幽刀星

氷翠

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歩・三十一「罠」

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エノクがサメフを出て一週間。
俺とカサレアは、毎朝同じ時刻に起き、同じ路地の端で準備運動をして、同じ回数だけ型を回した。剣は切っ先の重みが変わらない限り嘘をつかない。魔法もまた、手順を裏切らない。淡々と積み上げる以外に、俺たちにできることはなかった。
昼は市場の喧噪に紛れて耳を澄ます。荷車の軋み、商人の値踏み、通り雨の匂い。夜は宿の二階で地図を広げ、今後の方針をいくつも並べる。だが、どれも決め手を欠いた。
闇ギルドの刃はまだ首筋にある。ホド伯爵の意図は読めない。アミーの影が告げた名が、ときどき耳の奥で擦れる。バラキエル。
影は見える。けれど、それ以上は何も変わらない。体に兆しはない。声も沈黙している。焦りだけが、剣の柄に汗を残した。
さらに数日が過ぎた午後、通りの向こうから見慣れた歩幅が近づいてきた。
エノクだ。両脇に二人の女を伴っている。ひとりは深くフードをかぶらない。まっすぐこちらを見る翠の目。もうひとりは控えめに周囲を測る目つきで、歩幅を半歩ずらし護衛の死角に入る癖がある。初対面でも仕事の匂いがした。

「戻った」

短い。だが十分だった。俺とカサレアは頷き、五人は言葉少なに宿へ向かった。



二階の一室。扉に背を預け、全員が互いの間合いを確かめ合う沈黙が落ちる。先に口を開いたのは、フードを外した女だった。

「私はアギ・ホド。」

よく通る声。背筋が真っ直ぐだ。

「父はホド伯爵。……だけど敵に回る覚悟はあります。」

もう一人が続く。

「エリファス・レヴィ。アギ様の侍女、兼、調べもの全般」

目は笑わないが、声は柔らかい。エノクと視線が交わる。旧知の匂い。
いつもより短い前置きだ。俺は軽く息を吸い、名乗る。

「アラン・ヴィルー」
「カサレア・アグリッパ」

カサレアが杖に手を添えたまま会釈する。
そこでアギが一歩、前に出た。

「父はエンカイ子爵を陥れるために、冒険者ギルドを壊す計画を進めてる。子爵の縁を断ち、港の利を奪う。表の法ではなく、裏で。闇ギルドに手を伸ばし、名義を隠して暗殺を動かした」

エリファスが紙束を机に置く。港の入出貨、名義貸し、裏帳簿の書き癖。いくつかの名が二つの帳に同時に滲んでいる。

「証拠には薄い。でも、繋がる。末端は“闇”の定型で動いてる」

エノクが机の端に指を置いた。

「アギの名を迂闊に表へ出せない。だが内側の情報はこっちの武器になる」

俺は頷く。

「まだ俺を狙う連中がいる、でいいか?」

エリファスが短く答える。

「います。数は少ないはず。ですが質は上がってるかと…」

部屋の空気が固くなる。
戦えるのは俺とエノク。カサレアは補助で支える。アギとエリファスは戦場に立たない。答えは一つしかない。ここで待ち受ける。守りの布陣を敷き、出方を見極める。

「宿を借り切る。二階の並びを抑える」

エノクが淡々と段取りを並べる。

「女三人は端の部屋で固める。俺とアランは別々に。間に一室、囮を置く」
「囮?」

カサレアが眉を上げる。

「音と影で誘導する。間の部屋が空きなら、そこを狙う。満室なら、油断が生まれる」

エノクの目がわずかに笑った。

「“空きに見えるエノクの部屋”ってわけだ」

アギが短く息を呑んだ。

「相手が来るのを、待つのね」
「来る。必ず」

俺は窓の外に視線をやった。サメフの夕暮れは、赤茶の屋根をやわらかく染めている。見慣れた平穏は、油断を呼ぶ。そこに刃が滑り込む。だから、こちらが先に刃を置いておく。



夜。
宿の二階、三つ並びの部屋。廊下に面した扉はそれぞれ新しい鍵に替えた。窓辺には細い鈴糸を仕込む。踏むと鳴るが、音は壁の中へ吸わせた。鳴りは俺とエノクだけが拾える。床には粉を薄く引く。足跡に出る癖を見るためだ。
女三人は端の部屋。エリファスは窓際で書き付けを続け、アギは短剣を手元から離さない。カサレアは小声で詠唱の呼吸を整える。
俺は反対の端。エノクは真ん中。灯りは消す。廊下には宿の主が古い椅子を置き、居眠りのふりをしている。二重の囮だ。
深夜。
空が深くなるほど、音は大きくなる。誰かの寝返り、梁の乾いた鳴き。鈴糸は沈黙を保ったまま、時間だけが過ぎる。
眠気はない。俺は背中に冷たい板壁を感じながら、呼吸を低く保つ。影は静かだ。呼びかけても答えはない。いい。今夜は、俺の刃が先だ。

――微かな、触れ。

鈴糸が鳴った。音ではない。壁の向こう側の空気が、まるで爪で擦られたみたいに震えた。
同時に、廊下の板がかすかに沈む。宿の主の寝息は崩れない。演技が上手い。
窓だ。真ん中の部屋。
俺は扉に指をかけ、音のない位置まで鍵を回す。廊下の暗がりに目を慣らす。三歩先、真ん中の扉の下に細い影が流れた。ローソクの煤の色だ。
中。気配が、揺れた。
エノクの呼吸が消える。あいつが空気から消える時は、獲物の首に手をかける直前だ。
窓の留め金が内側からわずかに鳴る。入った。
俺は廊下を一歩進み、扉の傍で待つ。合図は三度の軽い打音。床板を爪で、猫の歩幅で。

――コ、コ、コ。

来た。
扉が内側からわずかに開き、闇が手招きした。
俺は身を滑らせる。
真ん中の部屋は暗い。だが、暗闇は目を閉じるより明るい。机の角、椅子の影、寝台の輪郭。窓縁に黒い紐の先。侵入者の足。
同時に、エノクの手が動く。
布が翻り、闇の中の闇がもがいた。喉に刃は届かない。肘が逸れ、影が床を蹴る。毒針の光が一瞬、月を掠める。

「動くな」

俺は一歩で間合いを詰め、鞘で手首を打つ。からん、と細い器具が床を跳ねた。
侵入者は小柄だ。肩の力が抜け、逃げに体重を乗せる癖。片眼を庇う古傷。闇の匂いは同じでも、構えが違う。バラキエルじゃない。
エノクが足を払う。倒れた瞬間を狙って、侵入者は指で何かを弾いた。ぱっ、と白。
煙。

「下がれ!」

声と同時に、俺は息を止め、横に滑る。床の粉が渦を描く。視界を奪うための眩惑。毒は混ぜていない。早い撤収の手口だ。
窓へ。
逃げる。一手で仕留められないなら、生き延びる。暗殺者の定石。
エノクが先に飛ぶ。窓枠に手をかけた相手の足首を取る。踵が鳴り、悲鳴が喉で折れた。
だが、身のこなしが軽い。関節を抜く癖がある。足首を切り返し、壁を蹴って身を翻した。
俺は窓下へ回り込み、逃走の角度を潰す。闇と闇のぶつかり合いの隙間で、月が刃の背を撫でた。
もう一押し。

――その瞬間、侵入者は諦めていなかった。口元へ指を持っていく。歯の奥。

毒嚢か!?
エノクの掌が早かった。顎を掴み、口を封じる。歯は噛めない。毒は喉に落ちない。

「終いだ」

低い声。
侵入者の肩から力が抜ける。体の芯だけが、まだ逃げ道を探していた。だが、逃げない方が生きると理解する速度も速い。
俺は窓を閉め、鈴糸を外す。部屋の灯りはつけない。暗さは味方だ。エノクが相手の腕を背に取り、床に伏せさせる。呼吸は浅いが整っている。
袖口から小さな板片が落ちた。黒曜石の札。刻印は歪んだ天秤。闇ギルドの支流で使う目印だ。

「訊く」

エノクが囁く。俺は短く頷く。
煙は薄れた。窓の外、通りの足音が戻る。宿の主が階段を上がる音がする。
扉がノックされた。二回、間。もう一回。女部屋の合図。

「アギ、エリファス、カサレアは無事だ」

俺は扉に向かって短く告げた。

「動くな。こっちは片付いた」

床の粉に、侵入者の足跡がくっきり残る。爪先が外側に開く癖。膝を庇う歩き方。訓練というより、昔の怪我の名残だ。
俺は札を拾い、掌で転がす。冷たい。嘘をつかない重みがある。

「お前は誰の線だ。名は要らない。どこから来た」

返事はない。沈黙が石のように固まる。
エノクが力を込める。骨は折らない。だが、逃げ道を全部塞ぐ握りだ。
侵入者は小さく息を吐いた。

「……西の窓。五つ先の屋根」

声は若い。女かもしれない。

「指示は」

「……伝令。名は知らない。顔も」

嘘は、あまり上手くない。だが、本当に何も知らない末端もいる。
闇は、中心ほど口が硬い。外側ほど捨てられやすい。
エノクが顎を離した。侵入者はまだ噛めない。毒を使わせないためだ。

「命は取らない。その代わり、渡してもらう」

俺は黒曜石の札を見せ、窓の外の闇へ目をやる。

「今夜はここまでだ。戻って伝えろ。サメフは噛み切れない。歯が欠けるだけだとな」

侵入者の目が一瞬だけこちらを見た。反発でも怯えでもない。測る目だった。
エノクが手を緩め、廊下へ繋がる別の扉を開ける。そこからなら、宿の外へ抜けられる。

「行け」

侵入者は躊躇い、そして一息で消えた。
足音は残さない。だが、粉は知っている。靴の縁に白が残る。明日、町角で見つけられるかもしれない。



扉を閉め、鍵をかける。灯りを点けるのは最後にした。
女たちの部屋の扉が開く。アギは青ざめ、エリファスは無表情で状況を視線で舐める。カサレアは杖を握りしめたまま、俺とエノクの顔を見比べた。

「終わったの?」
「ああ。今夜は」

俺は札を卓上に置く。歪んだ天秤が蝋の光を弾いた。

「ここで待ち受ける方針自体は間違っちゃいない。でも、より厄介なのは質だ。数は来ない。狙いも狭い。……奥にまだいる」

エノクが椅子に腰を落とし、息を整えた。

「伯爵の手か、別の線か」

エリファスが札を裏返す。

「これだけじゃ足りない。けど、手口は割れた。末端の癖が見えた」

アギが拳を握る。声が震える。

「父を止めたい。けれど……巻き込む」
「巻き込まれてるのはもう同じだ」

俺はアギを見る。

「だから、ここで踏ん張る。守るし、噛み返す。五人で」

窓の外で、朝の前の静けさが膨らむ。夜は最も深く、最も薄い。
影は静かだ。呼びかけても、今夜は応えない。いい。俺たちが動いた。
鈴糸を張り直し、粉を新しく引く。女部屋への通路に椅子を増やし、合図をもう一つ定める。カサレアは補助の詠唱を短い型に縮める練習を始めた。アギは父の癖を紙に起こし、エリファスは港の名簿から似た刻印を探し始める。
エノクは窓辺で、薄く笑った。

「罠は、まだいくつも必要だな」

俺も笑い返した。
剣は嘘をつかない。闇も、嘘より癖を見せる。
夜明けまで、手を止めるわけにはいかない。
サメフはまだ眠っている。だが、ここはもう戦場だ。
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