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53 逃亡②

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「え……?」

 目の前がくすんだ灰色に染まる。色あせた景色が、ぐらりと揺らぐ。

(──駄目よ、駄目。呆けてる場合じゃないでしょ。しっかりしなくちゃ)

 自分を叱りつけるように、強く目をつぶる。ゆっくりと息を吸い込み、吐き出して、まぶたを開いた。
 さっきナンシーが告げた言葉を、頭の中でくり返す。今度は冷静に受け止められた。

「ナンシー、落ち着いて……落ち着きましょう」
「で、ですが、旦那様はどうして突然……」
「わからないわ。私も、詳しい説明は聞かされなかったから」

 とはいえ、《オスカー》への怯えを口にしていたから、原因はそのあたりにあるのだろう。
 家を出た意図は、まるでわからないけれど。

「とにかく、彼と話さなくちゃ。オスカーはどこへ行ったの?」
「私は何も……ジェイク様とお話しなさっていると思ったら、大荷物を抱えて、あっという間に玄関を出て行かれたので」
「そう……それなら、ジェイクに話を聞きましょう」

 と、ジェイクのもとへ向かったものの──。

「申し訳ございません、私めも行き先は教わっておらず……」

 まだ厨房にいたジェイクは、土や煤で汚れた格好で、深々と頭を下げた。
 しばらくして顔を上げた彼は、「ただ」と呟いた。
 
「旦那様はこのお屋敷のほか、別宅を1軒お持ちです。そちらへ向かわれたのかもしれません」
「別宅……わかったわ、ありがとう。また明日、行ってみる」
「明日でよろしいのですか?」
「ええ。みんな、今日はぼや騒ぎでへとへとでしょう? オスカーだって長旅で疲れてるだろうし、もう休んでいるかもしれないもの」

 その見立ては、ひどく呑気なものだった。それを思い知ったのは翌朝だった。
 出かける支度をしている最中、ナンシーがジェイクに呼ばれて、寝室を出て行った──かと思うと、

「奥様! 奥様!」

 と、すぐさま舞い戻ってきた。血の気の引いた顔で、丸々とした手をブルブル震わせて。

「だ、旦那様から、ご連絡があったと……!」

 聞く前からわかる。よくない知らせだ。

 オスカーは、もう少し私の侍女に配慮してほしい。そのうち、心臓発作を起こしてしまいそうだ。
 苦笑しながらそんなことを考えた。けれど、オスカーからの連絡を聞いて、心臓発作を起こしそうになったのは私の方だった。

「旦那様は、旦那様は……ジェイク様にご指示をなさったそうです。『離婚の手続きをするから、裁判所へ提出する書類を準備してくれ』と……」
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