蛟《みずち》の娘

朧月ひより

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後編

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 娘には、これまで友と呼べるような者はいなかった。

 娘には祠守の役目があったので、同年代の子供たちよりも自由になる時間は少なかった。
 そのうえ名主の息子に目を付けられて、いじめられるようになってからは、巻き込まれまいと遠巻きにされた。

 ただ、一度だけ、毎日会うほどに親しくなった者がいた。
 客観的に見れば餌付けとしか言いようがなかったが、ずいぶんと心を慰められたので、友と呼んで許されるなら、その者こそ友ではないかと娘は思っている。

 それは祠守となって、三年ほど経った頃だった。
 いつものように祠に供物をささげ、祈っていると、ふと視界に動くものが見えた。

 獣が来たかと警戒して顔を上げると、祭壇の上に一匹の蛇がいた。
 こちらを気にするでもなく、供物を物色しているようだった。

 娘は祈りを続けながら、その様子を観察していた。
 他の生き物なら、追い払うことも考えただろうが、蛇である。蛇という生き物は、水神の縁者と考えられている。
 この祠に現れるなら、水神様のお遣いではないだろうか。

 尊い方のお遣いと思って見れば、何とも美しい。真っ白の鱗は虹色に輝き、紅を引いたように目元に朱の線がある。さほど大きくはないので、まだ幼体だろうか。

 儀式を終えて改めて祭壇を見ると、豆や木の実、干した肉にわずかに齧った跡があるほか、飯が半分ほどなくなっていた。
(毎日炊いた飯をご所望になる水神様と同じで、お遣いの方は飯がお好きなのね)

 翌日も、その次の日も、蛇はやってきた。
 何度も顔を合わせていれば、愛着もわいてくる。
 まん丸の黒い瞳に、朱の線。小柄でどことなく上品に思えるしぐさが、嫋やかな娘のように見えて愛らしかった。この方は水神様の御国のお姫様なのではないかしらと、娘は夢想した。
 何週間もすれば祭壇のすぐそばまで手を伸ばしても、蛇は逃げなくなった。
「あなたは、水神様の御子みこなのでしょうか」
 ふと、話しかけてみると、蛇が頷いたように見えた。
 嬉しくなって、娘はそれから毎日、蛇を「御子さま」と呼んで話しかけた。

 数ヶ月ほど経ったのち、蛇は姿を現さなくなった。
 どこかで死んでしまったのかもしれない。そう心配したが、水神様の御国に帰られたのだと娘は思い直した。
 蛇のいなくなった毎日は寂しかったが、あの時御子様にあんな話をしたな。次にお会い出来たらこんな話をしよう。そう考えると、慰められた。


◇◆◇


 夜半に無礼な男が侵入してくるような屋敷に留まりたくはなかろうから、姫君一行はすぐに出立するだろうと思われていた。だが意外にももう一泊するという。
 なんでも、この先の山道で商いの一行が立ち往生しているのだという。
 長雨の影響で山が崩れ、道幅が狭くなっている。
 その上、ぬかるみに足を取られた荷車が荷崩れを起こしているという。
 様子を見に行った付き人の男のうちの一人は、状況を伝えると、道を開ける手伝いに行くと言ってまた山道へと駆けていった。

 花婿がまた姫に悪さをしないかと、周囲は警戒の目を緩めないが、本人は今のところ生気が抜けたように大人しい。

 夕暮れも近くなってきたところで、娘は姫君が会いたがっているとの伝言を受け、客間へと向かった。

 まだ実際には夫婦とも呼べない間柄ではあるが、夫が不始末を起こした相手である。
 妻として心から謝罪する心づもりであったが、姫君は謝られることなど何もないと言い、むしろ娘の境遇を憐れみ、涙すら流した。
 やんごとなき人の常らしく、姫君はほとんど話さず付き人の女が意を汲んで説明したが、姫君のいたわりと気遣いは十分に伝わってきた。

 姫君は娘を気に入ったので、側仕えとして召し抱え、連れて行きたいと考えていると告げられた。名主夫婦は、娘さえ良ければと承諾済みだという。娘に離縁後の奉公先を斡旋するにしても、名主夫婦の地位では、いくら頑張ったところで姫君の側仕えほど厚遇な奉公先など紹介できない。そう考えたに違いない。
 明日の朝出立するので、それまでに考えておいてほしいと言われ、面会は終了した。


◇◆◇


 翌日、朝餉を終えて姫君一同は出立した。
 新しく付き人となった娘を連れて。

 途中、娘の生家に立ち寄り、両親と再会した。
 娘は事のあらましを語り、素晴らしい姫君にお仕えすることになったこと。遠くへ旅立つので、今生の別れになるかもしれないことを告げた。
 両親は名主の息子の元へ嫁がせたことを悔やんでいたので、良い方に巡り会えたと喜び、そして別れに涙して娘を抱き寄せた。
 娘は両親にそっと耳打ちした。「姫君は水神様の御子なのですよ」と。
 両親は娘の言葉に首を傾げたが、姫君の方を見て、なんとなく理解した。
 娘は御子様と呼んだ蛇が祠にいた時は、蛇に危害を加える者がいるかもしれないと誰にも話さなかったが、御子様がいなくなった後に、両親にだけ打ち明けた。
「御子様は宝玉ののように白く輝くお体で、大きな黒い目をお持ちで、美しい紅のお化粧をされているの」
 うっとりとした様子で語った幼い娘のことが思い出される。なるほど、御子様がもし人であればと、夢に描いたお姿にそっくりというわけか。
 夫婦は、幼く愛らしかった頃の娘を思い出し、また涙した。


◇◆◇


 娘と姫君一行が村から旅立ってまもなく、名主の息子が行方不明になった。
 嫁を迎えに行かねばと、熱に浮かされたように言って、山の道へと消えていった。

 人々は、村中から白い目で見られることに耐えられず、どこか別の場所に移り住んだのだろうと噂した。

 だが、男は数週間後、村近くの山林で冷たくなって発見された。
 遺体はどこか奇妙なものだった。
 肩周辺に、何かの獣に噛まれたような鋭い牙の跡があるが、肉を食いちぎられたような様子はない。
 首は折れ曲がり、喉仏の下あたりに、刃物の跡があった。
 それは自ら付けた傷のように見えた。
 自死を試みたが思いきれずにそうなったのか、首の切り傷はそれほど深くはなかった。傷を負ったのち、高所から転げ落ちたせいで首を折ったことで死んでしまったらしい。

 やはり、状況に耐えかねての自ら死を選んだのだろう。
 人々はそう結論づけた。

 奥方だけは、どうしても息子の自死が受け入れられなかったと見えて、
「あの子は狐狸に唆されたのだわ」
 そう言って嘆いたという。

 あの婚姻から数えて三月ほどのち。
 数日の大風が過ぎ去り、増水して濁ったた川の水も収まり、ようやく澄んだ水面が戻ってきたころ。

 川上より若い女のなきがらが流れてきたと騒ぎになった。

 大水の後に死体が流れてくるのは、時おりあることだったので、それだけなら大した騒ぎにはならなかっただろう。

 だが、そのなきがらは、紛れもなくあの元祠守の娘であった。

 娘の亡骸は、あの山で見つかった男とは別の意味で奇妙だった。
 美しい絹の衣を着ており、髪も服も整えられて、ほとんど乱れたところがなかった。
 表情は穏やかで、微笑んでいるようにすら見えた。

 あの姫君と共に旅立ったはずの娘に、いったい何があったのか。
 遺体が丁重に扱われていたことから、これは水葬に付されたのではないかという話になった。
 病か事故か、原因はわからぬが、突然に亡くなったのだろう。水神の祠守であったから、故郷の水神様の御許にお送りしようと配慮されたのではないか。
 遺体と対面した娘の両親は、涙を潤ませつつも穏やかにいった。
「娘は水神様に乞われて御許へと旅立ったのです」
 人々は熱心な祠守であった娘の姿を思い出し、さもありなんと思った。
 そして娘の遺体は、水神さまの祠の近くに、丁重に埋葬された。

 一人息子を亡くした名主は、跡取りがいなくなったため、その地位を親戚に譲った。
 隠居の身となった元名主の夫婦は、村の相談役となり、あれこれ世話を焼いて回った。
 あのお人好し夫婦のことは特に気にかけ、彼らがうっかり騙されそうになるたびに、相手を蹴散らした。

 その後、村では長きに渡って祠守の風習か続いた。

 誰が言い出したのか、祠の近くで白い蛇を見かけたら、それはみずち様といって水神様のお遣いだから、丁重に扱うようにと言われるようになった。
 大切に扱った者には、水神様のお迎えが、お怒りをかった者は罰がくだるのだと。


 果たしてかの娘は、水神様の御国に辿り着いたのか。かの姫君は、まことに水神様のお遣いであったのか。


 真実は、この世にあっては誰にもわからない。
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