幽刀星

氷翠

文字の大きさ
38 / 55

歩・三十八「冥」

しおりを挟む
朝という実感はなかった。
曖昧な薄光がカーテンの隙間から滲んでいただけで、まだ意識は眠りの深みに指先を残していた。
そんな折――宿の主人が、扉を叩く間もなく駆け込んできた。

「アラン……っ、大変な……っ!」

声が震えていた。
ただ事ではない気配に、胸が跳ねる。
まだ重い頭を振り払いながら、俺は半身を起こした。

「どうした」

主人は言いにくさを隠しもせず、目を伏せた。
そして、絞り出すように告げた。

「……エノクが……殺されたと……!」

瞬間、世界が音を失った。
何かを考えるより先に、胸の奥が焼ける音がした。
息が止まった。
脳のどこかが真っ白になるのを、ただ見ているしかなかった。

「……は?」

問い返したつもりだったが、声になっていた自信はない。
主人は、苦しげに顔を歪めて続けた。

「さっき、ギルドのほうから急ぎの知らせがありまして……宿に戻った形跡がないと、仲間の方が……その……」

言葉は途切れ途切れだった。
聞き取れなかった部分もあったが、理解には十分だった。

――エノクは死んだ。

その事実だけが、喉の奥に刺さったまま抜けない。
胸の内側が、怒りで膨張した。
自分でも制御できないほどの黒い衝動が、内臓の裏側をかきむしる。
気づけば俺は、目の前の椅子を思い切り蹴り飛ばしていた。
椅子は壁に叩きつけられ、木片が散った。
机を両手で払い、上に載っていた水差しや食器を床に叩き落とす。
砕ける音が連続して響き、外の廊下から何人もの足音が聞こえた。
宿の娘が恐る恐る顔を覗かせたが、その表情に怯えが滲んでいるのを見て、俺はようやく自分の荒れ様に気づいた。

「……すまない」

絞り出すと、娘は小さくうなずいて引き下がった。
怒りは消えなかったが、暴れることで余計に何も見えなくなるのは分かっていた。
呼吸が荒く、拳は痛みで痺れ、胸は千切れそうに痛む。

だが――

今、俺がすべきことは怒りに身を任せることじゃない。
エノクが、最後に何を見たのか。
誰が、どんな理由で奴を殺したのか。
そして――俺はどう動くべきなのか。
答えは一つずつ拾っていくしかなかった。
そのために、まずは冷静にならなければならない。
頭が熱に浮かされ、正しい判断ができなくなるのが一番の損失だ。
壁に背を預け、ゆっくりと目を閉じた。
深く、長く、息を吐く。
思考を沈めていく中で、ようやく言葉を整えられる程度には意識が戻ってきた。

――あいつが死ぬなんて。

今も信じられない。
昨日の姿がまだ鮮明に残っているというのに。
考えるほど胸の奥底が痛み、怒りの芯がさらに熱を帯びる。
しかし、その痛みすべてが俺の足を前に押し出していた。



昼を過ぎた頃、宿に来客があった。
主人が小走りで階段を上がり、重い表情のまま俺の扉を叩いた。

「アラン、来客だ……エンカイ子爵様が、お前を訪ねて来ている」

エンカイ子爵――
その名を聞いた瞬間、胸の奥で別種の緊張が広がった。
階下へ降りると、客間の中央に子爵が立っていた。
その背後には数名の護衛が控えている。

「アラン……会えてよかった」

子爵は真剣な面持ちで言った。
声に、焦りと痛みが混じっている。

「話を聞いた。……エノクが殺されたと」

「……はい」

言葉は喉でつかえたが、何とか返した。

「ダアトに戻っていると部下から報告を受け、急ぎ向かった。お前が彼と深い関係にあることは知っている。無事に、話せる状態でいてくれてよかった」

しばらく、子爵と話し込んだ。
子爵は各地の動き、ホド伯爵の最近の不穏さ、エノクが持っていたとされる情報の一部を口にした。
だが、俺には子爵には言えない情報もある。
エノクが抱えていた秘密――これはエノクが背負い、俺にだけ託したもの。
それを軽々しく他人に渡すわけにはいかない。
だから、俺は慎重に言葉を選んだ。

「……あまり、お伝えできないこともあります。ですが、エノクのことを放っておくつもりはありません」

子爵も理解していたのか、それ以上突っ込まずにうなずいてくれた。
そして俺は、子爵の前に深く頭を下げた。

「お願いがあります。……エノクの遺体を……見せてください」

「……無論だ。だが、人目が多い。お前だと気づかれれば騒ぎになる」

子爵は一考し、側近に目配せした。

「フードを被れ。顔を隠せば問題ない。

私が同行する。今から向かうぞ」
俺はフードを深く被り、影に顔を沈めた。



遺体が安置されている場所は、ダアト南側の一角にある施設だった。
簡易ながら清潔に保たれた部屋で、周囲には衛兵が数名。
それ以外にも、知らせを聞いて集まった冒険者や町の者が数人いる。
そのざわめきは重く、湿っていた。
空気が生温く、胸の奥でざわりと嫌な気配が揺れた。
子爵、側近、そしてフードを被った俺の三人は、群衆の間を縫うように進んだ。
周囲がひそひそと声を上げる。

「あれ、子爵じゃないか」

「護衛がいる……何の用だ?」

「真ん中のフードの奴は……誰だ?」

気配を読まれるわけにはいかない。
俺は視線を下に落とし、歩幅を一定に保った。
そして――遺体の周りに近づいた、まさにその時だった。
人垣の後ろに、ひときわ大きな背中が見えた。

……ベンだ。

その姿を認識した瞬間、喉が固まった。
エノクと同じパーティだった男。
レミエルとも、カサレアとも深く関わった仲間。
だが今、彼の胸の内がどんな状態かは想像もつかない。
こちらの存在に気づくなよ――そう祈った。
だが、祈りはあっさり踏みにじられた。
群衆のざわめきに紛れ、俺の足音が彼の耳に届いたのだろう。
ベンの太い肩が、ゆっくりとこちらを振り向く。
その目は、獣の怒りそのものだった。
次の瞬間――

「……アラン……」

呻くような声が漏れた。
そしてその一瞬後には、彼は俺に向かって飛びかかってきた。
距離のあるはずの場所から、一息で詰め寄られた。
分厚い腕が俺の胸ぐらを掴む。

「お前……っ、どの面下げてエノクの前に来やがった」

群衆が一斉に声を上げる。

「待て! ベンやめろ!」

「子爵の前だぞ!」

「何してる」

衛兵が数名動き、側近も声を荒げた。
だがベンは止まらない。
その腕力は岩のように重く、怒りの熱で震えていた。
俺は、ベンの目を真正面から見返した。
その瞳の奥には、憎しみと、悲しみと、裏切られたと信じて疑わない絶望が入り混じっていた。

そして――

その全てが、俺の胸に突き刺さった。
エノクの死に続き、また大切なものが壊れていく音がした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

嵌められたオッサン冒険者、Sランクモンスター(幼体)に懐かれたので、その力で復讐しようと思います

ゆさま
ファンタジー
ベテランオッサン冒険者が、美少女パーティーにオヤジ狩りの標的にされてしまった。生死の境をさまよっていたら、Sランクモンスターに懐かれて……。 懐いたモンスターが成長し、美女に擬態できるようになって迫ってきます。どうするオッサン!?

【もうダメだ!】貧乏大学生、絶望から一気に成り上がる〜もし、無属性でFランクの俺が異文明の魔道兵器を担いでダンジョンに潜ったら〜

KEINO
ファンタジー
貧乏大学生の探索者はダンジョンに潜り、全てを覆す。 ~あらすじ~ 世界に突如出現した異次元空間「ダンジョン」。 そこから産出される魔石は人類に無限のエネルギーをもたらし、アーティファクトは魔法の力を授けた。 しかし、その恩恵は平等ではなかった。 富と力はダンジョン利権を牛耳る企業と、「属性適性」という特別な才能を持つ「選ばれし者」たちに独占され、世界は新たな格差社会へと変貌していた。 そんな歪んだ現代日本で、及川翔は「無属性」という最底辺の烙印を押された青年だった。 彼には魔法の才能も、富も、未来への希望もない。 あるのは、両親を失った二年前のダンジョン氾濫で、原因不明の昏睡状態に陥った最愛の妹、美咲を救うという、ただ一つの願いだけだった。 妹を治すため、彼は最先端の「魔力生体学」を学ぶが、学費と治療費という冷酷な現実が彼の行く手を阻む。 希望と絶望の狭間で、翔に残された道はただ一つ――危険なダンジョンに潜り、泥臭く魔石を稼ぐこと。 英雄とも呼べるようなSランク探索者が脚光を浴びる華やかな世界とは裏腹に、翔は今日も一人、薄暗いダンジョンの奥へと足を踏み入れる。 これは、神に選ばれなかった「持たざる者」が、絶望的な現実にもがきながら、たった一つの希望を掴むために抗い、やがて世界の真実と向き合う、戦いの物語。 彼の「無属性」の力が、世界を揺るがす光となることを、彼はまだ知らない。 テンプレのダンジョン物を書いてみたくなり、手を出しました。 SF味が増してくるのは結構先の予定です。 スローペースですが、しっかりと世界観を楽しんでもらえる作品になってると思います。 良かったら読んでください!

生贄にされた少年。故郷を離れてゆるりと暮らす。

水定ゆう
ファンタジー
 村の仕来りで生贄にされた少年、天月・オボロナ。魔物が蠢く危険な森で死を覚悟した天月は、三人の異形の者たちに命を救われる。  異形の者たちの弟子となった天月は、数年後故郷を離れ、魔物による被害と魔法の溢れる町でバイトをしながら冒険者活動を続けていた。  そこで待ち受けるのは数々の陰謀や危険な魔物たち。  生贄として魔物に捧げられた少年は、冒険者活動を続けながらゆるりと日常を満喫する!  ※とりあえず、一時完結いたしました。  今後は、短編や別タイトルで続けていくと思いますが、今回はここまで。  その際は、ぜひ読んでいただけると幸いです。

転生したら名家の次男になりましたが、俺は汚点らしいです

NEXTブレイブ
ファンタジー
ただの人間、野上良は名家であるグリモワール家の次男に転生したが、その次男には名家の人間でありながら、汚点であるが、兄、姉、母からは愛されていたが、父親からは嫌われていた

蒼穹に溶けた約束 ―記憶を失った勇者と終焉の魔女―

usako
ファンタジー
目を覚ましたとき、名前も記憶も失っていた――。 少年は滅びゆく世界で、ただ一人の「魔女」に拾われる。 世界を救うと呼ばれた勇者は、なぜすべてを忘れたのか。 魔女が背負う「終焉の呪い」とは何か。 過去を思い出すたび、二人は哀しみの真実に近づいていく。 これは、滅びの運命に抗う二人の再生の物語。

悪徳貴族の、イメージ改善、慈善事業

ウィリアム・ブロック
ファンタジー
現代日本から死亡したラスティは貴族に転生する。しかしその世界では貴族はあんまり良く思われていなかった。なのでノブリス・オブリージュを徹底させて、貴族のイメージ改善を目指すのだった。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

処理中です...