34 / 55
歩・三十四「歩」
しおりを挟む
ダアトまでは、早馬でも四日はかかる。徒歩と休憩を交えれば五日、それも天候が荒れなければの話だ。
静かな朝だった。陽光は雲に遮られ、窓辺の影が淡く揺れている。俺は腰に差した刀をそっと外し、鍔元から鞘を引き、鍛えた刃を陽にかざした。
まだこの町を出ると決めたわけじゃない。だが心のどこかで、もう決まっていたのかもしれない。
いつものように剣の素振りを終えた頃、裏口から軽い足音が響いた。振り返ると、扉を開けてエノクが現れる。彼は珍しく神妙な面持ちだった。
「来たよ。あいつが……例の情報屋が」
「……ホド伯爵の件か」
「ああ。あの女の話を裏付けるような、なかなかに黒い内容だった」
エノクが椅子に腰かけ、革の水筒を机の上に置いた。そこに座るのは何日ぶりだったか。俺は刃を拭き、鞘に収める。
「話してくれ」
「……ああ、順に話す」
エノクは息をひとつ整えてから語り出した。
ホド伯爵が、近年ダアト周辺に異常に強い影響力を持ち始めている理由。財の流れ。ギルド内の弱い立場の者に取り入り、幹部を買収していたという話。そして、レミエル殺害に使われた手口と似た事件が過去にも数件あること──いずれも伯爵領周辺で起きていたという。
俺の拳が、無意識に膝の上で握られていた。
「……つまり、やはりホドが黒幕の可能性が高いと」
「ああ。おまけに、その全てが『証拠不十分』で消えてる。証人が死ぬか、証拠が消えるか、あるいは無理やり口を封じられるか……な」
「……」
沈黙が落ちた。
「戻ろう、アラン。ダアトに」
「……」
「お前が剣を振るう覚悟を決めるなら、俺も腹を括る」
その言葉は、優しさでもあり、決意でもあった。
俺はゆっくりと立ち上がる。
「──わかった」
それが、旅立ちの合図になった。
* * *
旅の準備は、ひとつずつ、丁寧に進めた。
救急セットにポーション、包帯……昔、レミエルが作ってくれた調合薬もまだ残っている。どれも埃を被っていた。彼女の死から、まだ月日はそう経っていないはずなのに、ずいぶんと前のことのように感じる。
俺はふと、その薬の小瓶を手にとった。琥珀色の液体がわずかに揺れる。蓋には小さく彼女のサイン──「Remiel.S」の刻印がある。細い文字だった。
「お前がいたら、もう少し準備も早かったかもな」
呟いて笑うが、声は虚ろに響いた。
食料をまとめ、地図を見直す。カサレアが得意げに街道を読み解いていた姿が脳裏に浮かぶ。彼女の声ははっきりと耳に残っていた。
「こっちの街道なら宿場町が多いよ、夜道を避けられる」
──もう、あの笑顔を見ることはできないのだろうか。
胸に重たい鉛が沈んでいくのを感じながら、俺は地図を巻き、筒に収めた。乾いたパンを袋に詰め、干し肉と共に背の荷にしまう。
あとは武器の手入れだ。
布をとり、油を染ませて、刀身を静かに拭く。ホド伯爵──あの男の顔が浮かんだ。
金の装飾が施された袖、いやらしく肥えた顎。媚びたような口調と、瞳の奥に潜んだ悪意。ギルドを傀儡にし、自分の欲望のために人を殺す。そんな存在を──俺は、許さない。
「……必ず」
その刃に、怒りではなく冷たい覚悟を宿らせていく。
* * *
隣の部屋ではエノクも静かに荷をまとめていた。
あいつの性格からして、あまり多くを語らないだろう。だが、心の中で色んな思いが渦巻いているのは、背中を見ていればわかる。
彼は俺の過去をすべて知っているわけじゃない。レミエルやカサレアのことも、断片しか知らない。だが、友を貶めた伯爵のことだけは、明確に「許せない」と思っている。それだけで十分だった。
俺たちは、言葉を交わさずに旅の支度を進めた。
水筒に水を満たし、鍋や食器を袋に詰め、最後に肩掛けのマントを鞄にかける。馬車を雇う手配はエノクが既に済ませていた。
「情報屋には更なる調査を依頼した。奴は動ける」
エノクの低い声が背中から響く。
「礼を言う」
俺は振り返り、エノクと視線を交わした。言葉がなくても、その目は真っ直ぐだった。
* * *
その日の午後。
俺たちは小さな門を抜け、北東へと続く街道に足を踏み入れた。
空はどこまでも高く、風は秋の匂いを帯びていた。
町を出る最後の瞬間、ふと振り返る。石畳と古びた屋根の家々。その中に、思い出がいくつも眠っている。
レミエルの最後の笑顔。カサレアが魔法の練習をしていた広場。ベンの大きな背中。すべてが遠ざかっていく。
「アラン」
エノクの声に、俺は前を向き直る。
「行こう」
「ああ──ダアトへ」
ホド伯爵を討つために。
そして、過去と向き合うために。
俺たちの足は、静かに、だが力強く道を踏みしめていった。
静かな朝だった。陽光は雲に遮られ、窓辺の影が淡く揺れている。俺は腰に差した刀をそっと外し、鍔元から鞘を引き、鍛えた刃を陽にかざした。
まだこの町を出ると決めたわけじゃない。だが心のどこかで、もう決まっていたのかもしれない。
いつものように剣の素振りを終えた頃、裏口から軽い足音が響いた。振り返ると、扉を開けてエノクが現れる。彼は珍しく神妙な面持ちだった。
「来たよ。あいつが……例の情報屋が」
「……ホド伯爵の件か」
「ああ。あの女の話を裏付けるような、なかなかに黒い内容だった」
エノクが椅子に腰かけ、革の水筒を机の上に置いた。そこに座るのは何日ぶりだったか。俺は刃を拭き、鞘に収める。
「話してくれ」
「……ああ、順に話す」
エノクは息をひとつ整えてから語り出した。
ホド伯爵が、近年ダアト周辺に異常に強い影響力を持ち始めている理由。財の流れ。ギルド内の弱い立場の者に取り入り、幹部を買収していたという話。そして、レミエル殺害に使われた手口と似た事件が過去にも数件あること──いずれも伯爵領周辺で起きていたという。
俺の拳が、無意識に膝の上で握られていた。
「……つまり、やはりホドが黒幕の可能性が高いと」
「ああ。おまけに、その全てが『証拠不十分』で消えてる。証人が死ぬか、証拠が消えるか、あるいは無理やり口を封じられるか……な」
「……」
沈黙が落ちた。
「戻ろう、アラン。ダアトに」
「……」
「お前が剣を振るう覚悟を決めるなら、俺も腹を括る」
その言葉は、優しさでもあり、決意でもあった。
俺はゆっくりと立ち上がる。
「──わかった」
それが、旅立ちの合図になった。
* * *
旅の準備は、ひとつずつ、丁寧に進めた。
救急セットにポーション、包帯……昔、レミエルが作ってくれた調合薬もまだ残っている。どれも埃を被っていた。彼女の死から、まだ月日はそう経っていないはずなのに、ずいぶんと前のことのように感じる。
俺はふと、その薬の小瓶を手にとった。琥珀色の液体がわずかに揺れる。蓋には小さく彼女のサイン──「Remiel.S」の刻印がある。細い文字だった。
「お前がいたら、もう少し準備も早かったかもな」
呟いて笑うが、声は虚ろに響いた。
食料をまとめ、地図を見直す。カサレアが得意げに街道を読み解いていた姿が脳裏に浮かぶ。彼女の声ははっきりと耳に残っていた。
「こっちの街道なら宿場町が多いよ、夜道を避けられる」
──もう、あの笑顔を見ることはできないのだろうか。
胸に重たい鉛が沈んでいくのを感じながら、俺は地図を巻き、筒に収めた。乾いたパンを袋に詰め、干し肉と共に背の荷にしまう。
あとは武器の手入れだ。
布をとり、油を染ませて、刀身を静かに拭く。ホド伯爵──あの男の顔が浮かんだ。
金の装飾が施された袖、いやらしく肥えた顎。媚びたような口調と、瞳の奥に潜んだ悪意。ギルドを傀儡にし、自分の欲望のために人を殺す。そんな存在を──俺は、許さない。
「……必ず」
その刃に、怒りではなく冷たい覚悟を宿らせていく。
* * *
隣の部屋ではエノクも静かに荷をまとめていた。
あいつの性格からして、あまり多くを語らないだろう。だが、心の中で色んな思いが渦巻いているのは、背中を見ていればわかる。
彼は俺の過去をすべて知っているわけじゃない。レミエルやカサレアのことも、断片しか知らない。だが、友を貶めた伯爵のことだけは、明確に「許せない」と思っている。それだけで十分だった。
俺たちは、言葉を交わさずに旅の支度を進めた。
水筒に水を満たし、鍋や食器を袋に詰め、最後に肩掛けのマントを鞄にかける。馬車を雇う手配はエノクが既に済ませていた。
「情報屋には更なる調査を依頼した。奴は動ける」
エノクの低い声が背中から響く。
「礼を言う」
俺は振り返り、エノクと視線を交わした。言葉がなくても、その目は真っ直ぐだった。
* * *
その日の午後。
俺たちは小さな門を抜け、北東へと続く街道に足を踏み入れた。
空はどこまでも高く、風は秋の匂いを帯びていた。
町を出る最後の瞬間、ふと振り返る。石畳と古びた屋根の家々。その中に、思い出がいくつも眠っている。
レミエルの最後の笑顔。カサレアが魔法の練習をしていた広場。ベンの大きな背中。すべてが遠ざかっていく。
「アラン」
エノクの声に、俺は前を向き直る。
「行こう」
「ああ──ダアトへ」
ホド伯爵を討つために。
そして、過去と向き合うために。
俺たちの足は、静かに、だが力強く道を踏みしめていった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
嵌められたオッサン冒険者、Sランクモンスター(幼体)に懐かれたので、その力で復讐しようと思います
ゆさま
ファンタジー
ベテランオッサン冒険者が、美少女パーティーにオヤジ狩りの標的にされてしまった。生死の境をさまよっていたら、Sランクモンスターに懐かれて……。
懐いたモンスターが成長し、美女に擬態できるようになって迫ってきます。どうするオッサン!?
【もうダメだ!】貧乏大学生、絶望から一気に成り上がる〜もし、無属性でFランクの俺が異文明の魔道兵器を担いでダンジョンに潜ったら〜
KEINO
ファンタジー
貧乏大学生の探索者はダンジョンに潜り、全てを覆す。
~あらすじ~
世界に突如出現した異次元空間「ダンジョン」。
そこから産出される魔石は人類に無限のエネルギーをもたらし、アーティファクトは魔法の力を授けた。
しかし、その恩恵は平等ではなかった。
富と力はダンジョン利権を牛耳る企業と、「属性適性」という特別な才能を持つ「選ばれし者」たちに独占され、世界は新たな格差社会へと変貌していた。
そんな歪んだ現代日本で、及川翔は「無属性」という最底辺の烙印を押された青年だった。
彼には魔法の才能も、富も、未来への希望もない。
あるのは、両親を失った二年前のダンジョン氾濫で、原因不明の昏睡状態に陥った最愛の妹、美咲を救うという、ただ一つの願いだけだった。
妹を治すため、彼は最先端の「魔力生体学」を学ぶが、学費と治療費という冷酷な現実が彼の行く手を阻む。
希望と絶望の狭間で、翔に残された道はただ一つ――危険なダンジョンに潜り、泥臭く魔石を稼ぐこと。
英雄とも呼べるようなSランク探索者が脚光を浴びる華やかな世界とは裏腹に、翔は今日も一人、薄暗いダンジョンの奥へと足を踏み入れる。
これは、神に選ばれなかった「持たざる者」が、絶望的な現実にもがきながら、たった一つの希望を掴むために抗い、やがて世界の真実と向き合う、戦いの物語。
彼の「無属性」の力が、世界を揺るがす光となることを、彼はまだ知らない。
テンプレのダンジョン物を書いてみたくなり、手を出しました。
SF味が増してくるのは結構先の予定です。
スローペースですが、しっかりと世界観を楽しんでもらえる作品になってると思います。
良かったら読んでください!
生贄にされた少年。故郷を離れてゆるりと暮らす。
水定ゆう
ファンタジー
村の仕来りで生贄にされた少年、天月・オボロナ。魔物が蠢く危険な森で死を覚悟した天月は、三人の異形の者たちに命を救われる。
異形の者たちの弟子となった天月は、数年後故郷を離れ、魔物による被害と魔法の溢れる町でバイトをしながら冒険者活動を続けていた。
そこで待ち受けるのは数々の陰謀や危険な魔物たち。
生贄として魔物に捧げられた少年は、冒険者活動を続けながらゆるりと日常を満喫する!
※とりあえず、一時完結いたしました。
今後は、短編や別タイトルで続けていくと思いますが、今回はここまで。
その際は、ぜひ読んでいただけると幸いです。
転生したら名家の次男になりましたが、俺は汚点らしいです
NEXTブレイブ
ファンタジー
ただの人間、野上良は名家であるグリモワール家の次男に転生したが、その次男には名家の人間でありながら、汚点であるが、兄、姉、母からは愛されていたが、父親からは嫌われていた
蒼穹に溶けた約束 ―記憶を失った勇者と終焉の魔女―
usako
ファンタジー
目を覚ましたとき、名前も記憶も失っていた――。
少年は滅びゆく世界で、ただ一人の「魔女」に拾われる。
世界を救うと呼ばれた勇者は、なぜすべてを忘れたのか。
魔女が背負う「終焉の呪い」とは何か。
過去を思い出すたび、二人は哀しみの真実に近づいていく。
これは、滅びの運命に抗う二人の再生の物語。
悪徳貴族の、イメージ改善、慈善事業
ウィリアム・ブロック
ファンタジー
現代日本から死亡したラスティは貴族に転生する。しかしその世界では貴族はあんまり良く思われていなかった。なのでノブリス・オブリージュを徹底させて、貴族のイメージ改善を目指すのだった。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる