幽刀星

氷翠

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歩・三十七「闇」

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夜風が冷たかった。
ベンと別れたあと、石畳の上を一人歩く。
ギルドの裏路地を抜けて、アランの待つ宿へ向かう道。
灯火は遠く、街の喧騒は静まり、ただ足音だけが空気を裂いていた。
ベンの怒りは、想定の範囲だった。
信じていた分だけ、裏切られたと思う気持ちが強くなるのは当然だ。
だが、あれでよかった。怒ってくれていい。疑ってくれていい。
ただ、忘れないでいてくれれば──真実が届く時は必ず来る。
俺はアランを信じている。
あの男の剣は、決して後ろを斬ることはない。

「……戻るか」

宿まで歩いて十五分。
街の北東側、古い木造の宿。アランが目立たぬように選んだ場所だ。
今ごろは、荷物の整理でもしているかもしれない。
だが、歩を進めた次の瞬間、空気が変わった。

──風が止んだ。

いや、“止められた”とでもいうべきか。
それまでゆるやかに吹いていた夜風が、まるで何かに押し殺されるように消えた。
背筋にひやりとしたものが走る。

……殺気。

気配を追って、裏通りへ足を向ける。
広い通りを避けて、あえて静かな路地へ入ったのは、俺の直感だった。
身をひそめるように進み、背中の剣に手をかける。

──いた。

壁と壁の狭間、瓦礫と影の隙間から、わずかに揺れる“それ”が見えた。
人間の形をしている。だが、気配が異常だ。
存在を隠しているというよりも、“空間と同化している”ようだった。
呼吸の音も、衣擦れもない。
まるで夜そのものが形を成して動いているかのようだ。

「……バラキエル、だな」

名を呼んだ。
返事はない。
だが、確信があった。
アランから聞いた、影の暗殺者。
レミエルを殺し、アミーを“消した”者。
ホド伯爵の手が届く最奥の刃──
まさか、こんなに早く自分の前に現れるとは。
バラキエルは一言も発しないまま、ふわりと一歩、影から滑り出た。
その姿は黒布に包まれ、顔すらも識別できない。
ただ、その手には短く鋭いナイフが握られている。
気配が、一気に収束する。

──来る。

剣を抜こうとした瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
空気が裂ける。
風が戻った──と思った時には、すでに遅かった。
視界の右端で何かが閃いた。
避ける間もなく、鋭い痛みが脇腹を走る。

「──ぐ……ッ」

数歩、後ろへ跳んで距離を取る。
左手で傷口を押さえた。浅い。だが──
痺れが早い。
指がうまく動かない。
脈が速まる。
心臓が暴れるように脈打つ。
毒──即効性のものだ。

「……毒……か……」

顔を上げると、バラキエルは数歩先に立っていた。
微動だにせず、ただこちらを見ている。
眼差しに感情はない。
それは“観察”でもなければ、“憎しみ”でもなかった。

──執行。

そう呼ぶのが最も近い。
任務を遂行する道具としての、冷たい存在。
俺は剣を振るうべきか、と思ったが──膝が崩れた。
意識が遠のく。
毒の拡がりが異常に速い。

「くそ……ったれ……」

声がかすれる。
これが、あの男の“やり口”か。
目を凝らしても、彼の目元すら見えない。
ただ、すべてが霞んでいく。

「……アランには……手を出させない……」

崩れかけた体を支えようとするが、腕に力が入らない。
目の前の影は、一歩も動いていない。
俺の言葉に何も返さず、ただ静かにこちらを見ていた。

「……最後まで……俺の命で、引きつけてやるよ……」

口の端から血が垂れた。
だがもう、声は届いていなかった。
視界の中心が黒く塗り潰されていく。
全身が鉛のように重くなり、地面が背中を吸い込む。
空も街も、光もすべてが遠くなる。
それでも俺は、心の中で名を呼び続けた。
──アラン。

* * *

その姿が消えたのは、風が再び吹きはじめた瞬間だった。
足音も残さず、気配も残さず、ただ夜に溶けるようにして。
その場には、倒れ伏す男の遺体と、冷え切った空気だけが残された。
証言者はいない。目撃者もいない。
ただ一人の男の命が、音もなく奪われた。
その死は、まだ誰にも知られていない。
けれどそれは、確かに物語を変える死だった。
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