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1章 「魔女」が辺境伯の「聖女」になるまで
7 辺境伯アルヴィン
頭皮の痛みが消える。
イヴェーラ様が私の髪を離したらしい。
私は、おそるおそる顔を上げた。
声の主は礼拝堂の入り口に立っていた。
その姿を見た瞬間、心臓が止まりそうになった。
背が高く、髪からブーツまで真っ黒。
そんな人物が、まっすぐこちらへ歩いてくる。
一歩ごとにマントが揺れ、腰の剣が小さな金属音を立てる。
呪いが人の形を為したかのようだ。
しかし相手の顔を見て、呪いではないとわかった。
相手は26、7歳ほどの、精悍な面立ちをした男性だった。
凛々しい眉は、今はほんの少し下がっている。
黒い瞳には、凪のような穏やかさがあるだけ。
闇色のマントを羽織った彼は、私の前で立ち止まった。
「大丈夫か」
彼は、唖然としているイヴェーラ様を鋭く一瞥し、それからまた優しい目で私を見つめた。
滑り止めのついた固そうなグローブを外し、そっと手を差し伸べてくれた。
「君は町の慈善団員か? 俺は、この辺境を治めるアルヴィンという者だ。盗賊じゃない、安心してくれ」
呆ける私へ、彼は気遣うようにまた尋ねてきた。
「手を貸すから立ちなさい。それとも足に怪我を?」
「い、いえ、ありがとうございます」
落ち着いた声に引かれてアルヴィン様へ手を伸ばし──しまった、と思った。
辺境を治めているということは、彼はシャーウッド辺境伯だ。
王宮から舞踏会の招待状が届くたび、両親から聞かされた話を思い出す。
『ソフィア、いい? 万一、舞踏会で辺境伯閣下にお会いしても、ご挨拶だけしてすぐ離れるのよ』
『そうだぞ、ソフィア。あの恐ろしい“黒狼”……じゃなくて、閣下は貴族の首を刎ねたこともあるらしい。出過ぎた真似は禁物だ』
黒き狼の旗を掲げ、幾度も帝国の侵略を跳ね返した、レグナル国最強の猛将。
社交界に顔を出さず、しかし前代未聞の戦功を上げ、様々な特権を与えられた人。
そんな相手に手を差し出してしまった。
畑に水をやり、薬草を摘むこの手を。
カールは青臭いと言い、花瓶を投げつけてきた。
辺境伯なら私を斬るかも──
という心配は杞憂に終わった。
彼は穏やかな表情で私の手を取り、スッと立たせてくれた。
大きな手のひらは乾いて冷たい。
肉刺が何度もつぶれたのか、皮膚が固くなっている。
なのに、社交辞令でダンスを踊ってくれた令息よりも、顔をしかめて私をエスコートしたカールよりも、優しい手だと思った。
(でも何か……変だわ。アルヴィン様の身体に、何かあるような……)
違和感の正体を探ろうとした瞬間。
「きゃっ⁉︎」
突然、イヴェーラ様が私を突き飛ばした。
森歩きで鍛えていたせいか、転びはしなかった。
が、イヴェーラ様の甲高い声でひっくり返りそうになる。
「あなたが辺境伯閣下⁉︎ ご挨拶が遅れて申し訳ありません! お初にお目にかかりますわ、フェンティ侯爵の元妻イヴェーラと申します! お会いできて光栄です! ぜひともお見知りおきを!」
イヴェーラ様は怒涛の勢いでまくし立てると、アルヴィン様の手をガシッとつかんだ。
無駄のない一連の動きに、思わず感嘆のため息が出る。
(す、すごい。有力貴族はこうやって男の人に近付くんだわ。イヴェーラ様はお綺麗だから、アルヴィン様も心惹かれるわよね……)
そう思うと、なぜか少し寂しくなる。
寂しさを紛らわせるため、心臓のあたりをなでようとした時。
バシッ!と、アルヴィン様がイヴェーラ様の手を払いのけた。
「え……?」
イヴェーラ様は、あり得ないものを見たかのように目を丸くした。
そんな彼女を、アルヴィン様はグローブをはめ直しながら睨んでいる。
「俺に媚びる前に、その娘へ謝るべきでは?」
「はい……? わ、私がこの子に謝る?」
イヴェーラ様は笑顔を引きつらせて私を指差した。
「この子はローグ子爵の娘! 家畜と畑に囲まれて育った、平民同然の令嬢ですのよ?」
「子爵? 彼女は町娘ではなく貴族なのか?」
アルヴィン様の空気感が、途端に冷たいものに変わる。
が、イヴェーラ様は話すのに必死で質問に気付かない。
「芋臭い小娘に、元フェンティ侯爵夫人が、なぜ謝らなくてはならないのです?」
イヴェーラ様は落ち着いたのか、再びにこやかに微笑み、アルヴィン様の腕に触れる。
その手は、またしても勢いよく払い落とされた。
「痛っ……! ちょっと、さっきから何ですの⁉︎」
「それを言うのは俺の方だ」
アルヴィン様は、鋭い氷柱のような視線でイヴェーラ様を刺した。
「さっきから何なのだ、あなたは? 理由もなく軍人へ触れるなど、軽率にもほどがある」
「そんな……ヒッ⁉︎」
イヴェーラ様はまた何か言おうとしたけれど、私共々立ちすくんだ。
アルヴィン様が目では追えない速さで剣を抜き、イヴェーラ様の鼻先に突きつけたからだ。
「この修道院で、再び暴力を振るってみろ。辺境の地から追放する。シャーウッド辺境伯である俺には、その権限がある。あなたなら言わずとも理解できるだろうがな、元フェンティ侯爵夫人?」
「ぐっ……」
イヴェーラ様は苦々しげに歯噛みすると、真っ赤なスカートと黒髪をひるがえし、足早に礼拝堂を立ち去った。
アルヴィン様はそれを見届け、剣を鞘に収めた。
私が安堵の息をついた時、後ろでボソッと声がした。
「ざまーみろ、鬼ババア」
イヴェーラ様が私の髪を離したらしい。
私は、おそるおそる顔を上げた。
声の主は礼拝堂の入り口に立っていた。
その姿を見た瞬間、心臓が止まりそうになった。
背が高く、髪からブーツまで真っ黒。
そんな人物が、まっすぐこちらへ歩いてくる。
一歩ごとにマントが揺れ、腰の剣が小さな金属音を立てる。
呪いが人の形を為したかのようだ。
しかし相手の顔を見て、呪いではないとわかった。
相手は26、7歳ほどの、精悍な面立ちをした男性だった。
凛々しい眉は、今はほんの少し下がっている。
黒い瞳には、凪のような穏やかさがあるだけ。
闇色のマントを羽織った彼は、私の前で立ち止まった。
「大丈夫か」
彼は、唖然としているイヴェーラ様を鋭く一瞥し、それからまた優しい目で私を見つめた。
滑り止めのついた固そうなグローブを外し、そっと手を差し伸べてくれた。
「君は町の慈善団員か? 俺は、この辺境を治めるアルヴィンという者だ。盗賊じゃない、安心してくれ」
呆ける私へ、彼は気遣うようにまた尋ねてきた。
「手を貸すから立ちなさい。それとも足に怪我を?」
「い、いえ、ありがとうございます」
落ち着いた声に引かれてアルヴィン様へ手を伸ばし──しまった、と思った。
辺境を治めているということは、彼はシャーウッド辺境伯だ。
王宮から舞踏会の招待状が届くたび、両親から聞かされた話を思い出す。
『ソフィア、いい? 万一、舞踏会で辺境伯閣下にお会いしても、ご挨拶だけしてすぐ離れるのよ』
『そうだぞ、ソフィア。あの恐ろしい“黒狼”……じゃなくて、閣下は貴族の首を刎ねたこともあるらしい。出過ぎた真似は禁物だ』
黒き狼の旗を掲げ、幾度も帝国の侵略を跳ね返した、レグナル国最強の猛将。
社交界に顔を出さず、しかし前代未聞の戦功を上げ、様々な特権を与えられた人。
そんな相手に手を差し出してしまった。
畑に水をやり、薬草を摘むこの手を。
カールは青臭いと言い、花瓶を投げつけてきた。
辺境伯なら私を斬るかも──
という心配は杞憂に終わった。
彼は穏やかな表情で私の手を取り、スッと立たせてくれた。
大きな手のひらは乾いて冷たい。
肉刺が何度もつぶれたのか、皮膚が固くなっている。
なのに、社交辞令でダンスを踊ってくれた令息よりも、顔をしかめて私をエスコートしたカールよりも、優しい手だと思った。
(でも何か……変だわ。アルヴィン様の身体に、何かあるような……)
違和感の正体を探ろうとした瞬間。
「きゃっ⁉︎」
突然、イヴェーラ様が私を突き飛ばした。
森歩きで鍛えていたせいか、転びはしなかった。
が、イヴェーラ様の甲高い声でひっくり返りそうになる。
「あなたが辺境伯閣下⁉︎ ご挨拶が遅れて申し訳ありません! お初にお目にかかりますわ、フェンティ侯爵の元妻イヴェーラと申します! お会いできて光栄です! ぜひともお見知りおきを!」
イヴェーラ様は怒涛の勢いでまくし立てると、アルヴィン様の手をガシッとつかんだ。
無駄のない一連の動きに、思わず感嘆のため息が出る。
(す、すごい。有力貴族はこうやって男の人に近付くんだわ。イヴェーラ様はお綺麗だから、アルヴィン様も心惹かれるわよね……)
そう思うと、なぜか少し寂しくなる。
寂しさを紛らわせるため、心臓のあたりをなでようとした時。
バシッ!と、アルヴィン様がイヴェーラ様の手を払いのけた。
「え……?」
イヴェーラ様は、あり得ないものを見たかのように目を丸くした。
そんな彼女を、アルヴィン様はグローブをはめ直しながら睨んでいる。
「俺に媚びる前に、その娘へ謝るべきでは?」
「はい……? わ、私がこの子に謝る?」
イヴェーラ様は笑顔を引きつらせて私を指差した。
「この子はローグ子爵の娘! 家畜と畑に囲まれて育った、平民同然の令嬢ですのよ?」
「子爵? 彼女は町娘ではなく貴族なのか?」
アルヴィン様の空気感が、途端に冷たいものに変わる。
が、イヴェーラ様は話すのに必死で質問に気付かない。
「芋臭い小娘に、元フェンティ侯爵夫人が、なぜ謝らなくてはならないのです?」
イヴェーラ様は落ち着いたのか、再びにこやかに微笑み、アルヴィン様の腕に触れる。
その手は、またしても勢いよく払い落とされた。
「痛っ……! ちょっと、さっきから何ですの⁉︎」
「それを言うのは俺の方だ」
アルヴィン様は、鋭い氷柱のような視線でイヴェーラ様を刺した。
「さっきから何なのだ、あなたは? 理由もなく軍人へ触れるなど、軽率にもほどがある」
「そんな……ヒッ⁉︎」
イヴェーラ様はまた何か言おうとしたけれど、私共々立ちすくんだ。
アルヴィン様が目では追えない速さで剣を抜き、イヴェーラ様の鼻先に突きつけたからだ。
「この修道院で、再び暴力を振るってみろ。辺境の地から追放する。シャーウッド辺境伯である俺には、その権限がある。あなたなら言わずとも理解できるだろうがな、元フェンティ侯爵夫人?」
「ぐっ……」
イヴェーラ様は苦々しげに歯噛みすると、真っ赤なスカートと黒髪をひるがえし、足早に礼拝堂を立ち去った。
アルヴィン様はそれを見届け、剣を鞘に収めた。
私が安堵の息をついた時、後ろでボソッと声がした。
「ざまーみろ、鬼ババア」
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