ナツとシノ

柴野日向

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22話 首輪

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 初めは観客も、それは彼の表現の一つだと思ったが、徐々に困惑が立ち上り始めた。彼は倒れたまま動かない。髪に結わえた赤い紐が、解けて地面に落ちている。これはただ事ではないと気づいた者たちが、声を上げ始めた。
「シノ!」
 いち早く飛び出したナツは、周りの制止を振り切り、舞台上へ駆け上がった。うつ伏せに倒れているシノの傍らに膝をつき、あまりに細い肩を掴んで揺さぶる。
「シノ、シノ! しっかりしろ! シノ!」
 声を荒げるが、シノはぐったりと目を閉じたまま、瞼を開こうとはしない。
 息を呑んだナツは、周りから降ってくる声たちに気が付いて顔を上げた。ぐるりと周りを取り囲む、大勢の顔、顔、顔。驚愕と不安に染められた観客たちの顔が、口々に何かを言っている。前も後ろも右も左も、全てを見知らぬ人に囲まれている。自分たちを見つめている。
 こんな中でシノは唄っていたのかと、ナツは愕然とした。こんなにも多くの期待を背負い、この小さな体は毎日立ち続けていたのだ。誰もが自分ひとりを見つめる大舞台で、決して楽ではない唄を、シノは唄い続けていたのだ。
 呆然としているナツの腕を誰かが掴んだ。やってきた団員がシノを抱き上げ、引くようにナツに告げる。駆けつけたピエロがおどけた様子で次の演目を周知する横を、よろめく足取りで、ナツは引き下がった。

 目を覚ましたシノは、打ちひしがれていた。いつもの輝きが嘘のように瞳は陰り、俯いてしまっていた。それは、自分の舞台を無事に終われなかった事実だけではなく、積もりに積もった心の痛みに潰されているようだった。
 シノにとって、平気でいられる唄ではなかった。
 だが彼は、その瞳で、乞うように団長を見上げた。震える体を抱いて、ナツに支えられながら、必死に自分の首輪を掴み、声にならない言葉を叫んだ。
 そして呼ばれていた鍵師が、ナツとシノの元にやってきた。ため息をつきながらも、約束だからと、団長が許してくれたのだ。
 首だけではなく、全身が軽くなるのをナツは感じた。ガチャンと音を立てて外れた首輪を見て、これがいついかなる時も自分を締めつけ、苦しめていた物だという事実に言葉を失った。こんな両手に収まる物が、自分の身分を誰彼に訴え、追っ手に怯える日々を迎えさせていたのだ。
 それはもう、外れた。首に手を当ててみる。鏡を見ると、赤い痣が残ってしまっているが、生まれた時の姿を、その部分は取り戻していた。
 だが、そうした幸福の余韻に浸っている間もなく、ナツは振り返った。シノは床に蹲ったまま、ナツと同じように自分の首輪を手に持っている。ナツに呼ばれると、ゆっくりとその頭を上げ、感情の見えない瞳で、口の形でせめて見た目だけでも笑顔を作ろうとする。彼の似合わない不器用な笑顔を見た途端、ナツの感情は一色に染まった。
「シノ、この、ばかやろう!」
 その胸ぐらをつかみ、自分の首輪を地面に叩きつけ、ナツは声を張り上げた。熱い怒りが胸を満たしている。
「なんで黙ってやがった! なんで倒れるまで唄ってたんだ!」
 怒りに身を任せ、ナツは激しく頭を振る。後ろで束ねた髪が揺れる。
「首輪なんて……首輪なんて、どうでもいいんだよ! あんたは本当に、どうしようもない馬鹿だ! あんだけ言ったじゃねえか、辛かったらあたしに言えって!」
 シノはずっと隠していた。平気ではいられない心を、ずっとずっと、隠し続けていた。聞くだけで体が震え、足が立たなくなるような言葉を、毎日毎日繰り返し口にしていたのだ。そうして最後になって、その痛みに耐えられなくなってしまった。いつだってナツに笑いかけていた瞳は、今や光を失っている。まるで主人に殴られる夜のように、姉弟の約束を交わした日のように、沈んでしまっていた。
「あたしは何度も言ったよな! 我慢なんて絶対すんなって、絶対に無理なんかするんじゃねえって! あんたは、約束してくれたんじゃなかったのかよ。いっつも頷いて、笑ってたじゃねえか!」
 シノの胸ぐらを掴む手が震える。ナツにはいつも聞こえていた。シノは確かに約束をしていた。分かったと、その優しい笑顔で頷いていたのだ。
 それなのにと、ナツは歯噛みする。睨みつけていると、シノは小さく口を動かした。声の出ない口は、「ナツ」と小さく呼ぶと、やがて笑った。
 かっと頭に血が上り、ナツは拳を振り上げた。
「言っただろが、許さないって! あたしは許さないからな、この大馬鹿野郎!」
 だが、挙げられたナツの右手は、虚ろに瞳を開いたシノの頬を殴ることはなかった。シノは諦めきり、身体から力を抜いて、されるがままに任せている。その様子にナツは覚えがあり、彼の瞳を見て、自分の姿を知ってしまった。そこに映る、燃えるような怒りを宿して相手を殴ろうとする様には、見覚えがあった。
 握り締めた拳をぶるぶると震わせ、食いしばった歯の隙間で音を立てて呼吸をしながら、ナツは懸命に手を下ろして呻いた。
「ちくしょう……あたしも、あの人と同じになっちまう……」
 シノの瞳に映るのは、自分を殴る時の主人と同じ目を持った自分だった。怒りに身を任せれば、あの非道い主人と同じになってしまう。喜んでシノを傷つけ、多くの奴隷を殺してきたあの男と、同じことをしてしまう。その思いで、ナツはなんとか腕を下げた。
「大っきらいだ!」
 だが、シノの胸ぐらをつかんだまま、怒りを秘めた鋭い瞳で睨みつけ、ナツは大声を叩きつけた。
「勝手に痛い目見やがって、約束破って言うこともきかねえあんたなんか、大っきらいだ! どうにだって好きにしちまえ! 馬鹿野郎!」
 思い切り突き飛ばすと、シノはあっさりとよろめき、その場に倒れてしまう。だが彼の目は、ナツを責めてはいない。傷つき、疲れきり、全てを諦めてしまったあの頃の瞳を、ぼんやりと開いているだけだった。それが、彼の本当の姿だった。残酷な唄を来る日も来る日も唄い続け、心を殺し、磨り減らし、限界を迎えてしまったシノの姿だった。
 あれだけ寄り添い抱きしめたシノを、ナツは起こすことさえなく、怒りに肩を震わせ見下ろすだけだった。シノは、助けを求めない。全てを仕方のないものだと諦観し、肩を落とし、暗い瞳をただ開いていた。
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