36 / 55
歩・三十六「幽」
しおりを挟む
夜の街は、重たい静けさに包まれていた。
石畳に落ちる靴音も、灯に照らされる影も、どこか湿った空気に沈んでいくようだった。
懐の中には、一通の手紙。封は重く、赤い蝋で封じられ、あの家の紋が刻まれている。何が書かれているのか、俺もすべてを読みはしていない。だが、知っている。これがただの手紙ではないことを。
アランを貶めた陰が、間違いなくここに滲んでいる。
俺は手紙を包む革の袋を押さえながら、足早に屋敷街の一角へと向かう。
目的はただ一つ──アギ・エンカイ令嬢に、それを届けることだった。
門番に名乗ると、すぐに応接間へ通された。変わらぬ屋敷の調度。無駄のない装飾。だが、どこか張り詰めた空気が漂っている。
そして、彼女が現れた。
「ずいぶんと夜更けに来るのね、エノク」
軽やかな声と共に入ってきた女性。すらりとした姿、落ち着いた目元。
エリファス──アギ令嬢の従者であり、参謀のような存在。そして、俺の旧知の相手だ。
「悪いな。急ぎだったもんで」
「ふふ。あなたが来るということは……彼、戻ってきたのね?」
「ああ。今朝方、ダアトに入った。……これは、そいつから預かったものだ」
俺は懐から手紙を取り出し、卓上にそっと置いた。
「中身は、あなたが見るべきものだ。彼女にも渡してくれ。……だが、君の判断も必要になる」
エリファスは一歩近づき、そっと封に触れた。
蝋印に目を落とし、そのまま小さく息をつく。
「……了解したわ。私が責任を持って届ける」
「助かる」
それ以上の言葉はなかった。いや、必要なかった。
彼女とは、昔からそういう関係だ。言葉ではなく、意志で通じ合う距離感。
深く一礼し、俺はその場を後にした。
* * *
屋敷を離れて、今度はギルドへと向かう。
夜も更けたが、ギルドの扉はまだ開いていた。遅くまで報酬を受け取りに来る者、酒場で遅れて騒ぐ者。混沌と活気の入り混じる空間。
中へ入ると、すぐに目に入った。
あの大柄な背中。
誰よりも分厚い盾を背負い、孤独な影をまとっている男──
ベン・クラマックス。
あいつがここにいる。それだけでもう、今夜の目的の半分は達成されたようなものだった。
重い足を引きずるように近づく。
「……ベン」
声をかけると、彼は振り返る。俺の顔を見た途端、眉間に皺が寄った。
「……エノク、か。なんの用だ」
「話がある。レミエルと、カサレアのことだ」
その名に、わずかに目を見開いた彼は、言葉を挟まず椅子から立ち上がった。
「外だ」
* * *
ギルド裏の路地。獣脂の匂いと、湿った石の冷たさが残る場所。
ベンは壁に背を預け、腕を組んだまま俺を見据えていた。
「言え」
「アランがダアトに戻ってきた」
「……あいつが?」
「そうだ。だが、目立たぬようにしている。お前も知っている通り、状況は微妙だ」
「微妙? “襲撃事件”の当事者だぞ、あいつは。ホド伯爵の娘を襲ったとされて、ギルドからも追われた。……今さら何を弁明しようってんだ」
「誤解だ。あの件には裏がある。アランは手を出していない」
「言い訳だ」
ベンの声が低く唸る。
「それでも──レミエルは信じた。カサレアも、疑いながらもついていった。……そして二人とも──死んだ」
その言葉に、ベンの体がびくりと揺れた。
「レミエルが……死んだ?」
「殺された。刺客に。アランの目の前で」
「……」
「カサレアも、襲われた。助けに入ったのは、俺だ。だが──間に合わなかった」
「……守れなかったのか」
「そうだ。俺もアランも、あの時のことは、胸に残ってる」
ベンはしばらく沈黙し、拳を握りしめる。
「信じたんだ、あいつを。信じてたから、何も言わず見送った。だけど……結果がこれだ」
「……」
「その上で、今さら“実は伯爵の罠だった”だと? 手紙があるだと?」
「実際に手に入れた。伯爵家の封印がある。金の流れも記されている。……あんたが信じないのも分かる。だが、俺はその手紙を、この街の者に渡してきた。あの屋敷に仕える──」
「侍女にでも渡してきたってのか」
ベンが切り返すように言った。
「そんなもの、どうとでも細工できる。……都合よく、証拠を見せつけられて、はいそうですかと納得できるわけがない」
怒気は、今にも弾けそうだった。
「アギを襲ったのが罠だった? 信じてついて行った仲間が死んだ? それでも、あいつは何も言わずに、ただ去ったんだ。……俺たちに何も告げずにな」
「言えなかったんだ。巻き込むのを恐れた。だから──」
「違うな」
ベンの目が鋭くなる。
「あいつは、最初から何も守れてない。疑いをかけられ、黙って逃げた。ついていった者を守れず、今さら言い訳だけを重ねて──何が残った?」
ベンの手が壁に打ちつけられた。石が少し砕け、音が闇に響く。
「俺は、許さねぇ。信じてたからこそ、もう許せねぇんだ」
静かに背を向ける。
「帰れ。次に来たら、敵として迎える」
その言葉が、壁のように俺の前に立ちふさがった。
* * *
ギルドを離れ、人気のない路地を歩く。
夜の風は冷たく、ただ静かだった。
胸に残る重さ。伝えたはずの言葉が、届かない虚しさ。
──それでも、俺は伝えなければならなかった。
アランは、今もこの街に生きている。
彼の過去も、怒りも、喪失も、全部背負って、前に進もうとしている。
ふと、背後にかすかな気配を感じた。
風ではない。獣でもない。
呼吸すら感じさせない、薄い影のような気配。
──誰かが、こちらを見ている。
尾行か、あるいは……殺意。
振り返ることなく、俺は足音だけを静かに速めた。
まだ姿は見えない。
けれど、この静かな闇の中で──確かに“何か”が、こちらを狙っている。
名は知らない。
だが、その気配は……明らかに「死」の匂いをまとっていた。
石畳に落ちる靴音も、灯に照らされる影も、どこか湿った空気に沈んでいくようだった。
懐の中には、一通の手紙。封は重く、赤い蝋で封じられ、あの家の紋が刻まれている。何が書かれているのか、俺もすべてを読みはしていない。だが、知っている。これがただの手紙ではないことを。
アランを貶めた陰が、間違いなくここに滲んでいる。
俺は手紙を包む革の袋を押さえながら、足早に屋敷街の一角へと向かう。
目的はただ一つ──アギ・エンカイ令嬢に、それを届けることだった。
門番に名乗ると、すぐに応接間へ通された。変わらぬ屋敷の調度。無駄のない装飾。だが、どこか張り詰めた空気が漂っている。
そして、彼女が現れた。
「ずいぶんと夜更けに来るのね、エノク」
軽やかな声と共に入ってきた女性。すらりとした姿、落ち着いた目元。
エリファス──アギ令嬢の従者であり、参謀のような存在。そして、俺の旧知の相手だ。
「悪いな。急ぎだったもんで」
「ふふ。あなたが来るということは……彼、戻ってきたのね?」
「ああ。今朝方、ダアトに入った。……これは、そいつから預かったものだ」
俺は懐から手紙を取り出し、卓上にそっと置いた。
「中身は、あなたが見るべきものだ。彼女にも渡してくれ。……だが、君の判断も必要になる」
エリファスは一歩近づき、そっと封に触れた。
蝋印に目を落とし、そのまま小さく息をつく。
「……了解したわ。私が責任を持って届ける」
「助かる」
それ以上の言葉はなかった。いや、必要なかった。
彼女とは、昔からそういう関係だ。言葉ではなく、意志で通じ合う距離感。
深く一礼し、俺はその場を後にした。
* * *
屋敷を離れて、今度はギルドへと向かう。
夜も更けたが、ギルドの扉はまだ開いていた。遅くまで報酬を受け取りに来る者、酒場で遅れて騒ぐ者。混沌と活気の入り混じる空間。
中へ入ると、すぐに目に入った。
あの大柄な背中。
誰よりも分厚い盾を背負い、孤独な影をまとっている男──
ベン・クラマックス。
あいつがここにいる。それだけでもう、今夜の目的の半分は達成されたようなものだった。
重い足を引きずるように近づく。
「……ベン」
声をかけると、彼は振り返る。俺の顔を見た途端、眉間に皺が寄った。
「……エノク、か。なんの用だ」
「話がある。レミエルと、カサレアのことだ」
その名に、わずかに目を見開いた彼は、言葉を挟まず椅子から立ち上がった。
「外だ」
* * *
ギルド裏の路地。獣脂の匂いと、湿った石の冷たさが残る場所。
ベンは壁に背を預け、腕を組んだまま俺を見据えていた。
「言え」
「アランがダアトに戻ってきた」
「……あいつが?」
「そうだ。だが、目立たぬようにしている。お前も知っている通り、状況は微妙だ」
「微妙? “襲撃事件”の当事者だぞ、あいつは。ホド伯爵の娘を襲ったとされて、ギルドからも追われた。……今さら何を弁明しようってんだ」
「誤解だ。あの件には裏がある。アランは手を出していない」
「言い訳だ」
ベンの声が低く唸る。
「それでも──レミエルは信じた。カサレアも、疑いながらもついていった。……そして二人とも──死んだ」
その言葉に、ベンの体がびくりと揺れた。
「レミエルが……死んだ?」
「殺された。刺客に。アランの目の前で」
「……」
「カサレアも、襲われた。助けに入ったのは、俺だ。だが──間に合わなかった」
「……守れなかったのか」
「そうだ。俺もアランも、あの時のことは、胸に残ってる」
ベンはしばらく沈黙し、拳を握りしめる。
「信じたんだ、あいつを。信じてたから、何も言わず見送った。だけど……結果がこれだ」
「……」
「その上で、今さら“実は伯爵の罠だった”だと? 手紙があるだと?」
「実際に手に入れた。伯爵家の封印がある。金の流れも記されている。……あんたが信じないのも分かる。だが、俺はその手紙を、この街の者に渡してきた。あの屋敷に仕える──」
「侍女にでも渡してきたってのか」
ベンが切り返すように言った。
「そんなもの、どうとでも細工できる。……都合よく、証拠を見せつけられて、はいそうですかと納得できるわけがない」
怒気は、今にも弾けそうだった。
「アギを襲ったのが罠だった? 信じてついて行った仲間が死んだ? それでも、あいつは何も言わずに、ただ去ったんだ。……俺たちに何も告げずにな」
「言えなかったんだ。巻き込むのを恐れた。だから──」
「違うな」
ベンの目が鋭くなる。
「あいつは、最初から何も守れてない。疑いをかけられ、黙って逃げた。ついていった者を守れず、今さら言い訳だけを重ねて──何が残った?」
ベンの手が壁に打ちつけられた。石が少し砕け、音が闇に響く。
「俺は、許さねぇ。信じてたからこそ、もう許せねぇんだ」
静かに背を向ける。
「帰れ。次に来たら、敵として迎える」
その言葉が、壁のように俺の前に立ちふさがった。
* * *
ギルドを離れ、人気のない路地を歩く。
夜の風は冷たく、ただ静かだった。
胸に残る重さ。伝えたはずの言葉が、届かない虚しさ。
──それでも、俺は伝えなければならなかった。
アランは、今もこの街に生きている。
彼の過去も、怒りも、喪失も、全部背負って、前に進もうとしている。
ふと、背後にかすかな気配を感じた。
風ではない。獣でもない。
呼吸すら感じさせない、薄い影のような気配。
──誰かが、こちらを見ている。
尾行か、あるいは……殺意。
振り返ることなく、俺は足音だけを静かに速めた。
まだ姿は見えない。
けれど、この静かな闇の中で──確かに“何か”が、こちらを狙っている。
名は知らない。
だが、その気配は……明らかに「死」の匂いをまとっていた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
嵌められたオッサン冒険者、Sランクモンスター(幼体)に懐かれたので、その力で復讐しようと思います
ゆさま
ファンタジー
ベテランオッサン冒険者が、美少女パーティーにオヤジ狩りの標的にされてしまった。生死の境をさまよっていたら、Sランクモンスターに懐かれて……。
懐いたモンスターが成長し、美女に擬態できるようになって迫ってきます。どうするオッサン!?
【もうダメだ!】貧乏大学生、絶望から一気に成り上がる〜もし、無属性でFランクの俺が異文明の魔道兵器を担いでダンジョンに潜ったら〜
KEINO
ファンタジー
貧乏大学生の探索者はダンジョンに潜り、全てを覆す。
~あらすじ~
世界に突如出現した異次元空間「ダンジョン」。
そこから産出される魔石は人類に無限のエネルギーをもたらし、アーティファクトは魔法の力を授けた。
しかし、その恩恵は平等ではなかった。
富と力はダンジョン利権を牛耳る企業と、「属性適性」という特別な才能を持つ「選ばれし者」たちに独占され、世界は新たな格差社会へと変貌していた。
そんな歪んだ現代日本で、及川翔は「無属性」という最底辺の烙印を押された青年だった。
彼には魔法の才能も、富も、未来への希望もない。
あるのは、両親を失った二年前のダンジョン氾濫で、原因不明の昏睡状態に陥った最愛の妹、美咲を救うという、ただ一つの願いだけだった。
妹を治すため、彼は最先端の「魔力生体学」を学ぶが、学費と治療費という冷酷な現実が彼の行く手を阻む。
希望と絶望の狭間で、翔に残された道はただ一つ――危険なダンジョンに潜り、泥臭く魔石を稼ぐこと。
英雄とも呼べるようなSランク探索者が脚光を浴びる華やかな世界とは裏腹に、翔は今日も一人、薄暗いダンジョンの奥へと足を踏み入れる。
これは、神に選ばれなかった「持たざる者」が、絶望的な現実にもがきながら、たった一つの希望を掴むために抗い、やがて世界の真実と向き合う、戦いの物語。
彼の「無属性」の力が、世界を揺るがす光となることを、彼はまだ知らない。
テンプレのダンジョン物を書いてみたくなり、手を出しました。
SF味が増してくるのは結構先の予定です。
スローペースですが、しっかりと世界観を楽しんでもらえる作品になってると思います。
良かったら読んでください!
生贄にされた少年。故郷を離れてゆるりと暮らす。
水定ゆう
ファンタジー
村の仕来りで生贄にされた少年、天月・オボロナ。魔物が蠢く危険な森で死を覚悟した天月は、三人の異形の者たちに命を救われる。
異形の者たちの弟子となった天月は、数年後故郷を離れ、魔物による被害と魔法の溢れる町でバイトをしながら冒険者活動を続けていた。
そこで待ち受けるのは数々の陰謀や危険な魔物たち。
生贄として魔物に捧げられた少年は、冒険者活動を続けながらゆるりと日常を満喫する!
※とりあえず、一時完結いたしました。
今後は、短編や別タイトルで続けていくと思いますが、今回はここまで。
その際は、ぜひ読んでいただけると幸いです。
転生したら名家の次男になりましたが、俺は汚点らしいです
NEXTブレイブ
ファンタジー
ただの人間、野上良は名家であるグリモワール家の次男に転生したが、その次男には名家の人間でありながら、汚点であるが、兄、姉、母からは愛されていたが、父親からは嫌われていた
蒼穹に溶けた約束 ―記憶を失った勇者と終焉の魔女―
usako
ファンタジー
目を覚ましたとき、名前も記憶も失っていた――。
少年は滅びゆく世界で、ただ一人の「魔女」に拾われる。
世界を救うと呼ばれた勇者は、なぜすべてを忘れたのか。
魔女が背負う「終焉の呪い」とは何か。
過去を思い出すたび、二人は哀しみの真実に近づいていく。
これは、滅びの運命に抗う二人の再生の物語。
悪徳貴族の、イメージ改善、慈善事業
ウィリアム・ブロック
ファンタジー
現代日本から死亡したラスティは貴族に転生する。しかしその世界では貴族はあんまり良く思われていなかった。なのでノブリス・オブリージュを徹底させて、貴族のイメージ改善を目指すのだった。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる