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2章 青南高校
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学習机に重ねて置いた三冊の本を見る。根拠もなく、凛は大丈夫だと言った。その無根拠にも今は縋りたい。
伯母の美沙子は酒を飲んでいる。だから機嫌がいいはずだ。こんな話は、機嫌を覗ってするに限る。ならば今が一番いいはずだ。酒を飲むと正常な判断が鈍るという。彼女にとっての「正常な判断」は、翔太に出来る限り金をかけないことなのだ。
八年前、確かに両親と一軒家に暮らしていたことを翔太は覚えていた。だが両親の死後、家も土地も家具に至るまで何もかも、雨宮家の人間が売り払ってしまった。そして、誰が最後に残った翔太を引き取るかで大揉めに揉めた。施設に放り込まれても翔太は全く構わなかったが、それでは世間体が悪いと大人たちは言った。だが自分が貧乏くじを引くのだけは、頑として譲らない人たちだった。
美沙子は優しかったのではない。翔太にくっつく遺産の額が大きかったから、渋々了承したまでだ。決して少なくない金に目がくらみ、一人の人間まで受け取ってしまった。周囲の人間は、一人の人間を押し付けてそっぽを向いた。はっきり説明されずとも、それぐらい当事者は勘付いていた。
だから小学生の頃、仲の良い友人が受験をして私立の中学校を目指すと言った時、伯母に自分も受験したいと頼んだのだ。もちろん、彼女が受験を許すはずがなかった。
「お父さんと、お母さんのお金は?」
自分にくっついてきた金があるはずだ。それを意図した翔太の台詞に、逆上した彼女はガラスの灰皿を投げつけた。そのせいで頬にあざができ、学校でも問題になった。
それ以降、下手に殴られることもなくなったが、翔太が親の金について口にすることもなくなった。将来について話すこともやめた。どうしても暗いことしか想像できない未来に対してシャッターを下ろし、自分を隔絶してきたのだった。
それを、凛がわざわざノックしてくれた。だから少しぐらい、自分も隙間を開けねばなるまい。
部屋を出るとすぐダイニングキッチンがある。椅子に座り、時折ビールの缶をあおりながら、美沙子はスマートフォンをいじっている。テーブルの灰皿には火の消え切らない煙草の吸い殻が、細い煙を吐いていた。
しっかり襖を閉め、翔太はその背に呼びかけた。
「美沙子さん」
彼女は、「伯母さん」と呼ばれることを昔から嫌った。だから翔太はずっと下の名前で呼んでいる。
「おまえ、まだ起きてたの」彼女はめんどくさそうに舌打ちする。時刻は夜の十一時半だ。「うるさいから早く寝ろよ」
「話があるんだけど」
「あたしは別にないから」
「来年の話」
慎重に言葉を選ばなければいけない。けれど長々と話せばそれだけでこの人は怒りだす。
「俺、高校行きたい」
やっと彼女は振り向いた。八年前より随分老けた。それを隠す化粧を夜になっても塗りたくった顔が、訝しげに歪む。
「今日、高校見学行ったんだ。それで、やっぱり」
「なに馬鹿言ってんだよ」機器を置き、新しい煙草を取り出し咥え、火をつける。深く吸って、煙を吐く。「来年なったらもう働けんだろ。そんな暇あったら今まであんたにかけた金返しな」
金なんて、全然かけてないくせに。
そんな言葉を吐くほど翔太は愚かではなかった。心の中だけで思い、次の台詞を考える。
「だいたい、そんな金どこにあるって言うんだよ」
「申請したら、免除してもらえるんだって」授業料の免除については、学校で資料を貰っていた。「だから、大丈夫だと思う」
「そんなみっともない真似できるかよ」
しかし美沙子はそう吐き捨てた。現実に見合わない見栄を張りたがる彼女のプライドは、学校からの支援を受け付けない。
「免除が駄目なら、俺がバイトでもすれば」
「そんなら昼から働きな」
やっぱり言われた。美沙子の右足は貧乏ゆすりを始めている。早くも限界が近づいていることを翔太は悟る。彼女はこんな風に改まったくだらない話が大嫌いなのだ。
「でも、俺が高校出たら、今働くよりきっといい仕事に就けるから」
「いい仕事ってなんだよ」
「それは、わからないけど……けど三年勉強した方が、きっとまだマシだよ」
「何がマシだって」
「何がって、世間から見て、とか」
「うるっせーな!」突然声を荒げ、美沙子は手元の煙草の箱を翔太に投げつけた。激昂すると手元にあるものを投げつける癖がこの女にはあった。それが翔太は大嫌いだった。
灰皿で煙草の火をもみ消し、腰を上げた美沙子は、咄嗟に一歩引いた彼に怒鳴りつける。
「おまえもあたしを馬鹿にすんのか! 低学歴の中卒女っつって鼻で笑うのか!」
「そんなこと……」
翔太にそんな感情があるはずがなかった。そもそも美沙子の学歴など知りようがなかったし、彼女が地方の女子高を中退していた事実など生涯知ることもない。
「所詮パートがせいぜいだっつって、馬鹿にするつもりだろ!」
大失敗を犯したことに気づき、翔太は必死に否定する。
「違う、俺は別に馬鹿になんて」
「親代わりのあたしにまで楯突くのかよ! とんだクズ野郎だな、おまえは! 実の親まで殺しやがって、まだ不満があんのか!」
ずきり、と胸の奥が痛んだ。そんな彼に彼女は床に落ちた煙草の箱を指さす。
「拾え」
何も言えない翔太に、美沙子はヒステリックに叫ぶ。
「拾え!」
屈んだ翔太がのろのろと右手を伸ばしたとき、夜更けだというのにチャイムが鳴った。途端に、美沙子のストッキングの足が玄関に駆け寄る。
もう駄目だ、とも思わなかった。つい半日前の自分が馬鹿馬鹿しくて仕方ない。可能性を僅かでも考えた自分は、本当に愚かだった。最初から無理だったのに、どうして希望がある気がしたのだろう。
どうやって凛に謝ろうか。呆然とそんなことだけを思いながら、箱をテーブルに置く。玄関からは早速文句をぶちまける美沙子と、すでに酔っている勝也の大きな声が聞こえてくる。ここは煙たくて酒臭くて仕方ない。嫌味なほど明るい蛍光灯を見上げ、もう寝てしまおうと思った。これ以上起きていても、何一ついいことなど起こりやしない。
伯母の美沙子は酒を飲んでいる。だから機嫌がいいはずだ。こんな話は、機嫌を覗ってするに限る。ならば今が一番いいはずだ。酒を飲むと正常な判断が鈍るという。彼女にとっての「正常な判断」は、翔太に出来る限り金をかけないことなのだ。
八年前、確かに両親と一軒家に暮らしていたことを翔太は覚えていた。だが両親の死後、家も土地も家具に至るまで何もかも、雨宮家の人間が売り払ってしまった。そして、誰が最後に残った翔太を引き取るかで大揉めに揉めた。施設に放り込まれても翔太は全く構わなかったが、それでは世間体が悪いと大人たちは言った。だが自分が貧乏くじを引くのだけは、頑として譲らない人たちだった。
美沙子は優しかったのではない。翔太にくっつく遺産の額が大きかったから、渋々了承したまでだ。決して少なくない金に目がくらみ、一人の人間まで受け取ってしまった。周囲の人間は、一人の人間を押し付けてそっぽを向いた。はっきり説明されずとも、それぐらい当事者は勘付いていた。
だから小学生の頃、仲の良い友人が受験をして私立の中学校を目指すと言った時、伯母に自分も受験したいと頼んだのだ。もちろん、彼女が受験を許すはずがなかった。
「お父さんと、お母さんのお金は?」
自分にくっついてきた金があるはずだ。それを意図した翔太の台詞に、逆上した彼女はガラスの灰皿を投げつけた。そのせいで頬にあざができ、学校でも問題になった。
それ以降、下手に殴られることもなくなったが、翔太が親の金について口にすることもなくなった。将来について話すこともやめた。どうしても暗いことしか想像できない未来に対してシャッターを下ろし、自分を隔絶してきたのだった。
それを、凛がわざわざノックしてくれた。だから少しぐらい、自分も隙間を開けねばなるまい。
部屋を出るとすぐダイニングキッチンがある。椅子に座り、時折ビールの缶をあおりながら、美沙子はスマートフォンをいじっている。テーブルの灰皿には火の消え切らない煙草の吸い殻が、細い煙を吐いていた。
しっかり襖を閉め、翔太はその背に呼びかけた。
「美沙子さん」
彼女は、「伯母さん」と呼ばれることを昔から嫌った。だから翔太はずっと下の名前で呼んでいる。
「おまえ、まだ起きてたの」彼女はめんどくさそうに舌打ちする。時刻は夜の十一時半だ。「うるさいから早く寝ろよ」
「話があるんだけど」
「あたしは別にないから」
「来年の話」
慎重に言葉を選ばなければいけない。けれど長々と話せばそれだけでこの人は怒りだす。
「俺、高校行きたい」
やっと彼女は振り向いた。八年前より随分老けた。それを隠す化粧を夜になっても塗りたくった顔が、訝しげに歪む。
「今日、高校見学行ったんだ。それで、やっぱり」
「なに馬鹿言ってんだよ」機器を置き、新しい煙草を取り出し咥え、火をつける。深く吸って、煙を吐く。「来年なったらもう働けんだろ。そんな暇あったら今まであんたにかけた金返しな」
金なんて、全然かけてないくせに。
そんな言葉を吐くほど翔太は愚かではなかった。心の中だけで思い、次の台詞を考える。
「だいたい、そんな金どこにあるって言うんだよ」
「申請したら、免除してもらえるんだって」授業料の免除については、学校で資料を貰っていた。「だから、大丈夫だと思う」
「そんなみっともない真似できるかよ」
しかし美沙子はそう吐き捨てた。現実に見合わない見栄を張りたがる彼女のプライドは、学校からの支援を受け付けない。
「免除が駄目なら、俺がバイトでもすれば」
「そんなら昼から働きな」
やっぱり言われた。美沙子の右足は貧乏ゆすりを始めている。早くも限界が近づいていることを翔太は悟る。彼女はこんな風に改まったくだらない話が大嫌いなのだ。
「でも、俺が高校出たら、今働くよりきっといい仕事に就けるから」
「いい仕事ってなんだよ」
「それは、わからないけど……けど三年勉強した方が、きっとまだマシだよ」
「何がマシだって」
「何がって、世間から見て、とか」
「うるっせーな!」突然声を荒げ、美沙子は手元の煙草の箱を翔太に投げつけた。激昂すると手元にあるものを投げつける癖がこの女にはあった。それが翔太は大嫌いだった。
灰皿で煙草の火をもみ消し、腰を上げた美沙子は、咄嗟に一歩引いた彼に怒鳴りつける。
「おまえもあたしを馬鹿にすんのか! 低学歴の中卒女っつって鼻で笑うのか!」
「そんなこと……」
翔太にそんな感情があるはずがなかった。そもそも美沙子の学歴など知りようがなかったし、彼女が地方の女子高を中退していた事実など生涯知ることもない。
「所詮パートがせいぜいだっつって、馬鹿にするつもりだろ!」
大失敗を犯したことに気づき、翔太は必死に否定する。
「違う、俺は別に馬鹿になんて」
「親代わりのあたしにまで楯突くのかよ! とんだクズ野郎だな、おまえは! 実の親まで殺しやがって、まだ不満があんのか!」
ずきり、と胸の奥が痛んだ。そんな彼に彼女は床に落ちた煙草の箱を指さす。
「拾え」
何も言えない翔太に、美沙子はヒステリックに叫ぶ。
「拾え!」
屈んだ翔太がのろのろと右手を伸ばしたとき、夜更けだというのにチャイムが鳴った。途端に、美沙子のストッキングの足が玄関に駆け寄る。
もう駄目だ、とも思わなかった。つい半日前の自分が馬鹿馬鹿しくて仕方ない。可能性を僅かでも考えた自分は、本当に愚かだった。最初から無理だったのに、どうして希望がある気がしたのだろう。
どうやって凛に謝ろうか。呆然とそんなことだけを思いながら、箱をテーブルに置く。玄関からは早速文句をぶちまける美沙子と、すでに酔っている勝也の大きな声が聞こえてくる。ここは煙たくて酒臭くて仕方ない。嫌味なほど明るい蛍光灯を見上げ、もう寝てしまおうと思った。これ以上起きていても、何一ついいことなど起こりやしない。
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