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5話 狩人
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主人の追っ手から姿をくらますべく、ふたりは森の奥へ入る。腹が空けば木の根元に生えている茸をかじり、枝に実る木の実を口にし、喉が渇けば川面を覗いた。深い木々の中、ときおり獣の足跡を見つけ、鉢合わせずにすんでよかったと胸をなで下ろし、行くあてもなく彷徨った。
しかしふたりは、明け方の震えるような寒さから、もうじき冬がやってくることを知った。自分たちの脆い身体など、とても生き延びられないと悟ってしまった。戻れば殺されるが、進んでも死は待ち構えている。ふたりの足取りは決して軽いものではない。
「シノ、それ食ったら腹壊すぞ。ほら、これやるから」
言葉数の少ない旅路で、ナツは食べられる草や茸の種類をよく知っていて、足を止めてはシノに教えた。
木漏れ日の溢れる森の中、獣道の端で木の実をかじるシノの隣に腰を下ろし、ナツが言う。
「あたしの家さ、貧乏だったんだ。そりゃあ、あたしを売らなきゃいけないぐらい、食べるものもなかった。父さんと母さんと、姉さんも二人いたけど、いくら働いても、その日を凌ぐのでやっとだったんだ。だから、よく山に食べ物採りに行ったよ。今の季節なら、下手すりゃあ山にこもってたほうが食える日もあったぜ」
自分を見上げるシノと同じものを口にいれ、噛み締める。白い歯の隙間で、木の実の赤がちらちらと覗く。
「だから、旦那様の家に来て、びびったよ。自分の飯も作らねえで、こんなに柔らかい布団で寝られる奴が居るなんて、思ってもみなかったからよ。あたしとは何もかもが違うんだ。……四年になるけどさ、あの人たちはずっと、違う生き物だったよ」
そう言って、ナツは横にいるシノを見下ろした。真っ黒な美しい瞳で、シノが不思議そうな表情で見上げるのに、頬を緩める。シノは片時もナツの傍を離れようとせず、水を飲む時も、眠る時も、いつだって隣にくっついていた。言葉を話せないからこそ、想いを身体で伝えるように、寄り添っている。
今も、ナツの思いつめたような表情を見つめるシノは、呼吸さえ感じられるほど近くにいる。
「あんたは、旦那様よりもあたしに近いよ。……けど、あんたは、よっぽど素直だ。声を出せなくたって、変わりないぐらいの愛嬌がある。だからさ……だから、思っちまうんだ。シノは、あたしと逃げるべきじゃないんだってさ……。もしかしたら、あんたは街の方に逃げたほうがよかったのかもしれない、誰かが拾って、大事にしてくれたかもしれないんだ。その方が、あたしなんかといるより、よっぽどいいんじゃねえかってさ」
珍しく覇気のないナツの言葉に、シノはきょとんと目を見開く。そんな彼を映すナツの瞳は揺れてしまう。
「……ごめんな。あたしに付き合わせて、こんなところまで来ちまってよ……」
ナツの言いたいことを理解し、シノはふるふると首を横に振る。手に持った赤い実を零しても構う様子など微塵もなく、心細いナツの台詞を懸命に否定する。
「今からでも、チャンスがあるかもしれない。あたしなんかといたって、あんたは絶対に幸せになんかなれないんだからさ、だから」
ナツはそう言って台詞を飲み込んだ。シノが細い両腕を伸ばして身体に抱きついてきたからだった。
言葉を話せないもどかしさを振りほどくように、シノはナツの身に顔をうずめ、声にならない言葉を叫ぶ。
一緒にいたいと、シノは言う。一人だけ幸せになんかなりたくないのだと、ナツと一緒にいたいんだと、小枝のような指に力をいれ、痩せた身体に取り縋る。
そんな彼の様子を目の当たりにすれば、ナツはこれ以上言葉を続けられない。躊躇いながらも腕を回し、シノを抱き抱えて、ふたりぼっちの温もりに安堵する。
「……馬鹿だよ、あんたは。なあ、シノ」
彼女の言葉の余韻が空気を揺らす。
その波紋が消えない頃、太い遠吠えが優しさを切り裂いた。
狼のような賢く大きな犬たちは、牙をむいて二人に襲いかかった。
二人は強く手をつなぎ、山道をひたすら駆ける。木の根に足を取られ、生い茂る葉に頬を切り裂かれながら、ナツとシノは薄暗い山の中を、奥へ奥へと死に物狂いに駆け抜ける。背後に迫り来る猟犬の荒い息づかいがうなじを辿り、今にもかかとに噛みつかれそうな恐怖に襲われる。
数日前に逃亡した二人がねぐらとしたいくつかの木の虚を、主人が遣わした狩人たちは捜し当て、相棒である猟犬ににおいを嗅がせて追いつめた。雇い主は、生け捕りが望ましいが、不可能ならば殺してしまってもかまわないという。その依頼に基づき、子どもたちの手足をもぎ取れと犬たちに命令する。そして今、凶暴な犬は、彼らの姿を見つけたのだった。
今にも雨が降り出しそうな曇り空、陽光の遮られる暗い獣道を、幼いふたりは懸命に走り続けた。片方を急斜面に、片方を崖に挟まれた狭い道を辿っていく。だが、この数日ろくなものを食べず、元々不健康だった彼らに獣から逃げ延びる力などあるはずがない。ついにシノの薄い背中が、飛びかかる黒い毛の塊に押し倒されてしまった。
「シノ!」
シノの手が滑り落ち、ナツは振り返りながら叫んだ。うつ伏せの小さな身体は、大きな猟犬に潰れてしまっている。細い両腕は抗うことなど出来ず、それを噛み千切ってしまおうと、鋭い牙の並ぶ口が大きく開かれる。
「くっそおおお!」
咄嗟に、地面に落ちている太い枝を握り、咆哮とともにナツはそれを振り切った。重い衝撃に腕が取れてしまいそうな気がしたが、犬の頭を殴ったそれを間髪入れずに振り上げた。
キャン、と犬が高い悲鳴を上げて、脳天を襲った痛みに身体をよろめかせる。犬の頭を殴った枝を投げ捨て、ナツはシノに飛びついた。
「大丈夫か、シノ!」
獣の鋭い爪を立てられ、シノの背からは血が流れている。ナツは咄嗟にその背に覆い被さった。
「うっ、ぐ」
音もなく現れたもう一匹が牙をむき、ナツのわき腹に歯を食い込ませた。
薄い布と牙の隙間を鮮血が滴り、あっという間にナツの身体は真っ赤に染まっていく。激痛に声も出せないナツは、それでも腕を振り上げ、獣の鼻先に肘を埋め込んだ。骨ばった細い腕を差し込まれ、猟犬がひるんだすきに身をひねり、ナツは地面に膝をつく。あまりのことに目を見開き、ナツの下敷きになっていたシノは、ナツに取り縋った。
シノの肩越しに、自分たちに襲いかかる黒の獣を目にし、ナツはシノを庇うように抱きしめる。牙をむく獣を巻き込み、二人の身体はバランスを失い崖を転げ落ちていった。
しかしふたりは、明け方の震えるような寒さから、もうじき冬がやってくることを知った。自分たちの脆い身体など、とても生き延びられないと悟ってしまった。戻れば殺されるが、進んでも死は待ち構えている。ふたりの足取りは決して軽いものではない。
「シノ、それ食ったら腹壊すぞ。ほら、これやるから」
言葉数の少ない旅路で、ナツは食べられる草や茸の種類をよく知っていて、足を止めてはシノに教えた。
木漏れ日の溢れる森の中、獣道の端で木の実をかじるシノの隣に腰を下ろし、ナツが言う。
「あたしの家さ、貧乏だったんだ。そりゃあ、あたしを売らなきゃいけないぐらい、食べるものもなかった。父さんと母さんと、姉さんも二人いたけど、いくら働いても、その日を凌ぐのでやっとだったんだ。だから、よく山に食べ物採りに行ったよ。今の季節なら、下手すりゃあ山にこもってたほうが食える日もあったぜ」
自分を見上げるシノと同じものを口にいれ、噛み締める。白い歯の隙間で、木の実の赤がちらちらと覗く。
「だから、旦那様の家に来て、びびったよ。自分の飯も作らねえで、こんなに柔らかい布団で寝られる奴が居るなんて、思ってもみなかったからよ。あたしとは何もかもが違うんだ。……四年になるけどさ、あの人たちはずっと、違う生き物だったよ」
そう言って、ナツは横にいるシノを見下ろした。真っ黒な美しい瞳で、シノが不思議そうな表情で見上げるのに、頬を緩める。シノは片時もナツの傍を離れようとせず、水を飲む時も、眠る時も、いつだって隣にくっついていた。言葉を話せないからこそ、想いを身体で伝えるように、寄り添っている。
今も、ナツの思いつめたような表情を見つめるシノは、呼吸さえ感じられるほど近くにいる。
「あんたは、旦那様よりもあたしに近いよ。……けど、あんたは、よっぽど素直だ。声を出せなくたって、変わりないぐらいの愛嬌がある。だからさ……だから、思っちまうんだ。シノは、あたしと逃げるべきじゃないんだってさ……。もしかしたら、あんたは街の方に逃げたほうがよかったのかもしれない、誰かが拾って、大事にしてくれたかもしれないんだ。その方が、あたしなんかといるより、よっぽどいいんじゃねえかってさ」
珍しく覇気のないナツの言葉に、シノはきょとんと目を見開く。そんな彼を映すナツの瞳は揺れてしまう。
「……ごめんな。あたしに付き合わせて、こんなところまで来ちまってよ……」
ナツの言いたいことを理解し、シノはふるふると首を横に振る。手に持った赤い実を零しても構う様子など微塵もなく、心細いナツの台詞を懸命に否定する。
「今からでも、チャンスがあるかもしれない。あたしなんかといたって、あんたは絶対に幸せになんかなれないんだからさ、だから」
ナツはそう言って台詞を飲み込んだ。シノが細い両腕を伸ばして身体に抱きついてきたからだった。
言葉を話せないもどかしさを振りほどくように、シノはナツの身に顔をうずめ、声にならない言葉を叫ぶ。
一緒にいたいと、シノは言う。一人だけ幸せになんかなりたくないのだと、ナツと一緒にいたいんだと、小枝のような指に力をいれ、痩せた身体に取り縋る。
そんな彼の様子を目の当たりにすれば、ナツはこれ以上言葉を続けられない。躊躇いながらも腕を回し、シノを抱き抱えて、ふたりぼっちの温もりに安堵する。
「……馬鹿だよ、あんたは。なあ、シノ」
彼女の言葉の余韻が空気を揺らす。
その波紋が消えない頃、太い遠吠えが優しさを切り裂いた。
狼のような賢く大きな犬たちは、牙をむいて二人に襲いかかった。
二人は強く手をつなぎ、山道をひたすら駆ける。木の根に足を取られ、生い茂る葉に頬を切り裂かれながら、ナツとシノは薄暗い山の中を、奥へ奥へと死に物狂いに駆け抜ける。背後に迫り来る猟犬の荒い息づかいがうなじを辿り、今にもかかとに噛みつかれそうな恐怖に襲われる。
数日前に逃亡した二人がねぐらとしたいくつかの木の虚を、主人が遣わした狩人たちは捜し当て、相棒である猟犬ににおいを嗅がせて追いつめた。雇い主は、生け捕りが望ましいが、不可能ならば殺してしまってもかまわないという。その依頼に基づき、子どもたちの手足をもぎ取れと犬たちに命令する。そして今、凶暴な犬は、彼らの姿を見つけたのだった。
今にも雨が降り出しそうな曇り空、陽光の遮られる暗い獣道を、幼いふたりは懸命に走り続けた。片方を急斜面に、片方を崖に挟まれた狭い道を辿っていく。だが、この数日ろくなものを食べず、元々不健康だった彼らに獣から逃げ延びる力などあるはずがない。ついにシノの薄い背中が、飛びかかる黒い毛の塊に押し倒されてしまった。
「シノ!」
シノの手が滑り落ち、ナツは振り返りながら叫んだ。うつ伏せの小さな身体は、大きな猟犬に潰れてしまっている。細い両腕は抗うことなど出来ず、それを噛み千切ってしまおうと、鋭い牙の並ぶ口が大きく開かれる。
「くっそおおお!」
咄嗟に、地面に落ちている太い枝を握り、咆哮とともにナツはそれを振り切った。重い衝撃に腕が取れてしまいそうな気がしたが、犬の頭を殴ったそれを間髪入れずに振り上げた。
キャン、と犬が高い悲鳴を上げて、脳天を襲った痛みに身体をよろめかせる。犬の頭を殴った枝を投げ捨て、ナツはシノに飛びついた。
「大丈夫か、シノ!」
獣の鋭い爪を立てられ、シノの背からは血が流れている。ナツは咄嗟にその背に覆い被さった。
「うっ、ぐ」
音もなく現れたもう一匹が牙をむき、ナツのわき腹に歯を食い込ませた。
薄い布と牙の隙間を鮮血が滴り、あっという間にナツの身体は真っ赤に染まっていく。激痛に声も出せないナツは、それでも腕を振り上げ、獣の鼻先に肘を埋め込んだ。骨ばった細い腕を差し込まれ、猟犬がひるんだすきに身をひねり、ナツは地面に膝をつく。あまりのことに目を見開き、ナツの下敷きになっていたシノは、ナツに取り縋った。
シノの肩越しに、自分たちに襲いかかる黒の獣を目にし、ナツはシノを庇うように抱きしめる。牙をむく獣を巻き込み、二人の身体はバランスを失い崖を転げ落ちていった。
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