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おまけ 宝探し(オスカー視点)①
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書類から視線を外して、おれの仕事机につくアリスを見た。
半年ほど前は、どんなにおれが椅子を勧めても、「立って作業できるから」と抵抗していたけれど、今は自分から座ってくれる。
たぶん、貧血を起こして倒れてからだ。「もしもお腹を打っていたら」と考えて、怖くなったらしい。
大人しく座ってくれるようになったので、その点はよかったのだが、またアリスが倒れてしまわないかとヒヤヒヤする。そう思うくらい、この半年ほどで彼女は痩せてしまった。
ゆったりした室内用ドレスをまとっていても、首や肩、手足の細さがわかる。
対して、彼女の腹だけが、お碗を伏せたような形に突き出ている。
(見るたびに大きくなっている気がするな。医者の話では、あと4ヶ月くらいだったか)
うららかな春の朝、すくすくと命が育っていくのを目の当たりにして、おれの心は暗く沈んだ。
(子どもが産まれたら……どう声をかけてやればいいんだろう)
赤ん坊を抱く自分を想像する時、絵としてのイメージは浮かんでも、音はまったく聞こえてこない。
代わって湧いてくるのは、遠い日の怒鳴り声ばかりだ。
『アレン、《オスカー》を突き飛ばしたな⁉︎』
『《オスカー》が怪我をしたらどうするの!』
物心ついた時から、父と母はおれに辛く当たった。優しい言葉をもらった記憶はない。
義父との関係も、最後までぎくしゃくしたままで、親子らしい情愛を育むことはできなかった。
アリスはアレンを可愛がってくれたけれど、母親として、ではない。どちらかといえば、姉や先生という感じだった。
だから、わからないのだ。親が子に愛情を伝える時、どんな言葉をかけるべきなのか。
「ふう……」
「オスカー、疲れちゃった?」
ため息をつくと、アリスがおれを見上げてきた。
使用人が混乱するだろうからと、名前は「オスカー」のままだ。ただ、おれに黒い髪が生え始めたので、みんな驚いているが。
「疲れたら言ってね。席を交代するから」
「そんなことしなくていいよ。君は座ってて……いや、むしろ休憩した方がいい」
妊娠してからというもの、アリスはすぐに息切れするようになった。
「本当は、ずっと横になっていてほしいけど……」
「そんなことしてたら、なまっちゃうわ。お医者様も、少しの運動は体にいいっておっしゃったのよ」
「仕事をしすぎるのはよくない、とも言ってただろ」
言い返すと、アリスは書類をトントンとそろえながら苦笑した。
「でも、これは自分でやらなくちゃ。ワイアット男爵領のことだもの」
ワイアット男爵領には、桑が多い。だから、桑の葉を食べる蚕は、昔から飼われていたらしい。
しかし、大規模な養蚕場を作る資金がなかった。個人の衣類をまかなうための、細々とした生業としてだけ、養蚕がおこなわれていたようだ。
そこへ、おれが投資することを決めた。大規模な養蚕場と、絹糸および絹織物の工場を建設。出来上がった製品を、主に外国で売る予定だ。
それに関して、ワイアット男爵家とバートレット家の間で交わす契約の書類を、アリスが作成している──というわけだ。
「エドワード兄様が喜んでたわ。『うまくいけば、また凶作の年が来ても絹産業でしのげる』って」
「そうか……」
返事をしてから、まずい、と思った。義兄が喜んでいると聞いたのだから、もっと明るく応えるべきだった。
ついさっき、グズグズと将来のことを思い悩んでいたせいだ。心が沈んだままになっていた。
アリスも、おれの様子が変だと感じたらしい。心配そうな目でこっちを見ている。
「オスカー、やっぱり休憩しない?」
気遣わしげに眉を寄せて、アリスが言った。
「いや、おれはいいよ。君だけ休憩してきたら」
これ以上一緒にいたら、また気を遣わせてしまう。体調のすぐれない彼女に負担をかけたくない。
それに、父親としてうまくやっていけるかわからないのだ。せめて夫として、アリスを労わらなくては。
そう思ったのに、いつもなら渋々引き下がるアリスは、子どものように口を尖らせた。
「駄目! オスカーも一緒に休むの!」
「駄目! って、君……」
駄々っ子のような言い方に、思わず笑ってしまった。アリスも微笑み、それから何を思ったのか、椅子から立ち上がった。
そして驚いたことに、おれの前まで来た彼女は、腕を伸ばしていきなり抱きついてきた。
「ア、アリス⁉︎ ここではちょっと……」
「どうして?」
「ジェイクに見られたら恥ずかしいだろ!」
最悪、それはいい。気になるのは、お腹がつっかえているせいで、アリスの腰が変に曲がっていることだ。
手が届かなくて背中に回せないのか、アリスはおれのズボンのポケットに触れている。
こんなに無理な体勢でいたら、アリスも子どもも苦しいんじゃないだろうか。おれは慌ててアリスから離れた。
「だ、大丈夫? アリス」
「大丈夫、大丈夫」
と、言いながらアリスは、ふうーっと長く息を吐いた。全然、大丈夫そうじゃない。
「とりあえず座って……あ、いや、寝室で休んだ方がいいか。だったらナンシーを呼ばないと。待てよ、それならやっぱり一旦座って……」
「オスカー、落ち着いて」
アリスは手で口元を隠して、肩を震わせている。唇は見えないけれど、目がしっかり笑っている。
「笑い事じゃないだろ!」
「ごめんなさい。でも、休憩がてらゲームをしたくて」
「ゲーム? またなぞなぞを出すのか?」
アリスを再び椅子に座らせながら尋ねると、彼女は「ううん」と言った。
「昔、『次に会ったらしよう』って約束したゲームよ」
「昔って、もしかして……おれが8つの時?」
「ええ、そうよ」
アリスはにっこりと微笑んだ。かわいい……いや、それは一旦置いておこう。
今はゲームの話だ。だけど、約束なんかしただろうか。まるで思い出せない。
必死に記憶を掘り返しつつ、頭を押さえてうなっていると、アリスはおかしそうに笑いながら言った。
半年ほど前は、どんなにおれが椅子を勧めても、「立って作業できるから」と抵抗していたけれど、今は自分から座ってくれる。
たぶん、貧血を起こして倒れてからだ。「もしもお腹を打っていたら」と考えて、怖くなったらしい。
大人しく座ってくれるようになったので、その点はよかったのだが、またアリスが倒れてしまわないかとヒヤヒヤする。そう思うくらい、この半年ほどで彼女は痩せてしまった。
ゆったりした室内用ドレスをまとっていても、首や肩、手足の細さがわかる。
対して、彼女の腹だけが、お碗を伏せたような形に突き出ている。
(見るたびに大きくなっている気がするな。医者の話では、あと4ヶ月くらいだったか)
うららかな春の朝、すくすくと命が育っていくのを目の当たりにして、おれの心は暗く沈んだ。
(子どもが産まれたら……どう声をかけてやればいいんだろう)
赤ん坊を抱く自分を想像する時、絵としてのイメージは浮かんでも、音はまったく聞こえてこない。
代わって湧いてくるのは、遠い日の怒鳴り声ばかりだ。
『アレン、《オスカー》を突き飛ばしたな⁉︎』
『《オスカー》が怪我をしたらどうするの!』
物心ついた時から、父と母はおれに辛く当たった。優しい言葉をもらった記憶はない。
義父との関係も、最後までぎくしゃくしたままで、親子らしい情愛を育むことはできなかった。
アリスはアレンを可愛がってくれたけれど、母親として、ではない。どちらかといえば、姉や先生という感じだった。
だから、わからないのだ。親が子に愛情を伝える時、どんな言葉をかけるべきなのか。
「ふう……」
「オスカー、疲れちゃった?」
ため息をつくと、アリスがおれを見上げてきた。
使用人が混乱するだろうからと、名前は「オスカー」のままだ。ただ、おれに黒い髪が生え始めたので、みんな驚いているが。
「疲れたら言ってね。席を交代するから」
「そんなことしなくていいよ。君は座ってて……いや、むしろ休憩した方がいい」
妊娠してからというもの、アリスはすぐに息切れするようになった。
「本当は、ずっと横になっていてほしいけど……」
「そんなことしてたら、なまっちゃうわ。お医者様も、少しの運動は体にいいっておっしゃったのよ」
「仕事をしすぎるのはよくない、とも言ってただろ」
言い返すと、アリスは書類をトントンとそろえながら苦笑した。
「でも、これは自分でやらなくちゃ。ワイアット男爵領のことだもの」
ワイアット男爵領には、桑が多い。だから、桑の葉を食べる蚕は、昔から飼われていたらしい。
しかし、大規模な養蚕場を作る資金がなかった。個人の衣類をまかなうための、細々とした生業としてだけ、養蚕がおこなわれていたようだ。
そこへ、おれが投資することを決めた。大規模な養蚕場と、絹糸および絹織物の工場を建設。出来上がった製品を、主に外国で売る予定だ。
それに関して、ワイアット男爵家とバートレット家の間で交わす契約の書類を、アリスが作成している──というわけだ。
「エドワード兄様が喜んでたわ。『うまくいけば、また凶作の年が来ても絹産業でしのげる』って」
「そうか……」
返事をしてから、まずい、と思った。義兄が喜んでいると聞いたのだから、もっと明るく応えるべきだった。
ついさっき、グズグズと将来のことを思い悩んでいたせいだ。心が沈んだままになっていた。
アリスも、おれの様子が変だと感じたらしい。心配そうな目でこっちを見ている。
「オスカー、やっぱり休憩しない?」
気遣わしげに眉を寄せて、アリスが言った。
「いや、おれはいいよ。君だけ休憩してきたら」
これ以上一緒にいたら、また気を遣わせてしまう。体調のすぐれない彼女に負担をかけたくない。
それに、父親としてうまくやっていけるかわからないのだ。せめて夫として、アリスを労わらなくては。
そう思ったのに、いつもなら渋々引き下がるアリスは、子どものように口を尖らせた。
「駄目! オスカーも一緒に休むの!」
「駄目! って、君……」
駄々っ子のような言い方に、思わず笑ってしまった。アリスも微笑み、それから何を思ったのか、椅子から立ち上がった。
そして驚いたことに、おれの前まで来た彼女は、腕を伸ばしていきなり抱きついてきた。
「ア、アリス⁉︎ ここではちょっと……」
「どうして?」
「ジェイクに見られたら恥ずかしいだろ!」
最悪、それはいい。気になるのは、お腹がつっかえているせいで、アリスの腰が変に曲がっていることだ。
手が届かなくて背中に回せないのか、アリスはおれのズボンのポケットに触れている。
こんなに無理な体勢でいたら、アリスも子どもも苦しいんじゃないだろうか。おれは慌ててアリスから離れた。
「だ、大丈夫? アリス」
「大丈夫、大丈夫」
と、言いながらアリスは、ふうーっと長く息を吐いた。全然、大丈夫そうじゃない。
「とりあえず座って……あ、いや、寝室で休んだ方がいいか。だったらナンシーを呼ばないと。待てよ、それならやっぱり一旦座って……」
「オスカー、落ち着いて」
アリスは手で口元を隠して、肩を震わせている。唇は見えないけれど、目がしっかり笑っている。
「笑い事じゃないだろ!」
「ごめんなさい。でも、休憩がてらゲームをしたくて」
「ゲーム? またなぞなぞを出すのか?」
アリスを再び椅子に座らせながら尋ねると、彼女は「ううん」と言った。
「昔、『次に会ったらしよう』って約束したゲームよ」
「昔って、もしかして……おれが8つの時?」
「ええ、そうよ」
アリスはにっこりと微笑んだ。かわいい……いや、それは一旦置いておこう。
今はゲームの話だ。だけど、約束なんかしただろうか。まるで思い出せない。
必死に記憶を掘り返しつつ、頭を押さえてうなっていると、アリスはおかしそうに笑いながら言った。
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