幽刀星

氷翠

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歩・三十四「歩」

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ダアトまでは、早馬でも四日はかかる。徒歩と休憩を交えれば五日、それも天候が荒れなければの話だ。
静かな朝だった。陽光は雲に遮られ、窓辺の影が淡く揺れている。俺は腰に差した刀をそっと外し、鍔元から鞘を引き、鍛えた刃を陽にかざした。
まだこの町を出ると決めたわけじゃない。だが心のどこかで、もう決まっていたのかもしれない。
いつものように剣の素振りを終えた頃、裏口から軽い足音が響いた。振り返ると、扉を開けてエノクが現れる。彼は珍しく神妙な面持ちだった。

「来たよ。あいつが……例の情報屋が」

「……ホド伯爵の件か」

「ああ。あの女の話を裏付けるような、なかなかに黒い内容だった」

エノクが椅子に腰かけ、革の水筒を机の上に置いた。そこに座るのは何日ぶりだったか。俺は刃を拭き、鞘に収める。

「話してくれ」

「……ああ、順に話す」

エノクは息をひとつ整えてから語り出した。
ホド伯爵が、近年ダアト周辺に異常に強い影響力を持ち始めている理由。財の流れ。ギルド内の弱い立場の者に取り入り、幹部を買収していたという話。そして、レミエル殺害に使われた手口と似た事件が過去にも数件あること──いずれも伯爵領周辺で起きていたという。
俺の拳が、無意識に膝の上で握られていた。

「……つまり、やはりホドが黒幕の可能性が高いと」

「ああ。おまけに、その全てが『証拠不十分』で消えてる。証人が死ぬか、証拠が消えるか、あるいは無理やり口を封じられるか……な」

「……」

沈黙が落ちた。

「戻ろう、アラン。ダアトに」

「……」

「お前が剣を振るう覚悟を決めるなら、俺も腹を括る」

その言葉は、優しさでもあり、決意でもあった。
俺はゆっくりと立ち上がる。

「──わかった」

それが、旅立ちの合図になった。

 * * * 

旅の準備は、ひとつずつ、丁寧に進めた。
救急セットにポーション、包帯……昔、レミエルが作ってくれた調合薬もまだ残っている。どれも埃を被っていた。彼女の死から、まだ月日はそう経っていないはずなのに、ずいぶんと前のことのように感じる。
俺はふと、その薬の小瓶を手にとった。琥珀色の液体がわずかに揺れる。蓋には小さく彼女のサイン──「Remiel.S」の刻印がある。細い文字だった。

「お前がいたら、もう少し準備も早かったかもな」

呟いて笑うが、声は虚ろに響いた。
食料をまとめ、地図を見直す。カサレアが得意げに街道を読み解いていた姿が脳裏に浮かぶ。彼女の声ははっきりと耳に残っていた。

「こっちの街道なら宿場町が多いよ、夜道を避けられる」

──もう、あの笑顔を見ることはできないのだろうか。

胸に重たい鉛が沈んでいくのを感じながら、俺は地図を巻き、筒に収めた。乾いたパンを袋に詰め、干し肉と共に背の荷にしまう。
あとは武器の手入れだ。
布をとり、油を染ませて、刀身を静かに拭く。ホド伯爵──あの男の顔が浮かんだ。
金の装飾が施された袖、いやらしく肥えた顎。媚びたような口調と、瞳の奥に潜んだ悪意。ギルドを傀儡にし、自分の欲望のために人を殺す。そんな存在を──俺は、許さない。

「……必ず」

その刃に、怒りではなく冷たい覚悟を宿らせていく。

 * * * 

隣の部屋ではエノクも静かに荷をまとめていた。
あいつの性格からして、あまり多くを語らないだろう。だが、心の中で色んな思いが渦巻いているのは、背中を見ていればわかる。
彼は俺の過去をすべて知っているわけじゃない。レミエルやカサレアのことも、断片しか知らない。だが、友を貶めた伯爵のことだけは、明確に「許せない」と思っている。それだけで十分だった。
俺たちは、言葉を交わさずに旅の支度を進めた。
水筒に水を満たし、鍋や食器を袋に詰め、最後に肩掛けのマントを鞄にかける。馬車を雇う手配はエノクが既に済ませていた。

「情報屋には更なる調査を依頼した。奴は動ける」

エノクの低い声が背中から響く。

「礼を言う」

俺は振り返り、エノクと視線を交わした。言葉がなくても、その目は真っ直ぐだった。 

 * * * 

その日の午後。
俺たちは小さな門を抜け、北東へと続く街道に足を踏み入れた。
空はどこまでも高く、風は秋の匂いを帯びていた。
町を出る最後の瞬間、ふと振り返る。石畳と古びた屋根の家々。その中に、思い出がいくつも眠っている。
レミエルの最後の笑顔。カサレアが魔法の練習をしていた広場。ベンの大きな背中。すべてが遠ざかっていく。

「アラン」

エノクの声に、俺は前を向き直る。

「行こう」

「ああ──ダアトへ」

 

ホド伯爵を討つために。
そして、過去と向き合うために。
俺たちの足は、静かに、だが力強く道を踏みしめていった。
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