幽刀星

氷翠

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歩・三十六「幽」

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夜の街は、重たい静けさに包まれていた。
石畳に落ちる靴音も、灯に照らされる影も、どこか湿った空気に沈んでいくようだった。
懐の中には、一通の手紙。封は重く、赤い蝋で封じられ、あの家の紋が刻まれている。何が書かれているのか、俺もすべてを読みはしていない。だが、知っている。これがただの手紙ではないことを。
アランを貶めた陰が、間違いなくここに滲んでいる。
俺は手紙を包む革の袋を押さえながら、足早に屋敷街の一角へと向かう。
目的はただ一つ──アギ・エンカイ令嬢に、それを届けることだった。

門番に名乗ると、すぐに応接間へ通された。変わらぬ屋敷の調度。無駄のない装飾。だが、どこか張り詰めた空気が漂っている。
そして、彼女が現れた。

「ずいぶんと夜更けに来るのね、エノク」

軽やかな声と共に入ってきた女性。すらりとした姿、落ち着いた目元。
エリファス──アギ令嬢の従者であり、参謀のような存在。そして、俺の旧知の相手だ。

「悪いな。急ぎだったもんで」

「ふふ。あなたが来るということは……彼、戻ってきたのね?」

「ああ。今朝方、ダアトに入った。……これは、そいつから預かったものだ」

俺は懐から手紙を取り出し、卓上にそっと置いた。

「中身は、あなたが見るべきものだ。彼女にも渡してくれ。……だが、君の判断も必要になる」

エリファスは一歩近づき、そっと封に触れた。
蝋印に目を落とし、そのまま小さく息をつく。

「……了解したわ。私が責任を持って届ける」

「助かる」

それ以上の言葉はなかった。いや、必要なかった。
彼女とは、昔からそういう関係だ。言葉ではなく、意志で通じ合う距離感。
深く一礼し、俺はその場を後にした。

* * *

屋敷を離れて、今度はギルドへと向かう。
夜も更けたが、ギルドの扉はまだ開いていた。遅くまで報酬を受け取りに来る者、酒場で遅れて騒ぐ者。混沌と活気の入り混じる空間。
中へ入ると、すぐに目に入った。
あの大柄な背中。
誰よりも分厚い盾を背負い、孤独な影をまとっている男──
ベン・クラマックス。
あいつがここにいる。それだけでもう、今夜の目的の半分は達成されたようなものだった。
重い足を引きずるように近づく。

「……ベン」

声をかけると、彼は振り返る。俺の顔を見た途端、眉間に皺が寄った。

「……エノク、か。なんの用だ」

「話がある。レミエルと、カサレアのことだ」

その名に、わずかに目を見開いた彼は、言葉を挟まず椅子から立ち上がった。

「外だ」

* * *

ギルド裏の路地。獣脂の匂いと、湿った石の冷たさが残る場所。
ベンは壁に背を預け、腕を組んだまま俺を見据えていた。

「言え」

「アランがダアトに戻ってきた」

「……あいつが?」

「そうだ。だが、目立たぬようにしている。お前も知っている通り、状況は微妙だ」

「微妙? “襲撃事件”の当事者だぞ、あいつは。ホド伯爵の娘を襲ったとされて、ギルドからも追われた。……今さら何を弁明しようってんだ」

「誤解だ。あの件には裏がある。アランは手を出していない」

「言い訳だ」

ベンの声が低く唸る。

「それでも──レミエルは信じた。カサレアも、疑いながらもついていった。……そして二人とも──死んだ」

その言葉に、ベンの体がびくりと揺れた。

「レミエルが……死んだ?」

「殺された。刺客に。アランの目の前で」

「……」

「カサレアも、襲われた。助けに入ったのは、俺だ。だが──間に合わなかった」

「……守れなかったのか」

「そうだ。俺もアランも、あの時のことは、胸に残ってる」

ベンはしばらく沈黙し、拳を握りしめる。

「信じたんだ、あいつを。信じてたから、何も言わず見送った。だけど……結果がこれだ」

「……」

「その上で、今さら“実は伯爵の罠だった”だと? 手紙があるだと?」

「実際に手に入れた。伯爵家の封印がある。金の流れも記されている。……あんたが信じないのも分かる。だが、俺はその手紙を、この街の者に渡してきた。あの屋敷に仕える──」

「侍女にでも渡してきたってのか」

ベンが切り返すように言った。

「そんなもの、どうとでも細工できる。……都合よく、証拠を見せつけられて、はいそうですかと納得できるわけがない」

怒気は、今にも弾けそうだった。

「アギを襲ったのが罠だった? 信じてついて行った仲間が死んだ? それでも、あいつは何も言わずに、ただ去ったんだ。……俺たちに何も告げずにな」

「言えなかったんだ。巻き込むのを恐れた。だから──」

「違うな」

ベンの目が鋭くなる。

「あいつは、最初から何も守れてない。疑いをかけられ、黙って逃げた。ついていった者を守れず、今さら言い訳だけを重ねて──何が残った?」

ベンの手が壁に打ちつけられた。石が少し砕け、音が闇に響く。

「俺は、許さねぇ。信じてたからこそ、もう許せねぇんだ」

静かに背を向ける。

「帰れ。次に来たら、敵として迎える」

その言葉が、壁のように俺の前に立ちふさがった。

* * *

ギルドを離れ、人気のない路地を歩く。
夜の風は冷たく、ただ静かだった。
胸に残る重さ。伝えたはずの言葉が、届かない虚しさ。

──それでも、俺は伝えなければならなかった。

アランは、今もこの街に生きている。
彼の過去も、怒りも、喪失も、全部背負って、前に進もうとしている。
ふと、背後にかすかな気配を感じた。
風ではない。獣でもない。
呼吸すら感じさせない、薄い影のような気配。

──誰かが、こちらを見ている。

尾行か、あるいは……殺意。
振り返ることなく、俺は足音だけを静かに速めた。
まだ姿は見えない。
けれど、この静かな闇の中で──確かに“何か”が、こちらを狙っている。
名は知らない。
だが、その気配は……明らかに「死」の匂いをまとっていた。
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