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二人の王子
二人の王子(4)
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深く沈んでいたシャーレンの思考は、遠慮のない足音と、よく通る声によって突然現実に引き戻された。
「待たせたな。シャーレン。……まったくあのじじい……グダグダと同じことを、よくもああ何度も繰返せるものよ。早くもボケたのかと思ったわ。いっそ本当にボケて、さっさと隠居でもしてくれればいいものを」
このシオンの国王であり、また自らの父親でもある男を、じじい呼ばわりしてハロルドは毒づく。
「……殿下。もうすこしお声を小さくしてくださいませ」
青い髪の騎士が穏やかにたしなめる。
「どうせ聞こえはせぬわ。耳の方は最近本当に遠いようだからな」
言い放って、騎士を扉の向こうへ下がらせると、ハロルドはドレス姿のシャーレンを値踏みするかのようにつま先から頭の先まで眺めた。
緩やかにわずかなカールがかかった青銀の髪は今は結い上げられ、真珠の髪飾りで留められている。ウエストはドレスの上からコルセットで締め上げられ、腰の細さと、痩せているわりには存在感のある胸を主張している。
いつもは大教会の奥深く、白いローブの下に覆い隠されている肌は、抜けるかのごとく白い。
「……ほう。よく似合っているではないか。いつものあのつまらんローブでは出っ張りも凹みもあったものではないからな」
ハロルドが言う。
……でっぱり?凹み?
よくわからない感想だが、似合うというからには多分褒めてくれているのだろう。
シャーレンはとりあえず頭を下げた。
「ありがとうございます。……ですがこのコルセットが少し……だいぶ息苦しくて、具合が悪くなりそうです。もし殿下のお気がおすみなら早く脱いでしまいたいのですが」
「脱ぐ?随分と積極的だな」
ハロルドの台詞にシャーレンは首をかしげた。
苦しくて、宮廷の女性のように我慢できない、と自分は言っているのだけれど。
「……お言葉ですが、殿下。積極的というよりも消極的だと思いますが」
ハロルドは彼にしては珍しくあっけにとられ、それから笑い出した。
「くっ……ははっ!相変わらずよな、シャーレン。おまえは本当に物を知らぬ」
笑いながら言われた言葉に、しかしシャーレンは表情を強張らせた。
かつてもハロルドから似たようなことを言われたことがある。
シャーレンが大教会に入ったばかりの頃だ。
ハロルドはシャーレンと他の大勢の者の前で、父であるディエンタール公のことを俗物だと言い切った。父こそその場にはいなかったが、愛する父を侮辱されてそのまま引き下がっていられなかったシャーレンは、他の者が止めるのも聞かずにハロルドに食って掛かった。ハロルドはそんなシャーレンを見て、面白そうに笑いその言葉を取り消したが、その後に尋ねたのだ。
――無知とは罪と思うか、と。
その時のシャーレンはそうは思わなかった。何も知らずにやったことが罪に問えるとは思えないし、知らないこと自体はどうしようもないことだと。そう答えた。
「おまえらしい答えよな、シャーレン。……だが、俺はそうは思わぬ」
ハロルドはそう言った。
今なら、自分の答えは変わっている。シャーレンは変わらず父を愛している。早くに母を亡くしたシャーレンを大切に大切に育ててくれた、たった一人の父親なのだ。けれど、それと同時に俗物だと言われても、今のシャーレンにはあの時のように食って掛かることは出来ないだろう。
ディエンタール家が領地の住民に課してきた重税。大教会との癒着。裏から手を回して政敵を審問にかけさせ、火刑に追いやっていたことすらあった。
本当に自分は何も知らなかったのだ。あのやさしい父が、一方ではそんなことをやっていたなど。
ディエンタール家の力で守られて、ほとんど屋敷から出ることもなく、多くの者にかしずかれ、それを当たり前のように享受してきた。思い返せば、幼いシャーレンが思いつきで言った我儘を叶えるために、きっと多くの者が酷い苦労を強いられてきたはずだ。
重税に領地の民が苦しんできたことも、大教会とのつながりを保つ為に審問にまで便宜をはかってきたことも。大教会に入り、外からディエンタール家を見るまで、シャーレンは何一つ知らないままだった。
そうして知らないままに……足元に流れる多くの血を吸い上げてシャーレンは生きてきたのだ。
――無知とは罪。
かつてハロルドに言われた言葉を、シャーレンはことある度に思い出した。
ハロルドの言うとおりだ。
知らないことは免罪符になるのではない。罪の意識すら持たない分、それは知って犯した罪よりも、なおいっそう罪深いのではないだろうか?
「どうした?急に顔色を変えたな」
「わたくしは……まだ何か知らないままでしょうか。まだ無知なままなのでしょうか」
苦しげに呟くシャーレンを、ハロルドは静かに見下ろした。
「以前俺が言ったことをまだ気にしているのか?」
「……はい」
「気に病むことなどないわ。支配に血はつきもの。王族とは、貴族とはそういうものだ。さすがにおまえの父は少々行き過ぎてはいるが、な」
ハロルドの言葉に、ぴくり、とシャーレンは眉を上げた。
シャーレンを無知だと、そして無知は罪だと言い放ったハロルド。 ハロルドは苛烈な気性の持ち主だが、それでも彼は・・彼だけは他の王家の人間とは違うと思っていた。ハロルドが王位を継げば、同じ血族同士で争うこともないのではないかと。今のこの惨状も変わっていくのではないかと。
だが、今の言い方は――。
「気に病むことはない、とおっしゃいましたか?いったいどれだけの人々がディエンタール家のために……そして……」
「我らシオン王家のために苦しんできたか、か?
くだらんな。民とは我らに仕えるためにあるのだ。だいたい少々家畜の血が流れたからと言って、何を気にすることがある?やつらとてまさか殺した家畜の一匹一匹に思いをはせたりはしまい」
シャーレンはまっすぐとハロルドを見上げた。
「……家畜……?……何をおっしゃっているのです。流れている血の、その一人一人が日々を精一杯に生きているのです。彼らを大切に思う人間が、彼らが大切に思う人間がいるのです。殿下はどうしてそれをそのように言えるのです」
「同じ?それは違うな、シャーレン。おまえや俺と、多くの民とではそもそもの価値が違う。虫けらのように蠢く民の一人一人のことなどどうして思いやってやる必要がある?多少減ろうが、またすぐ増える」
「……殿下」
シャーレンは苦しげにハロルドを見た。
同じ人間なのに、どうしてそんな風に思えるのかが、シャーレンには理解できない。
黙り込んだシャーレンを眺め、ハロルドは細い手首を掴むと、シャーレンを引き寄せた。いきなり抱きしめられた格好になって、シャーレンは慌てた。
「っ……いきなり何のおつもりですか。お戯れはおやめください」
逃れようともがくシャーレンを、ハロルドは抱きしめた腕に力を込めることで簡単に押さえつけた。シャーレンの首筋に顔を埋める。
「戯れているつもりはないが。今日はおまえの返事を聞くために呼んだのだ」
「……返事?」
「言ったであろう?俺の隣に座るつもりはないか、と」
ひと月ほど前、確かにハロルドはシャーレンにそう言った。
言葉通りにとるなら、妻となる気はないかと、そう尋ねたことになる。
だが。
「……お戯れはおやめくださいと申し上げています。わたくしは大教会所属の神官。神に生涯をを捧げた身です。それをご存知の上でそのようなことをおっしゃるとは、いったいどのようなおつもりですか?」
「大教会など辞めてしまえばよい。あんな辛気臭い場所に飾っておくにはおまえのその美貌は惜しいわ。――俺の隣に座れ、シャーレン」
耳元で囁かれて、シャーレンは、きっ、と自分を抱きしめる男を睨みつけた。
腕を振り払い、ハロルドの手から逃れると、男に向き直る。
「……この一年でいったい何人にそのように愛を囁かれましたか?
殿下が女性と見れば口説かれる方だということも、そして情をかけた女性でも、逆鱗に触れれば躊躇いなく首を刎ねてしまうご気性だということも、わたくしはよく存じ上げております」
「……ほう。それを知っているわりには、随分と口の利き方に遠慮がないな」
怖くないといえば嘘になる。
だが、あえてシャーレンはにっこりと微笑んだ。
「……女性を脅してものにするのが殿下のやり方でいらっしゃいますか?」
ハロルドが目を細める。
「少しつけ上がりすぎだな。シャーレン。俺は気の長い方ではない。あまりいつまでも優しい顔は出来ぬぞ」
「わたくしにかけてくださるやさしさがあるのなら、それはぜひ殿下の慈愛を必要としている多くの民に」
「……本当に口の減らぬ女よな。この俺に説教をするつもりか?」
「……お願いを、申し上げております」
「そんなに奴らが大切か?」
「はい」
「我ら王族は神より国と民を授けられし者。奴らなどしょせん所有物に過ぎぬというのにな」
「……聖典にはそのようなことは書かれておりませぬ」
「だが大教会の公式の見解であろう?」
シャーレンは反論できず、唇を噛んだ。
そうだ。大教会はそれを認めている。王権は神より授かったものなのだと。
そして大教会がそうだといえば、アリエス神教を信じる者の多くは、そういうものなのだと納得してしまう。
そんなものは――大教会と王家の癒着の結果にすぎないというのに。
「もっとも神に与えられ、赦された権利などなかったとしても、俺は気になどせぬがな。我が力の下、ひざまずかせ、支配する。それだけのことよ」
「……罪深い考えです」
シャーレンの言葉に、ハロルドは喉の奥で笑った。
「罪を犯すのが怖いのか?」
「当たり前です」
「俺は怖れぬ」
「……殿下……」
「――神も、罪も、罰も、何を失うことも俺は怖れぬ。得ることとは何かを失うことよ。俺は俺の欲するものを手に入れるためならば、俺の望みを叶えるためならば、何を切り捨てることも厭わぬ」
「……」
「おまえも知るべきぞ。何も傷つけずに生きることなど出来ぬ。貴族でありながら、先程の主張をあくまで貫くというのならば、余計にな」
ハロルドの言葉にシャーレンは家族を思い、それから自分のしている裏切りを思った。
「……よく……存じております」
「そうか?俺が見たところ、おまえにはまだ覚悟が足りぬように見えるが。でなければ、とっくに大教会もディエンタール家も飛び出しておるはずだがな」
「……わたくしに王家に反旗を翻せとおっしゃっているのでしょうか」
「まさか。俺がそんなことを勧めるはずがあるまい。あきらめろと、そう言っている」
「……」
「おまえはどうあがいてもディエンタール家のシャーレンなのだ。大貴族の血を引き、多くの民の血を絞り取り……そしてこれからもそうして生きていく。我ら王族と同じように」
ハロルドはにやりと笑った。
「……まだ返事を聞いていなかったな。おまえならば俺の横にいて不足はない。俺が王となるその時に隣に座るつもりはないか、シャーレン。我ら呪わしき吸血の一族……王族の一員にならぬか?」
「聡明なる殿下ならわたくしがそのようなお申し出を受けるかどうか、お答えしなくてもおわかりかと存じますが」
「……」
「殿下は弟君とは……アラン王子とは全く違う方と思っておりました。けれど、わたくしの思い違いだったようです」
シャーレンの言葉に、ハロルドが笑みを消す。
ハロルドは不穏な空気を纏ってシャーレンを見た。
「……随分と言ってくれるな。あの馬鹿と並べられるのを、俺が一番好かぬと知ってのことか? ――ここでその首刎ねられたいか、シャーレン」
「……お試しになられますか?その際はお気をつけ下さいませ。わたくしは殿下が思っていらっしゃるよりもだいぶ凶暴な女でございます」
「下位の白魔術しか使えぬそのか細い身で、どうやって俺に一矢報いるつもりだ。……引っかくか?それとも噛みつくか?」
「……どうでしょう。ですが、わたくしの凶暴さを見誤られますと――殿下のお首の方が落ちることになるやも知れませぬ」
「……」
ハロルドは沈黙したままシャーレンを見た。
黄金がかった燃えるような琥珀色の瞳が、傲慢にシャーレンを見下ろす。
気に障れば床を共にした女の首すら躊躇いなく刎ね飛ばす、苛烈な気性の第一王子。
ハロルドとシャーレンは、しばし黙ったままお互いを見据えた。
静寂に支配された部屋。
緊張に静まり返った部屋の中、不意に扉がノックの音が響く。扉が開かれた。姿を見せたのは控えていた先程の騎士だ。
「なんだ。アリオルド。邪魔をするな」
「畏れながら申し上げます。ディエンタール公爵家エルドラ様がご帰還にいらっしゃいます。ぜひ殿下に火急にご報告申し上げたい件があるとのこと。面会を申し出ていらっしゃいます」
「……エルドラ兄様が……?」
シャーレンがぽつりと呟く。
ハロルドはクッと笑った。
「どうやら救いの騎士が駆けつけたようぞ。
随分と急いで戻ってきたものだ。おまえの兄が妹を助ける為に、いったいどんな火急の用をつくりあげてくれるのか。……見ものよな」
言い捨てて、ハロルドはマントを翻し踵を返した。
「アリオルド。シャーレンが帰るようだ。大教会まで丁重に送ってやれ」
「はい。――それではシャーレン様。こちらへ」
騎士が恭しく手を差し出す。
その手に自らの手を預け……シャーレンは去っていくハロルドの背中を見届けて、そっと息を吐いた。
「待たせたな。シャーレン。……まったくあのじじい……グダグダと同じことを、よくもああ何度も繰返せるものよ。早くもボケたのかと思ったわ。いっそ本当にボケて、さっさと隠居でもしてくれればいいものを」
このシオンの国王であり、また自らの父親でもある男を、じじい呼ばわりしてハロルドは毒づく。
「……殿下。もうすこしお声を小さくしてくださいませ」
青い髪の騎士が穏やかにたしなめる。
「どうせ聞こえはせぬわ。耳の方は最近本当に遠いようだからな」
言い放って、騎士を扉の向こうへ下がらせると、ハロルドはドレス姿のシャーレンを値踏みするかのようにつま先から頭の先まで眺めた。
緩やかにわずかなカールがかかった青銀の髪は今は結い上げられ、真珠の髪飾りで留められている。ウエストはドレスの上からコルセットで締め上げられ、腰の細さと、痩せているわりには存在感のある胸を主張している。
いつもは大教会の奥深く、白いローブの下に覆い隠されている肌は、抜けるかのごとく白い。
「……ほう。よく似合っているではないか。いつものあのつまらんローブでは出っ張りも凹みもあったものではないからな」
ハロルドが言う。
……でっぱり?凹み?
よくわからない感想だが、似合うというからには多分褒めてくれているのだろう。
シャーレンはとりあえず頭を下げた。
「ありがとうございます。……ですがこのコルセットが少し……だいぶ息苦しくて、具合が悪くなりそうです。もし殿下のお気がおすみなら早く脱いでしまいたいのですが」
「脱ぐ?随分と積極的だな」
ハロルドの台詞にシャーレンは首をかしげた。
苦しくて、宮廷の女性のように我慢できない、と自分は言っているのだけれど。
「……お言葉ですが、殿下。積極的というよりも消極的だと思いますが」
ハロルドは彼にしては珍しくあっけにとられ、それから笑い出した。
「くっ……ははっ!相変わらずよな、シャーレン。おまえは本当に物を知らぬ」
笑いながら言われた言葉に、しかしシャーレンは表情を強張らせた。
かつてもハロルドから似たようなことを言われたことがある。
シャーレンが大教会に入ったばかりの頃だ。
ハロルドはシャーレンと他の大勢の者の前で、父であるディエンタール公のことを俗物だと言い切った。父こそその場にはいなかったが、愛する父を侮辱されてそのまま引き下がっていられなかったシャーレンは、他の者が止めるのも聞かずにハロルドに食って掛かった。ハロルドはそんなシャーレンを見て、面白そうに笑いその言葉を取り消したが、その後に尋ねたのだ。
――無知とは罪と思うか、と。
その時のシャーレンはそうは思わなかった。何も知らずにやったことが罪に問えるとは思えないし、知らないこと自体はどうしようもないことだと。そう答えた。
「おまえらしい答えよな、シャーレン。……だが、俺はそうは思わぬ」
ハロルドはそう言った。
今なら、自分の答えは変わっている。シャーレンは変わらず父を愛している。早くに母を亡くしたシャーレンを大切に大切に育ててくれた、たった一人の父親なのだ。けれど、それと同時に俗物だと言われても、今のシャーレンにはあの時のように食って掛かることは出来ないだろう。
ディエンタール家が領地の住民に課してきた重税。大教会との癒着。裏から手を回して政敵を審問にかけさせ、火刑に追いやっていたことすらあった。
本当に自分は何も知らなかったのだ。あのやさしい父が、一方ではそんなことをやっていたなど。
ディエンタール家の力で守られて、ほとんど屋敷から出ることもなく、多くの者にかしずかれ、それを当たり前のように享受してきた。思い返せば、幼いシャーレンが思いつきで言った我儘を叶えるために、きっと多くの者が酷い苦労を強いられてきたはずだ。
重税に領地の民が苦しんできたことも、大教会とのつながりを保つ為に審問にまで便宜をはかってきたことも。大教会に入り、外からディエンタール家を見るまで、シャーレンは何一つ知らないままだった。
そうして知らないままに……足元に流れる多くの血を吸い上げてシャーレンは生きてきたのだ。
――無知とは罪。
かつてハロルドに言われた言葉を、シャーレンはことある度に思い出した。
ハロルドの言うとおりだ。
知らないことは免罪符になるのではない。罪の意識すら持たない分、それは知って犯した罪よりも、なおいっそう罪深いのではないだろうか?
「どうした?急に顔色を変えたな」
「わたくしは……まだ何か知らないままでしょうか。まだ無知なままなのでしょうか」
苦しげに呟くシャーレンを、ハロルドは静かに見下ろした。
「以前俺が言ったことをまだ気にしているのか?」
「……はい」
「気に病むことなどないわ。支配に血はつきもの。王族とは、貴族とはそういうものだ。さすがにおまえの父は少々行き過ぎてはいるが、な」
ハロルドの言葉に、ぴくり、とシャーレンは眉を上げた。
シャーレンを無知だと、そして無知は罪だと言い放ったハロルド。 ハロルドは苛烈な気性の持ち主だが、それでも彼は・・彼だけは他の王家の人間とは違うと思っていた。ハロルドが王位を継げば、同じ血族同士で争うこともないのではないかと。今のこの惨状も変わっていくのではないかと。
だが、今の言い方は――。
「気に病むことはない、とおっしゃいましたか?いったいどれだけの人々がディエンタール家のために……そして……」
「我らシオン王家のために苦しんできたか、か?
くだらんな。民とは我らに仕えるためにあるのだ。だいたい少々家畜の血が流れたからと言って、何を気にすることがある?やつらとてまさか殺した家畜の一匹一匹に思いをはせたりはしまい」
シャーレンはまっすぐとハロルドを見上げた。
「……家畜……?……何をおっしゃっているのです。流れている血の、その一人一人が日々を精一杯に生きているのです。彼らを大切に思う人間が、彼らが大切に思う人間がいるのです。殿下はどうしてそれをそのように言えるのです」
「同じ?それは違うな、シャーレン。おまえや俺と、多くの民とではそもそもの価値が違う。虫けらのように蠢く民の一人一人のことなどどうして思いやってやる必要がある?多少減ろうが、またすぐ増える」
「……殿下」
シャーレンは苦しげにハロルドを見た。
同じ人間なのに、どうしてそんな風に思えるのかが、シャーレンには理解できない。
黙り込んだシャーレンを眺め、ハロルドは細い手首を掴むと、シャーレンを引き寄せた。いきなり抱きしめられた格好になって、シャーレンは慌てた。
「っ……いきなり何のおつもりですか。お戯れはおやめください」
逃れようともがくシャーレンを、ハロルドは抱きしめた腕に力を込めることで簡単に押さえつけた。シャーレンの首筋に顔を埋める。
「戯れているつもりはないが。今日はおまえの返事を聞くために呼んだのだ」
「……返事?」
「言ったであろう?俺の隣に座るつもりはないか、と」
ひと月ほど前、確かにハロルドはシャーレンにそう言った。
言葉通りにとるなら、妻となる気はないかと、そう尋ねたことになる。
だが。
「……お戯れはおやめくださいと申し上げています。わたくしは大教会所属の神官。神に生涯をを捧げた身です。それをご存知の上でそのようなことをおっしゃるとは、いったいどのようなおつもりですか?」
「大教会など辞めてしまえばよい。あんな辛気臭い場所に飾っておくにはおまえのその美貌は惜しいわ。――俺の隣に座れ、シャーレン」
耳元で囁かれて、シャーレンは、きっ、と自分を抱きしめる男を睨みつけた。
腕を振り払い、ハロルドの手から逃れると、男に向き直る。
「……この一年でいったい何人にそのように愛を囁かれましたか?
殿下が女性と見れば口説かれる方だということも、そして情をかけた女性でも、逆鱗に触れれば躊躇いなく首を刎ねてしまうご気性だということも、わたくしはよく存じ上げております」
「……ほう。それを知っているわりには、随分と口の利き方に遠慮がないな」
怖くないといえば嘘になる。
だが、あえてシャーレンはにっこりと微笑んだ。
「……女性を脅してものにするのが殿下のやり方でいらっしゃいますか?」
ハロルドが目を細める。
「少しつけ上がりすぎだな。シャーレン。俺は気の長い方ではない。あまりいつまでも優しい顔は出来ぬぞ」
「わたくしにかけてくださるやさしさがあるのなら、それはぜひ殿下の慈愛を必要としている多くの民に」
「……本当に口の減らぬ女よな。この俺に説教をするつもりか?」
「……お願いを、申し上げております」
「そんなに奴らが大切か?」
「はい」
「我ら王族は神より国と民を授けられし者。奴らなどしょせん所有物に過ぎぬというのにな」
「……聖典にはそのようなことは書かれておりませぬ」
「だが大教会の公式の見解であろう?」
シャーレンは反論できず、唇を噛んだ。
そうだ。大教会はそれを認めている。王権は神より授かったものなのだと。
そして大教会がそうだといえば、アリエス神教を信じる者の多くは、そういうものなのだと納得してしまう。
そんなものは――大教会と王家の癒着の結果にすぎないというのに。
「もっとも神に与えられ、赦された権利などなかったとしても、俺は気になどせぬがな。我が力の下、ひざまずかせ、支配する。それだけのことよ」
「……罪深い考えです」
シャーレンの言葉に、ハロルドは喉の奥で笑った。
「罪を犯すのが怖いのか?」
「当たり前です」
「俺は怖れぬ」
「……殿下……」
「――神も、罪も、罰も、何を失うことも俺は怖れぬ。得ることとは何かを失うことよ。俺は俺の欲するものを手に入れるためならば、俺の望みを叶えるためならば、何を切り捨てることも厭わぬ」
「……」
「おまえも知るべきぞ。何も傷つけずに生きることなど出来ぬ。貴族でありながら、先程の主張をあくまで貫くというのならば、余計にな」
ハロルドの言葉にシャーレンは家族を思い、それから自分のしている裏切りを思った。
「……よく……存じております」
「そうか?俺が見たところ、おまえにはまだ覚悟が足りぬように見えるが。でなければ、とっくに大教会もディエンタール家も飛び出しておるはずだがな」
「……わたくしに王家に反旗を翻せとおっしゃっているのでしょうか」
「まさか。俺がそんなことを勧めるはずがあるまい。あきらめろと、そう言っている」
「……」
「おまえはどうあがいてもディエンタール家のシャーレンなのだ。大貴族の血を引き、多くの民の血を絞り取り……そしてこれからもそうして生きていく。我ら王族と同じように」
ハロルドはにやりと笑った。
「……まだ返事を聞いていなかったな。おまえならば俺の横にいて不足はない。俺が王となるその時に隣に座るつもりはないか、シャーレン。我ら呪わしき吸血の一族……王族の一員にならぬか?」
「聡明なる殿下ならわたくしがそのようなお申し出を受けるかどうか、お答えしなくてもおわかりかと存じますが」
「……」
「殿下は弟君とは……アラン王子とは全く違う方と思っておりました。けれど、わたくしの思い違いだったようです」
シャーレンの言葉に、ハロルドが笑みを消す。
ハロルドは不穏な空気を纏ってシャーレンを見た。
「……随分と言ってくれるな。あの馬鹿と並べられるのを、俺が一番好かぬと知ってのことか? ――ここでその首刎ねられたいか、シャーレン」
「……お試しになられますか?その際はお気をつけ下さいませ。わたくしは殿下が思っていらっしゃるよりもだいぶ凶暴な女でございます」
「下位の白魔術しか使えぬそのか細い身で、どうやって俺に一矢報いるつもりだ。……引っかくか?それとも噛みつくか?」
「……どうでしょう。ですが、わたくしの凶暴さを見誤られますと――殿下のお首の方が落ちることになるやも知れませぬ」
「……」
ハロルドは沈黙したままシャーレンを見た。
黄金がかった燃えるような琥珀色の瞳が、傲慢にシャーレンを見下ろす。
気に障れば床を共にした女の首すら躊躇いなく刎ね飛ばす、苛烈な気性の第一王子。
ハロルドとシャーレンは、しばし黙ったままお互いを見据えた。
静寂に支配された部屋。
緊張に静まり返った部屋の中、不意に扉がノックの音が響く。扉が開かれた。姿を見せたのは控えていた先程の騎士だ。
「なんだ。アリオルド。邪魔をするな」
「畏れながら申し上げます。ディエンタール公爵家エルドラ様がご帰還にいらっしゃいます。ぜひ殿下に火急にご報告申し上げたい件があるとのこと。面会を申し出ていらっしゃいます」
「……エルドラ兄様が……?」
シャーレンがぽつりと呟く。
ハロルドはクッと笑った。
「どうやら救いの騎士が駆けつけたようぞ。
随分と急いで戻ってきたものだ。おまえの兄が妹を助ける為に、いったいどんな火急の用をつくりあげてくれるのか。……見ものよな」
言い捨てて、ハロルドはマントを翻し踵を返した。
「アリオルド。シャーレンが帰るようだ。大教会まで丁重に送ってやれ」
「はい。――それではシャーレン様。こちらへ」
騎士が恭しく手を差し出す。
その手に自らの手を預け……シャーレンは去っていくハロルドの背中を見届けて、そっと息を吐いた。
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