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歩・三十二「針」
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とりあえず、一つの危機は去った。
夜半に宿へ侵入した暗殺者は撃退した。鈴糸も粉の罠も機能した。エノクの読みは正しかった。だが、それで全て終わったわけじゃない。闇ギルドの影はまだ潜んでいる。むしろ、質を変えてこちらへ迫ってくるのは明らかだった。
問題は、宿そのものだ。
この宿には他の旅人も泊まっている。俺たちが夜中に刃を交えたことを知られれば、すぐ衛兵に嗅ぎつけられる。騒げば余計に疑念を生む。俺たちが巻き込まれているに過ぎないとしても、サメフの人間から見れば「危険な客」だ。だから、あの襲撃のあともできる限り穏便に済ませる必要があった。
廊下を掃き、粉の跡を拭い、鈴糸を新しく張り直す。死体は残さなかったが、残り香は壁に染みていた。俺たちはそれを知っている。だが宿の客たちには、ただの夜風にしか思えないようにしなければならなかった。
俺とカサレアは宿に残り、アギとエリファスの護衛に専念した。戦えない二人を一人残すのは危うい。エノクは町に出て、足りない物資の買い出しや、情報の裏を取りに動いていた。
その日の午後、カサレアが「食料や薬草も確認しておきたい」と言い、外へ出た。エリファスが同行するかと口にしたが、カサレアは「大丈夫」と微笑んで断った。
俺は一瞬止めようと思ったが、彼女の目は強かった。昨日まで、彼女は補助魔法の訓練を重ね、肉体強化の術をようやく形にしたばかりだった。役に立ちたい、その思いは痛いほど伝わってきていた。俺は頷き、短く釘を刺した。
「人混みからは離れるな」
カサレアは「わかってる」と返し、軽く杖を掲げて部屋を出て行った。
*
市場は活気に溢れていた。俺が宿の窓から見下ろした限りでも、干した魚や香辛料の匂いが風に乗って届くほどだった。カサレアは人混みに混ざり、布袋を提げ、物色していたらしい。
――それが最後の姿だった。
彼女は気付かなかった。いや、誰も気付けなかった。
通りをすれ違ったフードの人物が、ほんの一瞬、身体を寄せた。布の袖に隠された手が、刃でも拳でもなく、針を突き立てた。
カサレアの二の腕。
音はなかった。悲鳴もなかった。ただ、針先が肌を破り、毒が血流へと走る。
彼女はそのまま歩き続けた。ほんの数歩。袋を持ち直し、呼吸が詰まるのを振り払おうとした。
「……あれ?」
かすかな声。誰も気に留めない。人混みのざわめきに紛れて消えた。
視界が歪み、足がもつれる。袋から果実が転がり落ちた。
膝をついた瞬間、胸を押さえ、目を見開いた。
毒は速効だった。
心臓を掴む冷たさが全身を縛り、呼吸が一度、途切れる。
人々がようやく異変に気付いたのは、彼女の身体が地面に倒れ、硬直し始めたときだった。
「きゃあ!」
「誰か! 衛兵を!」
叫び声が広がり、人波が波紋のように崩れていく。
だが、フードの人物はもうそこにはいなかった。姿は群衆に紛れ、煙のように消えていた。
*
騒ぎを聞きつけたのはエノクだった。彼は荷を抱えて通りを回っていたところ、広場に人だかりを見た。
地に伏す女を見て、血の気が引いた。
杖、髪、瞳。
「……カサレア!」
彼は駆け寄った。だが、既に冷たかった。喉元に触れた指に脈はない。
瞳は見開かれ、青空を映したまま閉じられることがなかった。
エノクは奥歯を噛み締めた。呼びたい名が喉まで上がった。アラン。だが、ここで叫べば宿に人々の視線が集まる。そこにはアギとエリファスがいる。戦えない二人を晒すわけにはいかない。
エノクは腕を伸ばし、カサレアの体を抱き上げた。群衆のざわめきが彼を追う。毒だ、と誰かが叫んだ。見ろ、腕に痕がある、と別の誰かが指差す。だが犯人の姿はもうどこにもなかった。
*
その知らせを聞いたとき、俺は剣を抜きかけていた。
「……嘘だろ」
駆けつけたエノクの腕の中、力なく垂れるカサレアの手。
温もりはもうなかった。
アギが息を呑み、エリファスが目を伏せた。誰も言葉を持たなかった。
俺はただ、彼女の髪を撫でた。幾度も共に過ごした短い時間の記憶が、刃のように胸を刺した。
*
墓を建てたのはサメフの外れ、小さな丘の上だった。土はまだ柔らかい。木を組み合わせて印を立て、そこに彼女の杖を掛けた。
俺はその前に立ち続けた。
日が傾き、影が長く伸びる。鳥の声が沈む。
エノクもアギもエリファスも、言葉をかけられなかった。
俺は一人で、土の盛り上がりを見下ろしていた。
夜半に宿へ侵入した暗殺者は撃退した。鈴糸も粉の罠も機能した。エノクの読みは正しかった。だが、それで全て終わったわけじゃない。闇ギルドの影はまだ潜んでいる。むしろ、質を変えてこちらへ迫ってくるのは明らかだった。
問題は、宿そのものだ。
この宿には他の旅人も泊まっている。俺たちが夜中に刃を交えたことを知られれば、すぐ衛兵に嗅ぎつけられる。騒げば余計に疑念を生む。俺たちが巻き込まれているに過ぎないとしても、サメフの人間から見れば「危険な客」だ。だから、あの襲撃のあともできる限り穏便に済ませる必要があった。
廊下を掃き、粉の跡を拭い、鈴糸を新しく張り直す。死体は残さなかったが、残り香は壁に染みていた。俺たちはそれを知っている。だが宿の客たちには、ただの夜風にしか思えないようにしなければならなかった。
俺とカサレアは宿に残り、アギとエリファスの護衛に専念した。戦えない二人を一人残すのは危うい。エノクは町に出て、足りない物資の買い出しや、情報の裏を取りに動いていた。
その日の午後、カサレアが「食料や薬草も確認しておきたい」と言い、外へ出た。エリファスが同行するかと口にしたが、カサレアは「大丈夫」と微笑んで断った。
俺は一瞬止めようと思ったが、彼女の目は強かった。昨日まで、彼女は補助魔法の訓練を重ね、肉体強化の術をようやく形にしたばかりだった。役に立ちたい、その思いは痛いほど伝わってきていた。俺は頷き、短く釘を刺した。
「人混みからは離れるな」
カサレアは「わかってる」と返し、軽く杖を掲げて部屋を出て行った。
*
市場は活気に溢れていた。俺が宿の窓から見下ろした限りでも、干した魚や香辛料の匂いが風に乗って届くほどだった。カサレアは人混みに混ざり、布袋を提げ、物色していたらしい。
――それが最後の姿だった。
彼女は気付かなかった。いや、誰も気付けなかった。
通りをすれ違ったフードの人物が、ほんの一瞬、身体を寄せた。布の袖に隠された手が、刃でも拳でもなく、針を突き立てた。
カサレアの二の腕。
音はなかった。悲鳴もなかった。ただ、針先が肌を破り、毒が血流へと走る。
彼女はそのまま歩き続けた。ほんの数歩。袋を持ち直し、呼吸が詰まるのを振り払おうとした。
「……あれ?」
かすかな声。誰も気に留めない。人混みのざわめきに紛れて消えた。
視界が歪み、足がもつれる。袋から果実が転がり落ちた。
膝をついた瞬間、胸を押さえ、目を見開いた。
毒は速効だった。
心臓を掴む冷たさが全身を縛り、呼吸が一度、途切れる。
人々がようやく異変に気付いたのは、彼女の身体が地面に倒れ、硬直し始めたときだった。
「きゃあ!」
「誰か! 衛兵を!」
叫び声が広がり、人波が波紋のように崩れていく。
だが、フードの人物はもうそこにはいなかった。姿は群衆に紛れ、煙のように消えていた。
*
騒ぎを聞きつけたのはエノクだった。彼は荷を抱えて通りを回っていたところ、広場に人だかりを見た。
地に伏す女を見て、血の気が引いた。
杖、髪、瞳。
「……カサレア!」
彼は駆け寄った。だが、既に冷たかった。喉元に触れた指に脈はない。
瞳は見開かれ、青空を映したまま閉じられることがなかった。
エノクは奥歯を噛み締めた。呼びたい名が喉まで上がった。アラン。だが、ここで叫べば宿に人々の視線が集まる。そこにはアギとエリファスがいる。戦えない二人を晒すわけにはいかない。
エノクは腕を伸ばし、カサレアの体を抱き上げた。群衆のざわめきが彼を追う。毒だ、と誰かが叫んだ。見ろ、腕に痕がある、と別の誰かが指差す。だが犯人の姿はもうどこにもなかった。
*
その知らせを聞いたとき、俺は剣を抜きかけていた。
「……嘘だろ」
駆けつけたエノクの腕の中、力なく垂れるカサレアの手。
温もりはもうなかった。
アギが息を呑み、エリファスが目を伏せた。誰も言葉を持たなかった。
俺はただ、彼女の髪を撫でた。幾度も共に過ごした短い時間の記憶が、刃のように胸を刺した。
*
墓を建てたのはサメフの外れ、小さな丘の上だった。土はまだ柔らかい。木を組み合わせて印を立て、そこに彼女の杖を掛けた。
俺はその前に立ち続けた。
日が傾き、影が長く伸びる。鳥の声が沈む。
エノクもアギもエリファスも、言葉をかけられなかった。
俺は一人で、土の盛り上がりを見下ろしていた。
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