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歩・三十八「冥」
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朝という実感はなかった。
曖昧な薄光がカーテンの隙間から滲んでいただけで、まだ意識は眠りの深みに指先を残していた。
そんな折――宿の主人が、扉を叩く間もなく駆け込んできた。
「アラン……っ、大変な……っ!」
声が震えていた。
ただ事ではない気配に、胸が跳ねる。
まだ重い頭を振り払いながら、俺は半身を起こした。
「どうした」
主人は言いにくさを隠しもせず、目を伏せた。
そして、絞り出すように告げた。
「……エノクが……殺されたと……!」
瞬間、世界が音を失った。
何かを考えるより先に、胸の奥が焼ける音がした。
息が止まった。
脳のどこかが真っ白になるのを、ただ見ているしかなかった。
「……は?」
問い返したつもりだったが、声になっていた自信はない。
主人は、苦しげに顔を歪めて続けた。
「さっき、ギルドのほうから急ぎの知らせがありまして……宿に戻った形跡がないと、仲間の方が……その……」
言葉は途切れ途切れだった。
聞き取れなかった部分もあったが、理解には十分だった。
――エノクは死んだ。
その事実だけが、喉の奥に刺さったまま抜けない。
胸の内側が、怒りで膨張した。
自分でも制御できないほどの黒い衝動が、内臓の裏側をかきむしる。
気づけば俺は、目の前の椅子を思い切り蹴り飛ばしていた。
椅子は壁に叩きつけられ、木片が散った。
机を両手で払い、上に載っていた水差しや食器を床に叩き落とす。
砕ける音が連続して響き、外の廊下から何人もの足音が聞こえた。
宿の娘が恐る恐る顔を覗かせたが、その表情に怯えが滲んでいるのを見て、俺はようやく自分の荒れ様に気づいた。
「……すまない」
絞り出すと、娘は小さくうなずいて引き下がった。
怒りは消えなかったが、暴れることで余計に何も見えなくなるのは分かっていた。
呼吸が荒く、拳は痛みで痺れ、胸は千切れそうに痛む。
だが――
今、俺がすべきことは怒りに身を任せることじゃない。
エノクが、最後に何を見たのか。
誰が、どんな理由で奴を殺したのか。
そして――俺はどう動くべきなのか。
答えは一つずつ拾っていくしかなかった。
そのために、まずは冷静にならなければならない。
頭が熱に浮かされ、正しい判断ができなくなるのが一番の損失だ。
壁に背を預け、ゆっくりと目を閉じた。
深く、長く、息を吐く。
思考を沈めていく中で、ようやく言葉を整えられる程度には意識が戻ってきた。
――あいつが死ぬなんて。
今も信じられない。
昨日の姿がまだ鮮明に残っているというのに。
考えるほど胸の奥底が痛み、怒りの芯がさらに熱を帯びる。
しかし、その痛みすべてが俺の足を前に押し出していた。
※
昼を過ぎた頃、宿に来客があった。
主人が小走りで階段を上がり、重い表情のまま俺の扉を叩いた。
「アラン、来客だ……エンカイ子爵様が、お前を訪ねて来ている」
エンカイ子爵――
その名を聞いた瞬間、胸の奥で別種の緊張が広がった。
階下へ降りると、客間の中央に子爵が立っていた。
その背後には数名の護衛が控えている。
「アラン……会えてよかった」
子爵は真剣な面持ちで言った。
声に、焦りと痛みが混じっている。
「話を聞いた。……エノクが殺されたと」
「……はい」
言葉は喉でつかえたが、何とか返した。
「ダアトに戻っていると部下から報告を受け、急ぎ向かった。お前が彼と深い関係にあることは知っている。無事に、話せる状態でいてくれてよかった」
しばらく、子爵と話し込んだ。
子爵は各地の動き、ホド伯爵の最近の不穏さ、エノクが持っていたとされる情報の一部を口にした。
だが、俺には子爵には言えない情報もある。
エノクが抱えていた秘密――これはエノクが背負い、俺にだけ託したもの。
それを軽々しく他人に渡すわけにはいかない。
だから、俺は慎重に言葉を選んだ。
「……あまり、お伝えできないこともあります。ですが、エノクのことを放っておくつもりはありません」
子爵も理解していたのか、それ以上突っ込まずにうなずいてくれた。
そして俺は、子爵の前に深く頭を下げた。
「お願いがあります。……エノクの遺体を……見せてください」
「……無論だ。だが、人目が多い。お前だと気づかれれば騒ぎになる」
子爵は一考し、側近に目配せした。
「フードを被れ。顔を隠せば問題ない。
私が同行する。今から向かうぞ」
俺はフードを深く被り、影に顔を沈めた。
※
遺体が安置されている場所は、ダアト南側の一角にある施設だった。
簡易ながら清潔に保たれた部屋で、周囲には衛兵が数名。
それ以外にも、知らせを聞いて集まった冒険者や町の者が数人いる。
そのざわめきは重く、湿っていた。
空気が生温く、胸の奥でざわりと嫌な気配が揺れた。
子爵、側近、そしてフードを被った俺の三人は、群衆の間を縫うように進んだ。
周囲がひそひそと声を上げる。
「あれ、子爵じゃないか」
「護衛がいる……何の用だ?」
「真ん中のフードの奴は……誰だ?」
気配を読まれるわけにはいかない。
俺は視線を下に落とし、歩幅を一定に保った。
そして――遺体の周りに近づいた、まさにその時だった。
人垣の後ろに、ひときわ大きな背中が見えた。
……ベンだ。
その姿を認識した瞬間、喉が固まった。
エノクと同じパーティだった男。
レミエルとも、カサレアとも深く関わった仲間。
だが今、彼の胸の内がどんな状態かは想像もつかない。
こちらの存在に気づくなよ――そう祈った。
だが、祈りはあっさり踏みにじられた。
群衆のざわめきに紛れ、俺の足音が彼の耳に届いたのだろう。
ベンの太い肩が、ゆっくりとこちらを振り向く。
その目は、獣の怒りそのものだった。
次の瞬間――
「……アラン……」
呻くような声が漏れた。
そしてその一瞬後には、彼は俺に向かって飛びかかってきた。
距離のあるはずの場所から、一息で詰め寄られた。
分厚い腕が俺の胸ぐらを掴む。
「お前……っ、どの面下げてエノクの前に来やがった」
群衆が一斉に声を上げる。
「待て! ベンやめろ!」
「子爵の前だぞ!」
「何してる」
衛兵が数名動き、側近も声を荒げた。
だがベンは止まらない。
その腕力は岩のように重く、怒りの熱で震えていた。
俺は、ベンの目を真正面から見返した。
その瞳の奥には、憎しみと、悲しみと、裏切られたと信じて疑わない絶望が入り混じっていた。
そして――
その全てが、俺の胸に突き刺さった。
エノクの死に続き、また大切なものが壊れていく音がした。
曖昧な薄光がカーテンの隙間から滲んでいただけで、まだ意識は眠りの深みに指先を残していた。
そんな折――宿の主人が、扉を叩く間もなく駆け込んできた。
「アラン……っ、大変な……っ!」
声が震えていた。
ただ事ではない気配に、胸が跳ねる。
まだ重い頭を振り払いながら、俺は半身を起こした。
「どうした」
主人は言いにくさを隠しもせず、目を伏せた。
そして、絞り出すように告げた。
「……エノクが……殺されたと……!」
瞬間、世界が音を失った。
何かを考えるより先に、胸の奥が焼ける音がした。
息が止まった。
脳のどこかが真っ白になるのを、ただ見ているしかなかった。
「……は?」
問い返したつもりだったが、声になっていた自信はない。
主人は、苦しげに顔を歪めて続けた。
「さっき、ギルドのほうから急ぎの知らせがありまして……宿に戻った形跡がないと、仲間の方が……その……」
言葉は途切れ途切れだった。
聞き取れなかった部分もあったが、理解には十分だった。
――エノクは死んだ。
その事実だけが、喉の奥に刺さったまま抜けない。
胸の内側が、怒りで膨張した。
自分でも制御できないほどの黒い衝動が、内臓の裏側をかきむしる。
気づけば俺は、目の前の椅子を思い切り蹴り飛ばしていた。
椅子は壁に叩きつけられ、木片が散った。
机を両手で払い、上に載っていた水差しや食器を床に叩き落とす。
砕ける音が連続して響き、外の廊下から何人もの足音が聞こえた。
宿の娘が恐る恐る顔を覗かせたが、その表情に怯えが滲んでいるのを見て、俺はようやく自分の荒れ様に気づいた。
「……すまない」
絞り出すと、娘は小さくうなずいて引き下がった。
怒りは消えなかったが、暴れることで余計に何も見えなくなるのは分かっていた。
呼吸が荒く、拳は痛みで痺れ、胸は千切れそうに痛む。
だが――
今、俺がすべきことは怒りに身を任せることじゃない。
エノクが、最後に何を見たのか。
誰が、どんな理由で奴を殺したのか。
そして――俺はどう動くべきなのか。
答えは一つずつ拾っていくしかなかった。
そのために、まずは冷静にならなければならない。
頭が熱に浮かされ、正しい判断ができなくなるのが一番の損失だ。
壁に背を預け、ゆっくりと目を閉じた。
深く、長く、息を吐く。
思考を沈めていく中で、ようやく言葉を整えられる程度には意識が戻ってきた。
――あいつが死ぬなんて。
今も信じられない。
昨日の姿がまだ鮮明に残っているというのに。
考えるほど胸の奥底が痛み、怒りの芯がさらに熱を帯びる。
しかし、その痛みすべてが俺の足を前に押し出していた。
※
昼を過ぎた頃、宿に来客があった。
主人が小走りで階段を上がり、重い表情のまま俺の扉を叩いた。
「アラン、来客だ……エンカイ子爵様が、お前を訪ねて来ている」
エンカイ子爵――
その名を聞いた瞬間、胸の奥で別種の緊張が広がった。
階下へ降りると、客間の中央に子爵が立っていた。
その背後には数名の護衛が控えている。
「アラン……会えてよかった」
子爵は真剣な面持ちで言った。
声に、焦りと痛みが混じっている。
「話を聞いた。……エノクが殺されたと」
「……はい」
言葉は喉でつかえたが、何とか返した。
「ダアトに戻っていると部下から報告を受け、急ぎ向かった。お前が彼と深い関係にあることは知っている。無事に、話せる状態でいてくれてよかった」
しばらく、子爵と話し込んだ。
子爵は各地の動き、ホド伯爵の最近の不穏さ、エノクが持っていたとされる情報の一部を口にした。
だが、俺には子爵には言えない情報もある。
エノクが抱えていた秘密――これはエノクが背負い、俺にだけ託したもの。
それを軽々しく他人に渡すわけにはいかない。
だから、俺は慎重に言葉を選んだ。
「……あまり、お伝えできないこともあります。ですが、エノクのことを放っておくつもりはありません」
子爵も理解していたのか、それ以上突っ込まずにうなずいてくれた。
そして俺は、子爵の前に深く頭を下げた。
「お願いがあります。……エノクの遺体を……見せてください」
「……無論だ。だが、人目が多い。お前だと気づかれれば騒ぎになる」
子爵は一考し、側近に目配せした。
「フードを被れ。顔を隠せば問題ない。
私が同行する。今から向かうぞ」
俺はフードを深く被り、影に顔を沈めた。
※
遺体が安置されている場所は、ダアト南側の一角にある施設だった。
簡易ながら清潔に保たれた部屋で、周囲には衛兵が数名。
それ以外にも、知らせを聞いて集まった冒険者や町の者が数人いる。
そのざわめきは重く、湿っていた。
空気が生温く、胸の奥でざわりと嫌な気配が揺れた。
子爵、側近、そしてフードを被った俺の三人は、群衆の間を縫うように進んだ。
周囲がひそひそと声を上げる。
「あれ、子爵じゃないか」
「護衛がいる……何の用だ?」
「真ん中のフードの奴は……誰だ?」
気配を読まれるわけにはいかない。
俺は視線を下に落とし、歩幅を一定に保った。
そして――遺体の周りに近づいた、まさにその時だった。
人垣の後ろに、ひときわ大きな背中が見えた。
……ベンだ。
その姿を認識した瞬間、喉が固まった。
エノクと同じパーティだった男。
レミエルとも、カサレアとも深く関わった仲間。
だが今、彼の胸の内がどんな状態かは想像もつかない。
こちらの存在に気づくなよ――そう祈った。
だが、祈りはあっさり踏みにじられた。
群衆のざわめきに紛れ、俺の足音が彼の耳に届いたのだろう。
ベンの太い肩が、ゆっくりとこちらを振り向く。
その目は、獣の怒りそのものだった。
次の瞬間――
「……アラン……」
呻くような声が漏れた。
そしてその一瞬後には、彼は俺に向かって飛びかかってきた。
距離のあるはずの場所から、一息で詰め寄られた。
分厚い腕が俺の胸ぐらを掴む。
「お前……っ、どの面下げてエノクの前に来やがった」
群衆が一斉に声を上げる。
「待て! ベンやめろ!」
「子爵の前だぞ!」
「何してる」
衛兵が数名動き、側近も声を荒げた。
だがベンは止まらない。
その腕力は岩のように重く、怒りの熱で震えていた。
俺は、ベンの目を真正面から見返した。
その瞳の奥には、憎しみと、悲しみと、裏切られたと信じて疑わない絶望が入り混じっていた。
そして――
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