幽刀星

氷翠

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歩・四十「路」

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「……少し、よろしいでしょうか」

その声は、怒号とざわめきが満ちる空気の中でも、不思議と澄んで聞こえた。
ベンの腕に胸ぐらを掴まれたままの俺の前に、人々の列が自然と割れていく。
姿を現したのは、深い色の外套に身を包んだ若い貴族の令嬢――アギ・ホド令嬢。
そして、その後ろに控えるのは、落ち着いた目をしたエリファス・レヴィ。

「アギ令嬢……」

エンカイ子爵の側近が驚きの声を上げ、ベンは俺の胸ぐらを掴んだ手を震わせながら、目を見開いた。

「な……なんで令嬢がここに……」

アギ令嬢は、ベンよりも少し小柄な体で、しかしまっすぐにこちらを見据えたまま歩み寄ってきた。

「ベン様。アラン様。エンカイ子爵様。まず、お三方にお話ししたいことがございます」

声は揺れていない。
その穏やかな音色が、場の混乱を静かに飲み込んでいった。
ベンは掴んでいた俺の胸元から手を離し、怒りを押し込めたまま、アギ令嬢に問いかけた。

「……アギ令嬢。どういうことだ。こいつは、お前を……」

「ベン様」

アギ令嬢の言葉が、彼の言葉をそっと遮った。
強くないのに、逆らいようのない調子だった。

「わたくしとアラン様が再会したのは、この街をアラン様が追われて去った後のことです。それ以前に、アラン様がわたくしを襲った――そのような事実は一度もございません」

周囲がざわついた。
ベンの表情は、怒りよりも混乱に染まっていく。

「……で、でも俺は……襲われたと聞いて……」

「“聞かされた”だけでしょう、ベン様。わたくし自身は、アラン様に襲われた記憶など持っていません」

淡々と告げられる言葉。
それは、ベンの胸の奥の“前提”を静かに揺るがしていくのが分かった。
子爵も驚きを隠そうとはしなかった。

「アギ令嬢……それは、真であるか」

「はい。子爵様」

アギ令嬢は、そこから視線を逸らさなかった。
その眼差しには、恐れよりも“決意”の色が深く宿っていた。

「そして――」

令嬢はそっと息を吸い、言葉にさらに重い刃を乗せた。

「全ての元凶は……父、ホド伯爵にございます」

空気が、一瞬止まった。

「なんだと……」

エンカイ子爵の声が低く震える。
それほど、この告白は重かった。

「レミエル様の件も、カサレア様の件も、そして……エノク様の件も。多くに、父が関わっております」

令嬢の横顔は、痛みを抱えながらも真っ直ぐだった。
父を告発する覚悟が、言葉の一つ一つから滲み出ている。
エリファスが静かに一歩前に出て、令嬢を守るように立った。

「アギ令嬢。証拠は、あるのか」

子爵の問いは鋭かった。
貴族同士の関係を揺るがす重大な発言だ。
軽んじるわけにはいかない。
アギ令嬢は、外套の内側から小さな革袋を取り出した。

「ございます。ただし――ここで内容を申し上げるつもりはありません」

その場にいたすべての者の視線が、令嬢の手元に集まった。

「では、何が入っているのだ」

「それをお話しするのは、子爵様、ベン様、アラン様、エリファス様……この四人だけになってからと決めています。人目の多い場所には、父の手の者も紛れ込んでおりますので」

令嬢は、革袋をぎゅっと握りしめた。

「ただ一つだけ――ベン様、あなたにお伺いします」

「……俺に?」

「“バラキエル”という名を、ご存じではありませんか」

ベンの表情が一瞬固まった。
その変化は、誰の目にも明らかだった。

「……知ってる。闇ギルドの処刑人の名だ……聞くだけで血が凍るような連中の筆頭格……」

それを聞いて、アギ令嬢は小さく、しかし確かにうなずいた。

「そうです。その名前が、証拠品の中にございます」

ベンが息を呑んだ。
その拳が震える。

「……なら、アミーって名前は……?」

「存じません」

令嬢は即答した。
ベンは困惑の表情で視線を落とす。
闇の真相が、ゆっくりと輪郭を現してきている。
だがその全ては、まだ霧の奥に隠れている。

「……アギ令嬢」

エンカイ子爵は静かに口を開いた。

「この話は、ここでは重すぎる。

私の屋敷へ移動し、そこで改めて証拠を確認しよう。
人目と余計な耳を遮断する必要がある」

「感謝いたします、子爵様」

令嬢が深く頭を下げる。
子爵は衛兵に指示を出し、群衆を退かせながら道を開けさせた。
アギ令嬢、エリファス、子爵が歩き出す。

俺もその後ろに続こうとしたとき――

ベンが、俺をじっと見つめていた。
怒りと困惑、疑念と戸惑い。
色々な感情が全部混じり合った顔だった。
立ち尽くし、拳を震わせ、しかしもう飛びかかってくる気配はない。
俺は足を止め、ベンに向けて静かに言った。

「……エノクを、手厚く埋葬してくれるようお願いした。あいつは……くだらないことを言いながら、誰よりも仲間を大事にしていた」

喉が焼けるようだった。
言えば言うほど、自分の中の痛みが浮かび上がってくる。

「俺には……もう誰かを守れたって言えない。だから、せめて……弔ってやってほしい」

ベンは視線を逸らし、苦しそうに何度か拳を握り直した。
そして、かすれた声で言った。

「……行けよ。証拠を確かめるまでは……何も言えねぇ」

それは許しではない。
だが、憎悪だけをぶつけていた頃とは違う。
“猶予”があった。

「……分かった」

それだけ返して、背を向ける。
石畳を踏む足音が、妙に冷たく響く。
アギ令嬢の背中は小さく華奢なのに、どこか誰よりも強く見えた。
その手に握られた革袋には、伯爵の罪の影が詰まっている。
俺たちは、子爵の屋敷へと向かった。
その背後で、ベンはまだ動けず、ただ俺たちの姿を、痛むような眼で見送っていた。

──証拠品が開かれたとき。

誰の運命がどう形を変えるのか。
まだ、この時点では誰も知らない。
ただ一つだけ分かっていた。
もう、誰も引き返せない。
この道は、冥の影の中に続いている。
俺は、その道を歩く覚悟を固めた。
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