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11章 記憶
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病室に帰り、マフラーを解いてジャケットを脱ぐ。足を傷めないようベッドに戻って一息つくと、「あら」と悦子がそれを目にした。
「えらいかわええ子がおるね」
床頭台に置かれた小さな子犬のぬいぐるみ。それは凛の友人が持ってきてくれて、先日完成させたばかりのものだった。
「文化祭の展示用に私が作ってたんだって、友だちが持ってきてくれたんです」
「へえ。買ったものかと思ったわ」悦子はそれを手に乗せてしげしげと眺めた。「上手いもんやなあ」
「モデルが分からなくなったから、流れで仕上げたんだけど……」
「よう出来てるよ。あの子そっくりやね」
「あの子って……?」
首を傾げた凛は、彼女に気が付いた。振り返った悦子も、「こんにちは」と笑って挨拶をする。
「ほんなら、そろそろおいとましよか」ぬいぐるみを台に置き、彼女は荷物を持った。
「あの、ありがとうございました」
「こっちこそ、凛ちゃんの顔見れて良かったわ。無理したらあかんよ」
気を付けて、と言って悦子は帰っていった。
凛の記憶では、自分と友加里は仲が悪い義理の姉妹だった。義姉はいつも不機嫌な顔で投げやりに喋り、やたら辛く当たってくる人だった。今もその表情は、何か嫌なことがあったばかりのように憮然としている。
だが義姉は、義理の両親よりも頻回に見舞いにやって来た。雑談もあまりなく、必要な着替えなどを取り替えるといつもさっさと帰ってしまう。だが来てくれるのなら、きっと悪い感情はないのだろうと凛は思っていた。
記憶を失った凛はそうして気づけなかったが、友加里を見舞いへと動かす原動力は、実際のところ罪悪感に起因していた。
友加里は凛が嫌いだった。いつもにこにこしていて、明るく聡い彼女が目障りでたまらなかった。凄惨な過去を乗り越え、自分の意地悪にも笑顔で堪えて誰にも告げ口しない、よく出来た義理の妹。ムカついていじめるたびに、友加里は次第に惨めな気分に陥るようになった。友人が多く、恋人がいて、部活も勉強も一生懸命に取り組む彼女。それに冷たく当たるたびに、自分の心の狭さを見せつけられている気がした。凛さえいなければ、荒んだ苛立ちを覚える必要もなかったのに。
しかし、まさかこんなことになるとは予想だにしなかった。
少しの意地悪のつもりだった。誰にでも好かれる彼女が、友人との約束を破るように仕向けた。自宅から若葉中学校に向かう最短コースは通行止めだと嘘をつき、遠回りによって遅刻させようとしたのだ。今思えば何て馬鹿馬鹿しい悪意だろう。だがその稚拙な感情のために、彼女は事故に遭ってしまった。あの時、普段通りに道路を渡っていれば、こんなことにはならなかった。もしかすると彼女は家出をしたのかもしれないが、少なくとも足に後遺症を負い、記憶を失う結果にはならなかったのだ。
今も彼女のギプスと包帯で覆われた右足を見ると、罪悪感が募る。それならせめて、両親が渋る見舞いを引き受けようと友加里は思ったのだ。
「これ、タオル持ってきたから」
「ありがとう」
棚にタオルをしまう友加里に、凛は話しかける。先生はこう言っていただとか、悦子が散歩に連れて行ってくれただとか、今日の食事が美味しかっただとか、取り留めのないことを喋り続ける。
記憶を失っても、凛の気遣い屋の面は変わらなかった。それは友加里を含める家族三人に対しては一層過剰で、気まずい沈黙が訪れないよう凛は笑顔で話し続けた。
その健気さが、友加里には鬱陶しい。加えて、恐らく彼女の心身に染み込んでいる家族への怯えが垣間見えて、気の毒にも思える。捨てられないよう、嫌な思いをさせないよう、必死になって笑っている姿がとても悲しい。
だがそうしたのは自分たち家族であることを、友加里はよく知っている。
「なんか欲しいもんある」
話を遮られた彼女は目をしばたたかせ、「えっと」と言葉尻を濁した。
「お菓子とか、ジュースとか。欲しいもんないの」
「勝手に食べたら、いけないと思うから……」
「じゃあ、なんもいらないの」
「えっとね、それじゃあ、本が読みたい」凛はいいことを思いついたという顔をした。
「そういえば、あんたよく本読んでたね」
「うん。確か、そうだった気がする」
「何の本がいいのよ」
友加里の言葉に、凛はすぐに返事ができなかった。自分が何というタイトルの本を読んでいたか思い出せないのだ。
「そういえば、戻って来てるよ。あんたの荷物」
「荷物って」
「家出てった時に持ってたバッグ。中身も今家にあるから。そん中に本が入ってたから、それ持ってきたげる」
「本が入ってたの」
「一冊だけね。家出するのに持ってくぐらいだから、相当好きなんでしょ」
黙ってしまった凛に「冗談だって」と友加里は言う。
「スマホも修理終わってそろそろ戻ってくるらしいから。データ残ってるって。見たらなんか思い出すかもよ」
「うん」凛は友加里を見上げて笑う。「ありがとう」
「引っ越し準備はこっちでしとくから、あんたは勉強しときなよ。学校だって始まるんだから」
「そうだね」
彼女が頷くと、友加里は「じゃ」と短く言って背を向ける。わざわざ見なくても「気を付けてね」と凛が笑っているのは知っている。
「えらいかわええ子がおるね」
床頭台に置かれた小さな子犬のぬいぐるみ。それは凛の友人が持ってきてくれて、先日完成させたばかりのものだった。
「文化祭の展示用に私が作ってたんだって、友だちが持ってきてくれたんです」
「へえ。買ったものかと思ったわ」悦子はそれを手に乗せてしげしげと眺めた。「上手いもんやなあ」
「モデルが分からなくなったから、流れで仕上げたんだけど……」
「よう出来てるよ。あの子そっくりやね」
「あの子って……?」
首を傾げた凛は、彼女に気が付いた。振り返った悦子も、「こんにちは」と笑って挨拶をする。
「ほんなら、そろそろおいとましよか」ぬいぐるみを台に置き、彼女は荷物を持った。
「あの、ありがとうございました」
「こっちこそ、凛ちゃんの顔見れて良かったわ。無理したらあかんよ」
気を付けて、と言って悦子は帰っていった。
凛の記憶では、自分と友加里は仲が悪い義理の姉妹だった。義姉はいつも不機嫌な顔で投げやりに喋り、やたら辛く当たってくる人だった。今もその表情は、何か嫌なことがあったばかりのように憮然としている。
だが義姉は、義理の両親よりも頻回に見舞いにやって来た。雑談もあまりなく、必要な着替えなどを取り替えるといつもさっさと帰ってしまう。だが来てくれるのなら、きっと悪い感情はないのだろうと凛は思っていた。
記憶を失った凛はそうして気づけなかったが、友加里を見舞いへと動かす原動力は、実際のところ罪悪感に起因していた。
友加里は凛が嫌いだった。いつもにこにこしていて、明るく聡い彼女が目障りでたまらなかった。凄惨な過去を乗り越え、自分の意地悪にも笑顔で堪えて誰にも告げ口しない、よく出来た義理の妹。ムカついていじめるたびに、友加里は次第に惨めな気分に陥るようになった。友人が多く、恋人がいて、部活も勉強も一生懸命に取り組む彼女。それに冷たく当たるたびに、自分の心の狭さを見せつけられている気がした。凛さえいなければ、荒んだ苛立ちを覚える必要もなかったのに。
しかし、まさかこんなことになるとは予想だにしなかった。
少しの意地悪のつもりだった。誰にでも好かれる彼女が、友人との約束を破るように仕向けた。自宅から若葉中学校に向かう最短コースは通行止めだと嘘をつき、遠回りによって遅刻させようとしたのだ。今思えば何て馬鹿馬鹿しい悪意だろう。だがその稚拙な感情のために、彼女は事故に遭ってしまった。あの時、普段通りに道路を渡っていれば、こんなことにはならなかった。もしかすると彼女は家出をしたのかもしれないが、少なくとも足に後遺症を負い、記憶を失う結果にはならなかったのだ。
今も彼女のギプスと包帯で覆われた右足を見ると、罪悪感が募る。それならせめて、両親が渋る見舞いを引き受けようと友加里は思ったのだ。
「これ、タオル持ってきたから」
「ありがとう」
棚にタオルをしまう友加里に、凛は話しかける。先生はこう言っていただとか、悦子が散歩に連れて行ってくれただとか、今日の食事が美味しかっただとか、取り留めのないことを喋り続ける。
記憶を失っても、凛の気遣い屋の面は変わらなかった。それは友加里を含める家族三人に対しては一層過剰で、気まずい沈黙が訪れないよう凛は笑顔で話し続けた。
その健気さが、友加里には鬱陶しい。加えて、恐らく彼女の心身に染み込んでいる家族への怯えが垣間見えて、気の毒にも思える。捨てられないよう、嫌な思いをさせないよう、必死になって笑っている姿がとても悲しい。
だがそうしたのは自分たち家族であることを、友加里はよく知っている。
「なんか欲しいもんある」
話を遮られた彼女は目をしばたたかせ、「えっと」と言葉尻を濁した。
「お菓子とか、ジュースとか。欲しいもんないの」
「勝手に食べたら、いけないと思うから……」
「じゃあ、なんもいらないの」
「えっとね、それじゃあ、本が読みたい」凛はいいことを思いついたという顔をした。
「そういえば、あんたよく本読んでたね」
「うん。確か、そうだった気がする」
「何の本がいいのよ」
友加里の言葉に、凛はすぐに返事ができなかった。自分が何というタイトルの本を読んでいたか思い出せないのだ。
「そういえば、戻って来てるよ。あんたの荷物」
「荷物って」
「家出てった時に持ってたバッグ。中身も今家にあるから。そん中に本が入ってたから、それ持ってきたげる」
「本が入ってたの」
「一冊だけね。家出するのに持ってくぐらいだから、相当好きなんでしょ」
黙ってしまった凛に「冗談だって」と友加里は言う。
「スマホも修理終わってそろそろ戻ってくるらしいから。データ残ってるって。見たらなんか思い出すかもよ」
「うん」凛は友加里を見上げて笑う。「ありがとう」
「引っ越し準備はこっちでしとくから、あんたは勉強しときなよ。学校だって始まるんだから」
「そうだね」
彼女が頷くと、友加里は「じゃ」と短く言って背を向ける。わざわざ見なくても「気を付けてね」と凛が笑っているのは知っている。
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