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第5章 理性の破綻は著しく
18話
しおりを挟む岬に憑いている霊に限り目視が出来る。その条件を、厘は疾うに理解していた。とくに、問題は生じないと思っていた。
「岬……!」
だが、今日に限っては例外といえるだろう。
路地裏で男どもに言い寄られていた少女は、厘が男を払う隙に脱兎し「最高ね、あなたの身体」と、岬の手を掬い上げた。近くで一部始終を見ていた庵は、何が何やら、といった面持ちで動かない。虚ろだったはずの少女の瞳が、急に色を変えたからだろう。
『何もできなくてごめん、岬』
しかし厘は、瞬時に状況を理解した。汐織が言った直後、岬に憑く霊が入れ替わるのを目にしたからだ。
「クソ……っ」
厘は脱力した岬と、名も知らない少女を抱きとめながら、臍を噛む。
みさ緒に比べて、汐織は憑く意志が弱かった。……だとしても、満月を待たずして他の霊を退けることができるのか。岬の後ろで眠る、あの女は一体———。
「庵。お前はこっちの娘を頼む。おそらくすぐに目覚めるだろうが」
「お、おう」
柄にも似合わず呆けていた庵に、意識を失っている小柄な少女を預けた。傍ら、巡らせた。
———少女の中に棲みついていた霊が岬に乗り移った、と考えるのが妥当。おそらく、庵が覚えた違和感や、異様な男共の気配はその霊魂が原因だろう。一時的に意識を失わせた男共はともかく、庵の方はまだ頬を紅潮させていた。
———このままではまずい、だろうな。
それに、霊の姿がもう見えなくなっている、というのも気がかりだ。半分憑依であれば見えるはずの姿が。
「俺は岬を連れて先に帰る。お前は “後始末”、頼んだぞ」
「……チッ、面倒ばかり言いやがって」
「頼んだぞ」
念を押す。不本意そうに背を向けながら、庵は「分かっている」と呟いた。岬の身に起こる異変を察知したからだろう。
……岬が絡むとやけにしおらしいな、こいつ。厘はピクリと眉を持ち上げ、懐に潜めていた葉を一振りする。葉車が現れたあとは例によって鈴を鳴らし、自身諸とも気配を消した。
ヒュン───。
分厚い雲を抜け、雑多に賑わうセンター街を見下ろす。交差点に車が行き交う。横断歩道の赤信号は、振り返った先で目を伏せていた岬を思い出させる。名残惜しそうに、見上げた瞳を思い出す。
「……あの中では随分と楽しそうだったな、岬」
厘はまだ眠ったままの彼女の手から、滑り落ちそうになった紙袋を拾い上げる。中を覗くとそこには、包装紙にまとわれた細長い箱が二つ。施されたリボンには “THANK YOU” と綴られていた。見なくとも、包みの中身は明白。岬が購入していた水筒だ。『贈りたいから』と、あのときだけは妙に頑なだった。礼を言うべきは、俺の方なのに———
「どこまでも擦れない娘だ」
思い出されるのは、“声” を掛け続けられていた日々。まだ鈴蘭の花として生けられていた頃、彼女のか細い声を待ち遠しく思っていたことを、よく覚えている。
『リリィ。明日はね、お母さんがお休みなの。だから目いっぱい寝かせてあげようね』
『おはようリリィ。昨日の事なんだけど……よく覚えてないしすごく眠いの。なんでだろうね』
『いい香り……やっぱり、摂り込むと怠さがなくなるみたい。いつもありがとう、リリィ』
宇美と一緒になって笑い合う声も、宇美に気づかれないよう囁く声も、すべてが愛おしかった。たとえ瘴気から抜け出すことができていても、ただ水に差されているだけでは、本来の力を取り戻すことは出来ていなかっただろう。
———だから、岬。こうして生き続けられているのは、二人が萎れた鈴蘭の花に、生命を見出してくれたからなんだよ。
「もうすぐ着くからな」
薄い瞼で閉じられた、その瞳に視線を落とす。そして、心の内で懇願した。出来るだけ早く戻ってきてくれ、と。
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