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歩・三十五「潜」
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久しぶりのダアトの街は、変わらぬようで、どこか冷たく見えた。
石畳の門をくぐった瞬間、胸の奥が微かに震えた。あの時、レミエルと一緒に歩いた広場。カサレアが魔導具を手に嬉々としていた露店。すべての景色が記憶を刺激する。だが、今は振り返らない。今はまだ、過去に囚われる時ではない。
人気の少ない時間帯を選んで街に入った。正午を過ぎたばかりで、広場も露店もそれほど混み合ってはいない。だが、あまりに目立つのは良くない。俺はマントのフードを深く被り、足早に目的の宿へと向かった。
* * *
その宿は、かつての常宿。今では数少ない、俺を歓迎してくれる場所だった。
石造りの古びた建物。重たい木の扉をくぐると、いつもと変わらぬ無骨な親父がカウンターに立っていた。彼の目が俺を見て、ほんの一瞬見開かれる。
「……よう、帰ってきたか」
「親父。部屋、空いてるか?」
「ああ、ある。誰にも言わねえよ。お前さんがここに泊まってるなんてな」
無口だが、信頼できる男だった。俺は小さく頷き、数枚の銀貨を渡して二階の奥の部屋へと向かった。
窓際の木製ベッド。小さな机と椅子。そして何より、誰にも干渉されない静けさ。
鞄を降ろし、床に腰を下ろす。
──アギ、エリファス。
二人の顔が脳裏に浮かぶ。
アギ令嬢は、今どこにいるのか。無事なのか。ホド伯爵に目をつけられていたはずだ。エリファスは……表立って動けば間違いなく危険が及ぶだろう。
だが今、動くのはまだ早い。
エノクが、動いている。
* * *
一方その頃、エノクは旧市街の裏通りにいた。
すでに顔なじみの情報屋と合流し、わずか数分の会話を交わしただけで、ひとつの包みを受け取る。中身は小さな巻物。封蝋には見覚えのある紋章──ホド伯爵家の紋。
それを懐に仕舞うと、彼は無言で立ち去った。
* * *
俺は部屋で持ち物を確認し、包帯や薬瓶の残量を数えていた。ポーションは残り三本。もう少し補充しておくべきだろう。
それから、街の道具屋に立ち寄り、目立たぬよう簡素な装いのまま、ナイフの替え刃と火打石、簡易の干し肉などをいくつか購入した。
気づけば日は傾きかけていた。
「少し、外の空気を吸っておくか」
俺はそう呟いて、剣を隠すようにして腰に差し、宿の裏手からそっと外に出た。
向かうのは、ダアトの北端にある静かな水辺。ここは旅人も市民もあまり訪れない。戦闘訓練にも使える、隠れた空き地でもある。
夕焼けが水面を染める頃、俺はそこでしばし、ただ風に当たっていた。
* * *
その頃──
城塞都市の西側にある館にて、ホド伯爵は静かに報告を受けていた。
「……やはり戻ってきたか、アラン・ヴィルーが」
小さく頷きながら、ワイングラスを揺らす。
その視線は遠くの闇を見据えるように鋭い。
「奴はまだこちらの裏をすべて掴んでいるわけではあるまい。ならば、焦ることはない。ひとつずつ、確実に潰せばいい」
傍らに控える老僕が、小さく問いかけた。
「次なる標的は、やはり──」
「エノクだ」
伯爵はグラスを置き、口元を歪めるように笑う。
「奴はアランの唯一の味方……仲間のような存在だろう。あの忌々しいレミエルも、カサレアも……既に手を打った」
彼はゆっくりと立ち上がり、部屋の奥に置かれた鉄の箱を開ける。
中には、黒い封筒と一枚の白紙。そして──一本の赤い針。
「バラキエルを使う」
その名を口にした瞬間、部屋の空気が凍る。
老僕がわずかに目を見開いた。
「バラキエルを……あれは制御が……」
「必要なことだ。アランの心を砕くには、奴の最も信じる者を奪うのが手っ取り早い」
封筒に赤い針を刺し、机に置いた。
すぐに、どこからともなく黒衣の男が現れる。
影のように現れ、影のように膝をついた。
「……命を」
ホド伯爵は一言だけ、呟いた。
「エノク・ヨエルを始末せよ」
* * *
俺は水辺で、ほんの短い時間だけ目を閉じた。
空気は澄んでいて、街の喧騒も届かない。ただ水音と風のさざめきだけが、心を撫でるように流れていた。
──これから先、どれだけの戦いが待っているのか。
──俺は本当に、ホド伯爵を追い詰めることができるのか。
だが迷っている暇はなかった。レミエルのためにも、カサレアのためにも──そして、今を生きる俺たちのためにも。
俺は再び立ち上がり、歩き出した。
月が昇りかけていた。街の灯りが一つ、また一つとともる中、闇の中には──確かに、別の影もまた、動き出していた。
アランの知らぬところで。
エノクの背後には、すでに「死の影」が忍び寄っていた。
石畳の門をくぐった瞬間、胸の奥が微かに震えた。あの時、レミエルと一緒に歩いた広場。カサレアが魔導具を手に嬉々としていた露店。すべての景色が記憶を刺激する。だが、今は振り返らない。今はまだ、過去に囚われる時ではない。
人気の少ない時間帯を選んで街に入った。正午を過ぎたばかりで、広場も露店もそれほど混み合ってはいない。だが、あまりに目立つのは良くない。俺はマントのフードを深く被り、足早に目的の宿へと向かった。
* * *
その宿は、かつての常宿。今では数少ない、俺を歓迎してくれる場所だった。
石造りの古びた建物。重たい木の扉をくぐると、いつもと変わらぬ無骨な親父がカウンターに立っていた。彼の目が俺を見て、ほんの一瞬見開かれる。
「……よう、帰ってきたか」
「親父。部屋、空いてるか?」
「ああ、ある。誰にも言わねえよ。お前さんがここに泊まってるなんてな」
無口だが、信頼できる男だった。俺は小さく頷き、数枚の銀貨を渡して二階の奥の部屋へと向かった。
窓際の木製ベッド。小さな机と椅子。そして何より、誰にも干渉されない静けさ。
鞄を降ろし、床に腰を下ろす。
──アギ、エリファス。
二人の顔が脳裏に浮かぶ。
アギ令嬢は、今どこにいるのか。無事なのか。ホド伯爵に目をつけられていたはずだ。エリファスは……表立って動けば間違いなく危険が及ぶだろう。
だが今、動くのはまだ早い。
エノクが、動いている。
* * *
一方その頃、エノクは旧市街の裏通りにいた。
すでに顔なじみの情報屋と合流し、わずか数分の会話を交わしただけで、ひとつの包みを受け取る。中身は小さな巻物。封蝋には見覚えのある紋章──ホド伯爵家の紋。
それを懐に仕舞うと、彼は無言で立ち去った。
* * *
俺は部屋で持ち物を確認し、包帯や薬瓶の残量を数えていた。ポーションは残り三本。もう少し補充しておくべきだろう。
それから、街の道具屋に立ち寄り、目立たぬよう簡素な装いのまま、ナイフの替え刃と火打石、簡易の干し肉などをいくつか購入した。
気づけば日は傾きかけていた。
「少し、外の空気を吸っておくか」
俺はそう呟いて、剣を隠すようにして腰に差し、宿の裏手からそっと外に出た。
向かうのは、ダアトの北端にある静かな水辺。ここは旅人も市民もあまり訪れない。戦闘訓練にも使える、隠れた空き地でもある。
夕焼けが水面を染める頃、俺はそこでしばし、ただ風に当たっていた。
* * *
その頃──
城塞都市の西側にある館にて、ホド伯爵は静かに報告を受けていた。
「……やはり戻ってきたか、アラン・ヴィルーが」
小さく頷きながら、ワイングラスを揺らす。
その視線は遠くの闇を見据えるように鋭い。
「奴はまだこちらの裏をすべて掴んでいるわけではあるまい。ならば、焦ることはない。ひとつずつ、確実に潰せばいい」
傍らに控える老僕が、小さく問いかけた。
「次なる標的は、やはり──」
「エノクだ」
伯爵はグラスを置き、口元を歪めるように笑う。
「奴はアランの唯一の味方……仲間のような存在だろう。あの忌々しいレミエルも、カサレアも……既に手を打った」
彼はゆっくりと立ち上がり、部屋の奥に置かれた鉄の箱を開ける。
中には、黒い封筒と一枚の白紙。そして──一本の赤い針。
「バラキエルを使う」
その名を口にした瞬間、部屋の空気が凍る。
老僕がわずかに目を見開いた。
「バラキエルを……あれは制御が……」
「必要なことだ。アランの心を砕くには、奴の最も信じる者を奪うのが手っ取り早い」
封筒に赤い針を刺し、机に置いた。
すぐに、どこからともなく黒衣の男が現れる。
影のように現れ、影のように膝をついた。
「……命を」
ホド伯爵は一言だけ、呟いた。
「エノク・ヨエルを始末せよ」
* * *
俺は水辺で、ほんの短い時間だけ目を閉じた。
空気は澄んでいて、街の喧騒も届かない。ただ水音と風のさざめきだけが、心を撫でるように流れていた。
──これから先、どれだけの戦いが待っているのか。
──俺は本当に、ホド伯爵を追い詰めることができるのか。
だが迷っている暇はなかった。レミエルのためにも、カサレアのためにも──そして、今を生きる俺たちのためにも。
俺は再び立ち上がり、歩き出した。
月が昇りかけていた。街の灯りが一つ、また一つとともる中、闇の中には──確かに、別の影もまた、動き出していた。
アランの知らぬところで。
エノクの背後には、すでに「死の影」が忍び寄っていた。
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