流星の徒花

柴野日向

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11章 記憶

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 きっと友加里は忘れてしまっただろうと凛は思っていたが、一週間が経った頃、彼女は約束通り本を持ってきてくれた。
「夏目漱石だって。かわいくないもん読んでんじゃん」
 床頭台のぬいぐるみのそばに本を置きながら、相変わらず不機嫌そうに彼女は言った。
「夢十夜、だよね」
「そうね」
「友加里さんも読んでみる?」
「いらない。興味ないし」
 素っ気なく言い放った友加里は「売店行ってくるわ」と財布を持って部屋を出て行ってしまった。
 それを見送った凛は、腕を伸ばして本を手に取る。友加里が言うには、持っていたバッグは破れスマートフォンは割れてしまったが、本は無事だったらしい。
 残された記憶には、この本のことがある。新しい本など買えない貧しい生活の中、母が結婚前から持っていた本を譲ってくれた。当時は難しすぎて読めなかったから、裏に名前だけ書いて大きくなった時のためにおいていた。
 結局、本の中身を読み始めた頃には、両親とは暮らせなくなっていたのだが。
 凛は懐かしい思いで本をひっくり返し、あれ、と思う。下の方に「日下部凛」とペンで書かれている。だが本を読み始めた小学四年生頃に、この苗字をシールで隠した覚えがある。白いシールを貼って上に「榎本」と書いたのだ。本当は書きたくなかった。これを書き換えれば、自分の過去までも上書きされる気がして、出来れば「嫌だ」と言いたかった。永遠に共に暮らすことがなくとも、苗字は幼い頃に過ごした両親との日々を感じられる最後の砦だったのだ。
 だが「日下部凛」の名前が多くの人に迷惑をかけていることは知っていたし、自分の未来に悪影響をもたらすことにも気づいていたから、叔母に言われるまま泣く泣く「榎本」に書き換えた。
 そんな思いをして貼ったシールを、いつ剥がしたのだろう。事故の時に剥がれたのだろうか。本自体が綺麗に残っているのに、そんなことがあり得るのか。
 不思議に思いながら本をパラパラと捲る。途中で引っかかりがあるのに手を止める。
 真ん中のページを開く。
 何かが挟まれている。
「栞……?」
 綺麗にリボンが折りたたまれていたから気づかなかった。
 それをそっと手に取る。
 息を呑んだ。

 ――山吹の花。

「これ……」
 思わず声が漏れた。
 思い出す。この栞をもらった時のこと。この栞をくれた人のこと。
 大切な、誰よりも大事な人。
「翔太……」
 どうして。何故今まで忘れていたんだろう。

 ――暑い夏。冷たいアイスクリーム。輝く海。青い空。波の音。

 プレゼントだと栞を渡してくれた時の、少し照れた彼の顔を思い出す。人生で一番幸福な誕生日。忘れるはずなんてないと思っていた。
 震える手から本が布団に落ちる。打ち寄せる波のように記憶がよみがえる。

 ――俺も、凛が大好きだ。

 勇気を出して告白した時の、彼の返事。あの瞬間、胸がいっぱいになって、嬉しくて涙さえ零れた。
 いつだって彼のことを想っていた。寒そうな姿を見ていたくなくて、マフラーを編んだ。一緒に臨んだ受験の日も、彼はマフラーを巻いていた。共に合格した時は喜びで思わず飛び跳ねた。何度も教室を訪ねて、丘の上でも長い時間話をした。夏休みには隣町の夏祭りにも行った。毎日が幸せで、楽しくて仕方なかった。
 そして彼は被害者だった。父、日下部雄吾のせいで多くのものを失った人。

 ――一緒に、遠くに行こう。

 だからあの夜、誰にも知らせず、手を繋いで逃げる約束をした。
 思い出した。自分は家出を目論んでいたが、それは独りぼっちの逃亡ではなかったのだ。

「ごめんなさい……」
 身体がぶるぶると震える。あの約束を、破ってしまった。「私はずっと、翔太の味方だよ」。そんなことを言ったのに、結局彼を独りぼっちにしてしまった。
 彼がここに来られない理由もわかる。事件当時に子どもだった友加里はともかく、叔父と叔母は彼の顔に、被害者遺族の面影を見出してしまうかもしれない。彼は自分が被害者だと言って堂々としているような人ではない。そんな騒ぎを起こすぐらいなら、一人で身を引いてしまう人間だ。優しい少年なのだ。

 苦しい。苦しい。息が、出来ない。

「ちょっと、あんたどうしたの」
 友加里の声が聞こえてくる。大丈夫と言おうとするが、声が出ない。吸っても吸っても呼吸ができない。
「凛ちゃん、しっかりして」
「看護師さん、早く来て!」
 同室の患者の声。応えようとするが眩暈に耐えられない。身体が大きく傾ぐ。布団の上に倒れてしまう。
 栞を両手で包んだまま、凛は意識を手放した。
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