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歩・三十九「裂」
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ベンの気配が変わったのに気付いたのは、顔を見る前だった。
エンカイ子爵の屋敷、その一室。
客間として与えられた部屋の空気は、薄く冷えていた。
窓は厚い布で半分ほど覆われ、外の光が線のように床を切り取っている。
扉の向こうに、足音が近づく。
重い足取り。踏みしめるたび、床板がわずかに軋むような感覚が伝わってきた。
ベンだ、とすぐに分かった。
いつもの、どこか朗らかな重さではない。
鎧ごと突っ込んでくるような、むき出しの殺気を含んだ足音だった。
「入れ」
自分でも驚くくらい、声は低く落ち着いていた。
内側はまったく静かではないのに、外に出る音だけがやけに整っている。
扉が乱暴に開いた。
そこに立っていたベンは、俺の知っているベンとは別人だった。
目が血走っている。
頬の筋肉が引きつり、唇は震えていた。
そして、その手には、すでに剣があった。
ベンが、剣を抜いた状態で部屋に入ってくる。
それだけで、何かが決定的に破綻しているのが分かった。
「……ベン」
名前を呼んだ瞬間、足下の空気が裂けた。
振りかぶった。
迷いのない、一閃。
巨大な剣が、ほとんど声よりも先に飛んできた。
反射で身体が動いた。
横に滑る。
刃がさっきまで俺がいた空間を叩き割り、床を抉る音が響いた。
木片が跳ね上がり、頬に当たった。
遅れて、熱さを感じる。
どこか切れたらしい。
「アラン……」
ベンの声は、怒鳴り声というより、裂けた悲鳴に近かった。
「よくも……よくもエノクまで…… レミエルも、カサレアも、エノクも……全部、おまえのそばで死んだ どこまで奪えば気が済むんだよっ」
言葉が、剣と一緒に押し寄せてくる。
俺はまだ、何も返していなかった。
返そうとした言葉は、喉の奥で粉々になっていた。
音になる前に、胸の中で崩れて消えていく。
二撃目が来た。
今度は避けきれず、刃先が肩を掠める。
金属の冷たさと、すぐ後から燃えるような熱。
布が裂け、血がにじむ感覚だけが妙に鮮明だった。
「ベン、やめろ」
背後から声が飛んだ。
エンカイ子爵だ。
いつの間にか、扉の向こうに立っていた。
「ここで同士討ちをしてどうする 剣を収めろ」
「黙れっ」
ベンは一度も振り返らない。
俺だけを見ている。
いや、正確には、“俺の後ろにいる何か”を見ているような目だった。
「おまえの周りでだけ……妙な死に方ばかりが続いてる レミエルも、カサレアも、エノクも……どう説明するんだ 偶然なんかじゃねえ これは──」
三撃目。
剣の軌道が重い。
床も壁も関係なく、視界に入るものすべてを両断する勢いだ。
さすがに、受けないわけにはいかなかった。
腰に立てかけていた刀を引き抜く。
間に合わない。
刃と刃が正面からぶつかる形にはならなかった。
肩口で、かろうじて軌道を逸らす。
衝撃で腕がしびれた。
刀身が軋み、嫌な音を立てる。
「やめろと言っている 衛兵」
子爵の怒号と同時に、複数の足音が駆け込んでくる。
鎧の擦れる音、鞘から抜かれる剣の音。
そのすべてが、ベンの呼吸の荒さにかき消されそうだった。
「こいつを殺さなきゃ……俺は……」
ベンの声が震える。
怒りだけじゃない。
哀しみと絶望と、自分自身への怒りまでも詰め込んで喉を焼いている。
衛兵たちが横からベンに飛びついた。
大柄な体を何人もがかりで押し倒し、剣をもぎ取ろうとする。
それでも、ベンの手は柄から離れない。
指が白くなるほど力を込めて、それでもなお振り上げようとする。
床板に膝をつきながらも、
視線だけは俺から逸らさなかった。
その目に映っているのは、完全な“敵”だった。
胸の奥が裂ける音がした気がした。
「アラン。ここでは無理だ」
子爵が低く言った。
その声には、焦りと冷静さが同時に宿っている。
「まずエノクの遺体を確認してくれ。おまえ自身の目で、状況を見ておくべきだ」
俺はベンから視線を剥がし、子爵を見た。
頷く。
それ以外の選択肢が浮かばなかった。
刀を収めると、腕がじんと痛んだ。
さっき受けた衝撃が遅れて全身に響いている。
ベンはまだ叫んでいた。
「逃がすな…… そいつを……アランを…… こいつは……みんなを……」
言葉の切れ端が、背中に突き刺さる。
扉が閉まる瞬間まで、その声は消えなかった。
*
エノクの遺体が置かれている部屋は、屋敷のさらに奥まったところにあった。
窓は厚い布で完全に覆われ、外光は入ってこない。
代わりに、壁に掛けられた二つのランプだけが、部屋を淡く照らしていた。
中央の台に、白い布が一枚。
かけられている形だけで、一瞬、足が止まる。
布越しに見える輪郭は、間違いようがなかった。
「……行けるか」
子爵が横で問いかけてくる。
「行く」
声がひどく掠れていた。
それでも前に出る。
手を伸ばすと、指先がわずかに震えているのが分かった。
布の端をつまみ、息を止めるようにしてめくる。
エノクは静かに目を閉じていた。
いつも騒がしい口元が、今日は何も言わない。
肌はすでに少し冷たくなっている。
だが、まだ完全な“死”の静止には至っていないようにも見えた。
どこで、どうやって、とか。
誰が、なぜ、とか。
そんな問いはいくらでも浮かんだが、どれも喉を越えなかった。
そのときだった。
エノクの胸のあたりから、黒いものが滲み出てきた。
煤のようで、煙のようで、影のようで。
形を持たない黒が、ゆっくりと浮かび上がっていく。
「……っ」
思わず一歩、後ろに下がっていた。
子爵が怪訝そうにこちらを見る。
衛兵たちも、視線だけは警戒しているが、
誰も“それ”には気付いていない。
見えているのは俺だけだ。
いつもの、あの“黒い影”だ。
だが、これまで見てきたそれとは、どこか違う。
細い。
どこか千切れかけた布切れのように、ふらふらと揺れている。
『アラン……』
声が、胸の奥に響いた。
耳には、何も聞こえない。
それでもはっきりと意味だけが伝わってくる。
「……エノク、なのか」
思わず問いかけると、影が微かに震えた。
『……裂かれた……奪われた……』
言葉が途切れ途切れだ。
誰かに喉元を掴まれながら無理やりしゃべっているような、苦しい響き。
「何を……奪われた」
問いかけても、すぐには応えが返ってこない。
影はふわりと漂い、エノクの身体から離れて宙に浮かんだ。
輪郭が崩れながら、ゆっくりとこちらに向かってくる。
背中の方から、子爵の視線を感じる。
不審そうな気配。
俺が何もない空間に向かって話しているように見えるのだろう。
『……辿れ……裂けた道を……』
影が、そう告げた。
裂けた道。
エノクの死と、レミエルの死と、カサレアの死と。
全部を一本の線に繋ぐような言葉。
「……どこへ」
問いは半ば自分に向けたものになっていた。
影は答えない。
代わりに、俺の方へとまっすぐ伸びてきた。
触れられる距離まで近づいてくる。
逃げるという発想が出てこなかった。
足が床に縫い付けられたように動かない。
影が胸に触れた瞬間、息が詰まる。
冷たくも熱くもない。
ただ、重い。
エノクが抱えていた何か。
そこに辿り着いたという感覚だけが、ずしりと中に落ちてきた。
影は、完全に俺の中へ吸い込まれていった。
何も見えなくなった空間を見つめていると、子爵が静かに口を開いた。
「アラン。今、おまえは何を視ていた?」
視線を向けられる。
衛兵たちも、わずかに身構えている。
少しでも言い方を間違えれば、俺の方が危険視されてもおかしくない状況だ。
「……説明が、難しい」
それが精一杯だった。
子爵はしばらく黙って俺を見ていたが、やがて短く息を吐いた。
「そうか。なら、今は無理に聞くまい」
そう言ってくれたことに、少しだけ救われた気がした。
*
元の部屋に戻ると、空気はさらに重くなっていた。
ベンは椅子に押し付けられるように座らされ、両腕を子爵の側近が押さえている。
それでも肩の筋肉は盛り上がり、今にも動き出しそうな張り詰め方をしていた。
俺が入った瞬間、ベンの視線が突き刺さる。
「……見てきたのか」
低い声。
かろうじて抑えているだけで、すぐにでも爆発しそうだ。
「ああ」
それだけ答えた。
本当なら、もっと言うべきなのかもしれない。
状況の説明とか、影のこととか、エノクの様子とか。
けれど、口を開けば、どこかが決定的に崩れる気がした。
胸の中で、さっきの黒い影がまだざわついている。
「どうだった」
ベンが問い詰めるように言う。
どうだった、と聞かれて、何と答えればいい。
「……エノクは、殺された」
「そんなことは分かってる」
ベンが身体を跳ね上がらせる。
側近たちが慌てて押さえ込む。
「誰が、どうやって、なぜ…… おまえは何を見て、何を聞いた」
剣は取り上げられている。
それでも今すぐ首を掴みに来そうな勢いだ。
俺は、やはり何も言えなかった。
影の存在を口にしたところで、ベンが納得する未来が見えない。
むしろ火に油を注ぐだけだ。
黙っている俺を見て、ベンの顔が歪む。
「……やっぱり、何か隠してるんだな」
絞り出すように言った。
「レミエルのときも、カサレアのときも…… おまえは何かを知っているような目をしていた。 今回も同じだ。エノクが死んだのに、その顔かよ……」
「ベン」
子爵が静かに制した。
「落ち着け。アランを責める前に、状況を整理しろ」
「状況……?」
ベンは怒りを押し殺しながら子爵を睨んだ。
子爵はその視線を正面から受け止める。
「エノクは、何かの情報に辿り着いた可能性がある。だから殺された。そう考えるのが自然だ」
「情報……だと?」
「誰かの企みの核心かもしれん。 ホド伯爵か、その周囲か、あるいは別の何者か。 いずれにせよ、エノクは“不要な真実”に触れたのだろう」
ベンの呼吸が荒くなる。
怒りとは違う、別の感情が混ざり始めている。
理解したくない現実を、無理やり飲み込もうとしているような息づかい。
「そして今、何が起きている?」
子爵は続けた。
「アランと、おまえが、こうして刃を交えた。仲間同士が疑心暗鬼になり、血を流す寸前だった。あまりにも出来過ぎているとは思わないか?」
ベンはすぐには返事をしなかった。
歯を食いしばる音が聞こえる。
視線が俺と子爵の間を何度も行き来する。
「……罠、だと言いたいのか」
「その可能性が高いと言っている」
子爵は揺るがない口調で言い切った。
「誰かが仕掛けている。アランを孤立させ、ベン、おまえの怒りを利用し、仲間割れを起こさせることで、真実から目を逸らさせようとしている」
ベンの肩がわずかに震えた。
怒りの矛先がぐらついている。
俺への敵意が消えたわけじゃない。
だが、同じくらい別の何か──見えない敵に向き始めているのが分かる。
「……だったら、どうすればいい」
かすれた声で、ベンが問う。
「俺は……どうすればよかったんだ……」
その言葉に、胸が痛んだ。
俺だって同じことを問い続けている。
レミエルのときからずっと。
カサレアのときも、エノクのときも。
何をどうしていれば、誰か一人でも救えたのか。
答えは、いつまでたっても見つからない。
代わりに、胸の中で黒い影だけが静かに揺れていた。
「……まずは、落ち着くことだ」
子爵が言った。
「ベン、おまえもアランも、今は心も身体も傷つきすぎている。この状態のまま動けば、仕掛けた者の思うつぼだ」
「落ち着けるかよ……こんな……」
ベンは吐き捨てるように言ったが、それ以上は言葉が続かなかった。
側近の手を振りほどこうとする動きも、さっきよりは弱い。
怒りの熱が、わずかに別の方向へ逃げ始めている。
そのわずかな隙を、子爵は見逃さなかった。
「エノクが掴んだ情報は、まだどこかに残っているはずだ。 彼が誰と会い、どこへ行き、何を見たのか。 それを辿る必要がある」
子爵の言葉に、胸の奥で吸い込んだ影が、わずかに反応するような気がした。
裂けた道を辿れ──
さっき影が告げた言葉が、耳の奥で反響する。
喉まで出かかったが、やはり言えなかった。
言えば、何かが決定的に変わる。
その“変化”を受け止める覚悟が、まだ出来ていない。
気付けば、視界が少し滲んでいた。
焦りに近い感覚が胸を締め付ける。
心臓の鼓動が速い。
頭の中の考えが絡まり合い、ほどけない。
パニック、という言葉があるなら、今がそれに近いのだと思う。
それでも体だけが妙に冷静で、立っている姿勢だけは崩れない。
何も言えない自分に、苛立ちさえ感じる。
そんなときだった。
廊下の奥から、軽い靴音が聞こえた。
今この場に似つかわしくない、静かで、節度のある足取り。
衛兵の一人が顔を向ける。
「誰だ?」
扉のところに二つの影が現れた。
一人は背の高い、細身の女性。
淡い色の服を纏い、長い髪をゆるく束ねている。
もう一人は、やや低めの背丈で、黒髪をきっちりと結い上げた女性。
鋭さと穏やかさが同居した目をしていた。
二人とも、部屋に漂っている張り詰めた空気を、まるで恐れていない。
いや、それどころか──
この空気を知った上で、意図して踏み込んできた歩み方だった。
「失礼するわ」
細身の方が口を開く。
澄んだ声が、ぴんと張った糸を指で弾くように部屋に響いた。
「騒がしいと思って、急いで来たんだけど…… どうやら、間に合ったみたいね」
もう一人が、ほんの少し肩をすくめる。
「間に合ってるかどうかは、これから次第でしょ。少なくとも、もう一本、剣が振り下ろされる前には来られたみたいだけど」
その言葉に、ベンの肩がぴくりと動く。
押さえている側近たちも、わずかに力を込め直した。
子爵は二人を見据える。
「……来たか。おまえたちが」
知り合いらしい。
子爵の声には、ほんのわずかだが安堵も混じっていた。
二人の視線が、ほぼ同時に俺の方へ向く。
胸の奥で、黒い影がざわめいた。
裂けた何かの向こう側から、
新しい何かがこちらを覗き込んでいるような感覚。
その瞬間、自分の中で何かが軋む音がした。
──すべてが、さらに細かく裂けていく前触れのように。
俺は息を吸った。
何も言えないまま、視線だけを二人に向けた。
エンカイ子爵の屋敷、その一室。
客間として与えられた部屋の空気は、薄く冷えていた。
窓は厚い布で半分ほど覆われ、外の光が線のように床を切り取っている。
扉の向こうに、足音が近づく。
重い足取り。踏みしめるたび、床板がわずかに軋むような感覚が伝わってきた。
ベンだ、とすぐに分かった。
いつもの、どこか朗らかな重さではない。
鎧ごと突っ込んでくるような、むき出しの殺気を含んだ足音だった。
「入れ」
自分でも驚くくらい、声は低く落ち着いていた。
内側はまったく静かではないのに、外に出る音だけがやけに整っている。
扉が乱暴に開いた。
そこに立っていたベンは、俺の知っているベンとは別人だった。
目が血走っている。
頬の筋肉が引きつり、唇は震えていた。
そして、その手には、すでに剣があった。
ベンが、剣を抜いた状態で部屋に入ってくる。
それだけで、何かが決定的に破綻しているのが分かった。
「……ベン」
名前を呼んだ瞬間、足下の空気が裂けた。
振りかぶった。
迷いのない、一閃。
巨大な剣が、ほとんど声よりも先に飛んできた。
反射で身体が動いた。
横に滑る。
刃がさっきまで俺がいた空間を叩き割り、床を抉る音が響いた。
木片が跳ね上がり、頬に当たった。
遅れて、熱さを感じる。
どこか切れたらしい。
「アラン……」
ベンの声は、怒鳴り声というより、裂けた悲鳴に近かった。
「よくも……よくもエノクまで…… レミエルも、カサレアも、エノクも……全部、おまえのそばで死んだ どこまで奪えば気が済むんだよっ」
言葉が、剣と一緒に押し寄せてくる。
俺はまだ、何も返していなかった。
返そうとした言葉は、喉の奥で粉々になっていた。
音になる前に、胸の中で崩れて消えていく。
二撃目が来た。
今度は避けきれず、刃先が肩を掠める。
金属の冷たさと、すぐ後から燃えるような熱。
布が裂け、血がにじむ感覚だけが妙に鮮明だった。
「ベン、やめろ」
背後から声が飛んだ。
エンカイ子爵だ。
いつの間にか、扉の向こうに立っていた。
「ここで同士討ちをしてどうする 剣を収めろ」
「黙れっ」
ベンは一度も振り返らない。
俺だけを見ている。
いや、正確には、“俺の後ろにいる何か”を見ているような目だった。
「おまえの周りでだけ……妙な死に方ばかりが続いてる レミエルも、カサレアも、エノクも……どう説明するんだ 偶然なんかじゃねえ これは──」
三撃目。
剣の軌道が重い。
床も壁も関係なく、視界に入るものすべてを両断する勢いだ。
さすがに、受けないわけにはいかなかった。
腰に立てかけていた刀を引き抜く。
間に合わない。
刃と刃が正面からぶつかる形にはならなかった。
肩口で、かろうじて軌道を逸らす。
衝撃で腕がしびれた。
刀身が軋み、嫌な音を立てる。
「やめろと言っている 衛兵」
子爵の怒号と同時に、複数の足音が駆け込んでくる。
鎧の擦れる音、鞘から抜かれる剣の音。
そのすべてが、ベンの呼吸の荒さにかき消されそうだった。
「こいつを殺さなきゃ……俺は……」
ベンの声が震える。
怒りだけじゃない。
哀しみと絶望と、自分自身への怒りまでも詰め込んで喉を焼いている。
衛兵たちが横からベンに飛びついた。
大柄な体を何人もがかりで押し倒し、剣をもぎ取ろうとする。
それでも、ベンの手は柄から離れない。
指が白くなるほど力を込めて、それでもなお振り上げようとする。
床板に膝をつきながらも、
視線だけは俺から逸らさなかった。
その目に映っているのは、完全な“敵”だった。
胸の奥が裂ける音がした気がした。
「アラン。ここでは無理だ」
子爵が低く言った。
その声には、焦りと冷静さが同時に宿っている。
「まずエノクの遺体を確認してくれ。おまえ自身の目で、状況を見ておくべきだ」
俺はベンから視線を剥がし、子爵を見た。
頷く。
それ以外の選択肢が浮かばなかった。
刀を収めると、腕がじんと痛んだ。
さっき受けた衝撃が遅れて全身に響いている。
ベンはまだ叫んでいた。
「逃がすな…… そいつを……アランを…… こいつは……みんなを……」
言葉の切れ端が、背中に突き刺さる。
扉が閉まる瞬間まで、その声は消えなかった。
*
エノクの遺体が置かれている部屋は、屋敷のさらに奥まったところにあった。
窓は厚い布で完全に覆われ、外光は入ってこない。
代わりに、壁に掛けられた二つのランプだけが、部屋を淡く照らしていた。
中央の台に、白い布が一枚。
かけられている形だけで、一瞬、足が止まる。
布越しに見える輪郭は、間違いようがなかった。
「……行けるか」
子爵が横で問いかけてくる。
「行く」
声がひどく掠れていた。
それでも前に出る。
手を伸ばすと、指先がわずかに震えているのが分かった。
布の端をつまみ、息を止めるようにしてめくる。
エノクは静かに目を閉じていた。
いつも騒がしい口元が、今日は何も言わない。
肌はすでに少し冷たくなっている。
だが、まだ完全な“死”の静止には至っていないようにも見えた。
どこで、どうやって、とか。
誰が、なぜ、とか。
そんな問いはいくらでも浮かんだが、どれも喉を越えなかった。
そのときだった。
エノクの胸のあたりから、黒いものが滲み出てきた。
煤のようで、煙のようで、影のようで。
形を持たない黒が、ゆっくりと浮かび上がっていく。
「……っ」
思わず一歩、後ろに下がっていた。
子爵が怪訝そうにこちらを見る。
衛兵たちも、視線だけは警戒しているが、
誰も“それ”には気付いていない。
見えているのは俺だけだ。
いつもの、あの“黒い影”だ。
だが、これまで見てきたそれとは、どこか違う。
細い。
どこか千切れかけた布切れのように、ふらふらと揺れている。
『アラン……』
声が、胸の奥に響いた。
耳には、何も聞こえない。
それでもはっきりと意味だけが伝わってくる。
「……エノク、なのか」
思わず問いかけると、影が微かに震えた。
『……裂かれた……奪われた……』
言葉が途切れ途切れだ。
誰かに喉元を掴まれながら無理やりしゃべっているような、苦しい響き。
「何を……奪われた」
問いかけても、すぐには応えが返ってこない。
影はふわりと漂い、エノクの身体から離れて宙に浮かんだ。
輪郭が崩れながら、ゆっくりとこちらに向かってくる。
背中の方から、子爵の視線を感じる。
不審そうな気配。
俺が何もない空間に向かって話しているように見えるのだろう。
『……辿れ……裂けた道を……』
影が、そう告げた。
裂けた道。
エノクの死と、レミエルの死と、カサレアの死と。
全部を一本の線に繋ぐような言葉。
「……どこへ」
問いは半ば自分に向けたものになっていた。
影は答えない。
代わりに、俺の方へとまっすぐ伸びてきた。
触れられる距離まで近づいてくる。
逃げるという発想が出てこなかった。
足が床に縫い付けられたように動かない。
影が胸に触れた瞬間、息が詰まる。
冷たくも熱くもない。
ただ、重い。
エノクが抱えていた何か。
そこに辿り着いたという感覚だけが、ずしりと中に落ちてきた。
影は、完全に俺の中へ吸い込まれていった。
何も見えなくなった空間を見つめていると、子爵が静かに口を開いた。
「アラン。今、おまえは何を視ていた?」
視線を向けられる。
衛兵たちも、わずかに身構えている。
少しでも言い方を間違えれば、俺の方が危険視されてもおかしくない状況だ。
「……説明が、難しい」
それが精一杯だった。
子爵はしばらく黙って俺を見ていたが、やがて短く息を吐いた。
「そうか。なら、今は無理に聞くまい」
そう言ってくれたことに、少しだけ救われた気がした。
*
元の部屋に戻ると、空気はさらに重くなっていた。
ベンは椅子に押し付けられるように座らされ、両腕を子爵の側近が押さえている。
それでも肩の筋肉は盛り上がり、今にも動き出しそうな張り詰め方をしていた。
俺が入った瞬間、ベンの視線が突き刺さる。
「……見てきたのか」
低い声。
かろうじて抑えているだけで、すぐにでも爆発しそうだ。
「ああ」
それだけ答えた。
本当なら、もっと言うべきなのかもしれない。
状況の説明とか、影のこととか、エノクの様子とか。
けれど、口を開けば、どこかが決定的に崩れる気がした。
胸の中で、さっきの黒い影がまだざわついている。
「どうだった」
ベンが問い詰めるように言う。
どうだった、と聞かれて、何と答えればいい。
「……エノクは、殺された」
「そんなことは分かってる」
ベンが身体を跳ね上がらせる。
側近たちが慌てて押さえ込む。
「誰が、どうやって、なぜ…… おまえは何を見て、何を聞いた」
剣は取り上げられている。
それでも今すぐ首を掴みに来そうな勢いだ。
俺は、やはり何も言えなかった。
影の存在を口にしたところで、ベンが納得する未来が見えない。
むしろ火に油を注ぐだけだ。
黙っている俺を見て、ベンの顔が歪む。
「……やっぱり、何か隠してるんだな」
絞り出すように言った。
「レミエルのときも、カサレアのときも…… おまえは何かを知っているような目をしていた。 今回も同じだ。エノクが死んだのに、その顔かよ……」
「ベン」
子爵が静かに制した。
「落ち着け。アランを責める前に、状況を整理しろ」
「状況……?」
ベンは怒りを押し殺しながら子爵を睨んだ。
子爵はその視線を正面から受け止める。
「エノクは、何かの情報に辿り着いた可能性がある。だから殺された。そう考えるのが自然だ」
「情報……だと?」
「誰かの企みの核心かもしれん。 ホド伯爵か、その周囲か、あるいは別の何者か。 いずれにせよ、エノクは“不要な真実”に触れたのだろう」
ベンの呼吸が荒くなる。
怒りとは違う、別の感情が混ざり始めている。
理解したくない現実を、無理やり飲み込もうとしているような息づかい。
「そして今、何が起きている?」
子爵は続けた。
「アランと、おまえが、こうして刃を交えた。仲間同士が疑心暗鬼になり、血を流す寸前だった。あまりにも出来過ぎているとは思わないか?」
ベンはすぐには返事をしなかった。
歯を食いしばる音が聞こえる。
視線が俺と子爵の間を何度も行き来する。
「……罠、だと言いたいのか」
「その可能性が高いと言っている」
子爵は揺るがない口調で言い切った。
「誰かが仕掛けている。アランを孤立させ、ベン、おまえの怒りを利用し、仲間割れを起こさせることで、真実から目を逸らさせようとしている」
ベンの肩がわずかに震えた。
怒りの矛先がぐらついている。
俺への敵意が消えたわけじゃない。
だが、同じくらい別の何か──見えない敵に向き始めているのが分かる。
「……だったら、どうすればいい」
かすれた声で、ベンが問う。
「俺は……どうすればよかったんだ……」
その言葉に、胸が痛んだ。
俺だって同じことを問い続けている。
レミエルのときからずっと。
カサレアのときも、エノクのときも。
何をどうしていれば、誰か一人でも救えたのか。
答えは、いつまでたっても見つからない。
代わりに、胸の中で黒い影だけが静かに揺れていた。
「……まずは、落ち着くことだ」
子爵が言った。
「ベン、おまえもアランも、今は心も身体も傷つきすぎている。この状態のまま動けば、仕掛けた者の思うつぼだ」
「落ち着けるかよ……こんな……」
ベンは吐き捨てるように言ったが、それ以上は言葉が続かなかった。
側近の手を振りほどこうとする動きも、さっきよりは弱い。
怒りの熱が、わずかに別の方向へ逃げ始めている。
そのわずかな隙を、子爵は見逃さなかった。
「エノクが掴んだ情報は、まだどこかに残っているはずだ。 彼が誰と会い、どこへ行き、何を見たのか。 それを辿る必要がある」
子爵の言葉に、胸の奥で吸い込んだ影が、わずかに反応するような気がした。
裂けた道を辿れ──
さっき影が告げた言葉が、耳の奥で反響する。
喉まで出かかったが、やはり言えなかった。
言えば、何かが決定的に変わる。
その“変化”を受け止める覚悟が、まだ出来ていない。
気付けば、視界が少し滲んでいた。
焦りに近い感覚が胸を締め付ける。
心臓の鼓動が速い。
頭の中の考えが絡まり合い、ほどけない。
パニック、という言葉があるなら、今がそれに近いのだと思う。
それでも体だけが妙に冷静で、立っている姿勢だけは崩れない。
何も言えない自分に、苛立ちさえ感じる。
そんなときだった。
廊下の奥から、軽い靴音が聞こえた。
今この場に似つかわしくない、静かで、節度のある足取り。
衛兵の一人が顔を向ける。
「誰だ?」
扉のところに二つの影が現れた。
一人は背の高い、細身の女性。
淡い色の服を纏い、長い髪をゆるく束ねている。
もう一人は、やや低めの背丈で、黒髪をきっちりと結い上げた女性。
鋭さと穏やかさが同居した目をしていた。
二人とも、部屋に漂っている張り詰めた空気を、まるで恐れていない。
いや、それどころか──
この空気を知った上で、意図して踏み込んできた歩み方だった。
「失礼するわ」
細身の方が口を開く。
澄んだ声が、ぴんと張った糸を指で弾くように部屋に響いた。
「騒がしいと思って、急いで来たんだけど…… どうやら、間に合ったみたいね」
もう一人が、ほんの少し肩をすくめる。
「間に合ってるかどうかは、これから次第でしょ。少なくとも、もう一本、剣が振り下ろされる前には来られたみたいだけど」
その言葉に、ベンの肩がぴくりと動く。
押さえている側近たちも、わずかに力を込め直した。
子爵は二人を見据える。
「……来たか。おまえたちが」
知り合いらしい。
子爵の声には、ほんのわずかだが安堵も混じっていた。
二人の視線が、ほぼ同時に俺の方へ向く。
胸の奥で、黒い影がざわめいた。
裂けた何かの向こう側から、
新しい何かがこちらを覗き込んでいるような感覚。
その瞬間、自分の中で何かが軋む音がした。
──すべてが、さらに細かく裂けていく前触れのように。
俺は息を吸った。
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