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9章 失くした名前
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夜になるのを待ち、翔太は一枚のメモを手に電話台の前に立った。丁寧に書かれている数字の通り、ボタンを押していく。
三コール目で、彼女は電話に出た。「……翔太?」慌てた声がする。それは翔太にとってひどく懐かしく感じられる。
「うん。今、大丈夫」
「大丈夫だよ」
「ごめん、連絡遅くなって」
「ううん。電話してくれてありがとう」彼女は心底安堵しているようだ。「翔太、どうしたの。ずっと学校休んでるけど、なにかあったの」
「あったよ」翔太は小声で笑う。「あったなんてもんじゃない」
「どうしたの、なにがあったの」
「俺、もういっぱいなんだ。それで疲れたんだよ」意図せずともため息が漏れた。
「いっぱいって、どうしたの。ねえ、教えて」
「幸せだったよ。本当に、楽しかった。全部、凛がいてくれたおかげなんだ」静かな声で、翔太は続ける。「今まで一緒にいてくれて、ありがとう。俺にはもったいない彼女だった」
「翔太、何言ってるの。そんなこと言わないで。私はこれからもずっと翔太のそばにいたい、私、何をしちゃったの」
切迫した声ですら、彼女のものなら愛おしい。
「凛のせいじゃない。俺たちは、最初から一緒にいるべきじゃなかったんだ」
「嫌だよ。突然どうしたの。おかしいよ、翔太」
「言ったろ、疲れたんだ。もう何も抱えられない。しんどいよ。全部、疲れちゃったんだ……」
「全部って、何が疲れちゃったの。私、そんなに負担になってたの。ねえ、声が変だよ。しっかりして」
声が変なのは眠たいせいかな。そう思いながら、翔太は目を擦った。電話をするのも億劫なほど、なんだか身体が重たい。思わず欠伸が出てしまう。床に座りたかったが、残念ながらコードが届きそうにないので仕方なく立ったまま口を開く。
「凛が負担なわけないよ。さっき言ったように、俺にはもったいないぐらいなんだ」
「ならどうして、こんなこと言うの」
「凛だって、少しは分かってるだろ」電話の向こうの声が途切れた。「この前、凛のお姉さんって人に聞いたんだ。どうして凛が親と暮らせなくなったのか」
「それは……」
絶句する彼女があまりに哀れで、今すぐにでも電話を叩き切りたい衝動を抑える。
「俺は今も凛が大好きだ。だけどきっと、俺のことなんか忘れた方がいいと思う」
「やだ……」彼女の声がみるみる湿っていく。「やだよ……忘れるなんて、そんなの嫌……」
「その方が、凛も幸せなんだ」
「そんなわけない。私は、本当に翔太が大好きなんだよ。それにきっと……」翔太の想像通り、凛は一縷の望みにかけていた。「人違いだよ……」囁く声で彼女は言った。
「俺も、そうだったらいいと思ってた」
彼女が泣き出す前に、翔太は最後の一言を繋げた。
「俺の前の名字、「南」っていうんだ」
かざしただけで、勝手に力の抜けた手から受話器が落ちた。ガチャリと音を立てて電話が切れる。
南翔太。もう誰も呼ばなくなった、存在しなくなった名前。凛の父親である日下部雄吾に奪われた、一家の苗字。
これで、全部終わった。そう思い、翔太はキッチンの床に倒れ込んだ。あとはもういくらでも眠れる。何も気に掛けることはない。
空っぽが立てる音だけを聞きながら、今度こそ夢も見ないまま眠りについた。
三コール目で、彼女は電話に出た。「……翔太?」慌てた声がする。それは翔太にとってひどく懐かしく感じられる。
「うん。今、大丈夫」
「大丈夫だよ」
「ごめん、連絡遅くなって」
「ううん。電話してくれてありがとう」彼女は心底安堵しているようだ。「翔太、どうしたの。ずっと学校休んでるけど、なにかあったの」
「あったよ」翔太は小声で笑う。「あったなんてもんじゃない」
「どうしたの、なにがあったの」
「俺、もういっぱいなんだ。それで疲れたんだよ」意図せずともため息が漏れた。
「いっぱいって、どうしたの。ねえ、教えて」
「幸せだったよ。本当に、楽しかった。全部、凛がいてくれたおかげなんだ」静かな声で、翔太は続ける。「今まで一緒にいてくれて、ありがとう。俺にはもったいない彼女だった」
「翔太、何言ってるの。そんなこと言わないで。私はこれからもずっと翔太のそばにいたい、私、何をしちゃったの」
切迫した声ですら、彼女のものなら愛おしい。
「凛のせいじゃない。俺たちは、最初から一緒にいるべきじゃなかったんだ」
「嫌だよ。突然どうしたの。おかしいよ、翔太」
「言ったろ、疲れたんだ。もう何も抱えられない。しんどいよ。全部、疲れちゃったんだ……」
「全部って、何が疲れちゃったの。私、そんなに負担になってたの。ねえ、声が変だよ。しっかりして」
声が変なのは眠たいせいかな。そう思いながら、翔太は目を擦った。電話をするのも億劫なほど、なんだか身体が重たい。思わず欠伸が出てしまう。床に座りたかったが、残念ながらコードが届きそうにないので仕方なく立ったまま口を開く。
「凛が負担なわけないよ。さっき言ったように、俺にはもったいないぐらいなんだ」
「ならどうして、こんなこと言うの」
「凛だって、少しは分かってるだろ」電話の向こうの声が途切れた。「この前、凛のお姉さんって人に聞いたんだ。どうして凛が親と暮らせなくなったのか」
「それは……」
絶句する彼女があまりに哀れで、今すぐにでも電話を叩き切りたい衝動を抑える。
「俺は今も凛が大好きだ。だけどきっと、俺のことなんか忘れた方がいいと思う」
「やだ……」彼女の声がみるみる湿っていく。「やだよ……忘れるなんて、そんなの嫌……」
「その方が、凛も幸せなんだ」
「そんなわけない。私は、本当に翔太が大好きなんだよ。それにきっと……」翔太の想像通り、凛は一縷の望みにかけていた。「人違いだよ……」囁く声で彼女は言った。
「俺も、そうだったらいいと思ってた」
彼女が泣き出す前に、翔太は最後の一言を繋げた。
「俺の前の名字、「南」っていうんだ」
かざしただけで、勝手に力の抜けた手から受話器が落ちた。ガチャリと音を立てて電話が切れる。
南翔太。もう誰も呼ばなくなった、存在しなくなった名前。凛の父親である日下部雄吾に奪われた、一家の苗字。
これで、全部終わった。そう思い、翔太はキッチンの床に倒れ込んだ。あとはもういくらでも眠れる。何も気に掛けることはない。
空っぽが立てる音だけを聞きながら、今度こそ夢も見ないまま眠りについた。
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