ」
「うん」
「暗いね」
「好きなんです。小説読むのが」
「小説ね」
彼女自身も本は読むが、好きだと断言するほどではない。
「そんなの、所詮フィクションじゃない。だれかさんの頭の中で作られた、事実無根のお話。実在する事件団体人物と一切の関わりはありませんってね」
「だからです」
馬鹿にしながらも本を受け取る少女を、少年は前髪に透かして眩しそうに見上げた。伸びた髪は、強い日差しから目を守るのに一役買っているようだった。
「貸しましょうか。ぼくはもう、何度も読んだから」
彼の言う通り、文庫本の端はよれており、どこかでついてしまった折り目は裏表紙を縦断していた。
「元々中古だったので、もうぼろぼろですけど……。短編集なので、読みやすいですよ」
彼の言葉に、少女はふうんと曖昧に頷いた。そこまで言うなら借りてやろうかと、失礼な思いと共にカバーをかけ直し、試しに目次をめくる。一章ごとに人の名前が振られていることから、五人の人間の物語がつづられているようだった。
「うわ、出だしから暗すぎ」
試しに一ページ目の一行目を目でなぞった彼女は、そう言った。
いきなり現れた十三歳の主人公は孤児だという。肉親も、心を許せる仲間さえいない少年の話の出だしに、明るい将来など見いだせるわけもない。だが、その台詞は想定内だとばかりに目を細める彼を見て、少女は文庫本をショルダーバッグにしまった。
晴れればいいと願ったが、願った以上に八月五日の天気は眩しく、青いグラデーションが夏空に鮮やかだ。沸き立つ入道雲の白さが際立つ。
桜の木々が青々と茂る葉を天に伸ばしている南口の広場を横切り、オーバーサイズのTシャツにショートパンツの少女は、駅から離れて行く。その背に遅れないよう、黒のジーンズの足を動かす水色のパーカーの少年は、離れる駅を幾度も振り返った。彼が自転車を停めている駐輪場を過ぎ、駅前にひしめくファストフード店や居酒屋、ゲームセンターの前を素通りする。
「バスですか」少年が尋ねた。
「そう。電車だと方角違うから」
うるさい人通りを抜け、現れたバスの停留所で、少女はやっと足を止めた。
「終点まで行くの、一時間に二本しかないから。十時半ってやつね」
「終点って、どこになるんですか」
「一時間くらいかかるらしいんだけど。双澄海岸って知ってる?」
彼女の言葉に、「名前ぐらいは……」と少年は首を傾げた。
「行ったことは」
「ないです」
それでいいと、少女は頷いた。彼女自身も足を運んだことはなく、先日までは「そうちょう」海岸と読んでいた場所だ。
「なんか、いろんなお店とかがあるんだって。海の近くで、水族館が有名らしいんだけど、月曜休館ね。しょうがない」
「お店って、たとえば」
「お土産物屋とか、出店とかあるらしいよ。まあ、行けばわかるでしょ」
自分から娯楽施設を探すことなど、これまでただの一度もなかった彼女が、二週間頭をひねって調べた結果だった。
取り合えず、一般的な中高生のデートスポットとは何かという、基礎から辿ってみた。都会ともいえない地元にめぼしい場所などあるはずもなく、何より互いに、顔見知りと遭遇する危険は可能な限り避けねばならない。
そうして暗い気持ちを無理に押しのけ、街を離れれば安易にテーマパークかとも考えたが、あの少年がそういった場所ではしゃぐ性質だとは思えないし、それは自分も同様だ。そのうえ交通費だけでもそれなりの金額になる。互いに苦痛にしかならない場所に行く理由などない。
そうしたわけで、有名どころの水族館が閉まっていたとしても「双澄海岸」という観光名所は至極妥当な場所だった。
「私もあんま知らないし、これ以上調べてないけど、文句言うなよ。言ったら道路に突き飛ばすから」
「……ありがとうございます」
礼を言う彼は幾分ほっとした様子だった。
「なに」
「いえ。意外と、まともな場所でよかったと思って」
「もうすぐトラックが来るね」
「手離してください」
向かってくる長距離トラックに少女が目をやると、背中に手を当てられた少年は一歩退く。前科があることを承知している少女も、そうすれば大人しく手を離した。
遅れたら殺す
そんなふざけたメモを、少女が新聞受けに挟まなくてはならない理由は二つあった。
一つは、彼が自分専用の連絡手段を持っていないということだった。今やベビーカーに座る赤ん坊でさえ画面を眺めているスマートフォンを、彼は持っていないと言った。かといって折り畳みの携帯電話さえ使ったことがないと、八方ふさがりな台詞を述べたのだ。
「お金かかるし、あと少しだし……」
元から手にしていなければ大して不便さなど感じないという実に古臭い言い草に、今まさに不便だろうと少女が口を挟むと、彼は言葉を呑んでしまった。だが、今更どうしようもない話だ。
二つ目は、少女の不眠が治る気配を見せず、この朝は必ず会えるという確証が持てないことだった。時間より早く目が覚める朝もあれば、耳障りなアラームを慣らす機械を床に叩きつけて黙らせたくなるほど、不定期な睡眠欲に支配される日もあった。
彼女がようやく場所と時間を決定したのは、八月四日の昼間のことで、書き上げたメモを路上側へはみ出すように新聞受けに挟んだ時刻は、既に夜の十時。八月五日のアラームでは瞼一つ動かすことなく、とうに陽の昇った七時を超えた時刻に身を起こした。急いで覗いた新聞受けからメモ用紙が姿を消し、代わりに朝刊が差し込まれているのに胸をなでおろした。
この街で中央といえば多くの人が認識する広い駅は、浸透しない正式名称を持っていたが、彼にも意味はきちんと伝わっていた。正面口よりもバス停やファストフード店が肩を並べる南口へ改札を抜け、二階の高さから階段下の広場を見下ろし、少女は少年の姿を見つけた。
「よく来たね。待った?」
十時までにはまだ五分ある。広場の時計台に向かって、安っぽい噴水の縁に浅く腰かけていた少年は、彼女の良く通る声に顔を上げた。
「いえ。今来たところです」
「上等じゃん」
「殺されたくないから」
少女にパーカーのフードを軽く引っ張られ、少年は苦笑いしながら手元の文庫本をぱたりと閉じる。少女は屈んで、それを覗き込んだ。
その視線に気づいた彼は、慣れた手つきで青いブックカバーを外し、親指の幅ほどの厚さしかない本を裏表と左手でひっくり返してみせた。群青色の夜空に、ぽつぽつと五つの星が灯る表紙。
「本なんか読むんだ」
「うん」
「暗いね」
「好きなんです。小説読むのが」
「小説ね」
彼女自身も本は読むが、好きだと断言するほどではない。
「そんなの、所詮フィクションじゃない。だれかさんの頭の中で作られた、事実無根のお話。実在する事件団体人物と一切の関わりはありませんってね」
「だからです」
馬鹿にしながらも本を受け取る少女を、少年は前髪に透かして眩しそうに見上げた。伸びた髪は、強い日差しから目を守るのに一役買っているようだった。
「貸しましょうか。ぼくはもう、何度も読んだから」
彼の言う通り、文庫本の端はよれており、どこかでついてしまった折り目は裏表紙を縦断していた。
「元々中古だったので、もうぼろぼろですけど……。短編集なので、読みやすいですよ」
彼の言葉に、少女はふうんと曖昧に頷いた。そこまで言うなら借りてやろうかと、失礼な思いと共にカバーをかけ直し、試しに目次をめくる。一章ごとに人の名前が振られていることから、五人の人間の物語がつづられているようだった。
「うわ、出だしから暗すぎ」
試しに一ページ目の一行目を目でなぞった彼女は、そう言った。
いきなり現れた十三歳の主人公は孤児だという。肉親も、心を許せる仲間さえいない少年の話の出だしに、明るい将来など見いだせるわけもない。だが、その台詞は想定内だとばかりに目を細める彼を見て、少女は文庫本をショルダーバッグにしまった。
晴れればいいと願ったが、願った以上に八月五日の天気は眩しく、青いグラデーションが夏空に鮮やかだ。沸き立つ入道雲の白さが際立つ。
桜の木々が青々と茂る葉を天に伸ばしている南口の広場を横切り、オーバーサイズのTシャツにショートパンツの少女は、駅から離れて行く。その背に遅れないよう、黒のジーンズの足を動かす水色のパーカーの少年は、離れる駅を幾度も振り返った。彼が自転車を停めている駐輪場を過ぎ、駅前にひしめくファストフード店や居酒屋、ゲームセンターの前を素通りする。
「バスですか」少年が尋ねた。
「そう。電車だと方角違うから」
うるさい人通りを抜け、現れたバスの停留所で、少女はやっと足を止めた。
「終点まで行くの、一時間に二本しかないから。十時半ってやつね」
「終点って、どこになるんですか」
「一時間くらいかかるらしいんだけど。双澄海岸って知ってる?」
彼女の言葉に、「名前ぐらいは……」と少年は首を傾げた。
「行ったことは」
「ないです」
それでいいと、少女は頷いた。彼女自身も足を運んだことはなく、先日までは「そうちょう」海岸と読んでいた場所だ。
「なんか、いろんなお店とかがあるんだって。海の近くで、水族館が有名らしいんだけど、月曜休館ね。しょうがない」
「お店って、たとえば」
「お土産物屋とか、出店とかあるらしいよ。まあ、行けばわかるでしょ」
自分から娯楽施設を探すことなど、これまでただの一度もなかった彼女が、二週間頭をひねって調べた結果だった。
取り合えず、一般的な中高生のデートスポットとは何かという、基礎から辿ってみた。都会ともいえない地元にめぼしい場所などあるはずもなく、何より互いに、顔見知りと遭遇する危険は可能な限り避けねばならない。
そうして暗い気持ちを無理に押しのけ、街を離れれば安易にテーマパークかとも考えたが、あの少年がそういった場所ではしゃぐ性質だとは思えないし、それは自分も同様だ。そのうえ交通費だけでもそれなりの金額になる。互いに苦痛にしかならない場所に行く理由などない。
そうしたわけで、有名どころの水族館が閉まっていたとしても「双澄海岸」という観光名所は至極妥当な場所だった。
「私もあんま知らないし、これ以上調べてないけど、文句言うなよ。言ったら道路に突き飛ばすから」
「……ありがとうございます」
礼を言う彼は幾分ほっとした様子だった。
「なに」
「いえ。意外と、まともな場所でよかったと思って」
「もうすぐトラックが来るね」
「手離してください」
向かってくる長距離トラックに少女が目をやると、背中に手を当てられた少年は一歩退く。前科があることを承知している少女も、そうすれば大人しく手を離した。
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