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五、
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終わりは、ほどなくして訪れた。
進路面談の日程がクラスの人数分羅列している藁半紙を通学かばんに乱暴に突っ込み、先端が痛いくらいに冷えている足でもたもたと階段をのぼる。ひやっとする鍵を鍵穴に差し込んで右に回すが、あるはずの手応えを感じない。不審に思ってノブを捻ると戸が開いたので、昨日から姿を消していた諏訪が戻ってきているんだろうなと思い部屋に入った。
寒々しい光が窓から差し込む部屋に、確かにそれはいた。
トイレから這い出している途中だったようで、腕を面白い方向に折り曲げて床に伏している。その身体からは骨の存在を感じられず、タコを連想させた。焦げた匂いが充満し、針の錆びた注射器が流し台に乗っかっている。
「うちでやるなって言ってるだろ。あとちゃんと鍵をかけてよ」
内側から施錠して、マフラーを外しカバンと共に床に放る。
近頃、諏訪は言葉通りに立派な薬物中毒者になっていた。見たところ仕事もしておらず、探しているそぶりもない。入れ込んでいる女とやらのところに出かけて、ラリって帰ってくるだけだ。青木は何を言うでもなく、ただ諏訪の世話を焼いた。諏訪の行動を止める術を知らなかったし、止める資格が自分にあるとも思えなかったからだ。
コートを脱ごうとした青木は、そこでようやく異変に気がついた。諏訪が、まるで犬のように短く下手くそな呼吸を繰り返しているのだ。
「諏訪?」
呼びかけても返事はない。胸にざわざわと不安がこみ上げる。恐る恐る近づいて首筋に触れるとひどく冷たく、ぬるぬるとした汗を流して小さく痙攣し、薄眼を開けて「痛い」としきりに呟いている。
これは、まずいんじゃないか?
本能的に危険を察知し助けを呼ぼうとして踵を返すと、諏訪の手が青木のコートの端を握った。どこにそんな力が残っているんだと驚くほど引っ張られて、青木はその手を外そうと振り返る。淀んだ黒目と視線がぶつかった。拳をこじ開けようとするが汗で滑って苦戦する。青木も冷や汗をかいている。
「離せ、救急車を呼んでもらおう」
「いい」
掠れて消えそうな声が提案を拒否した。
「よくないだろ、死ぬぞ!」
「いい」
慣れない大声を出しても、諏訪はコートから手を離さなかった。次いで、「もう、たくさんだ」と諦観したように呟いた。どこかで聞いた言葉だと思ったけれど、どこで誰が言ったのかは思い出せない。
「ずっと、早く終わらせたいと思ってたんだ、本当は」
濡れた口元が僅かに口角を持ち上げる。その独白は、青木が奥底に隠していた気持ちの蓋を開けて、抗う術もなく完璧に共鳴してしまった。足の力が抜けてへたり込むと、諏訪の手もぼたっと重たい音を立てて床に落ちる。陽射しの中で、沢山の埃が舞っているのがよく見えた。
諏訪が小さく「愛されたかったんだ」とこぼした。青木は口を開きかけたが、その言葉が諏訪にとって何の救いにもならないと気づき、無理やり押し込んだ。そうして、苦しそうに膨らんだ胸を見ていると、いつかの言葉が蘇る。
ーー俺を救ってくれると言ったんだ
ーー今度こそ俺は幸せになれるんだよ
「そうか、やっぱり駄目だったか、誰でも」
観念した青木はコートをゆっくりと脱いで、丁寧に畳む。畳み終えると諏訪のポケットに入っているマルボロの箱から一本だけ抜き取り、床に落ちていたライターのフリントを回した。火をつけるのは初めてだったためか手こずって思いっきり息を吸い込んでしまい、重たい煙が肺に押し寄せてむせ返った。
それからじっくりと時間をかけて一本の煙草を吸った。
冷蔵庫の電子音と巻紙が燃える音、それから諏訪の呼吸する音だけが聞こえていた。苦くて舌が痺れた。灰がぽとぽと床に落ちて短くなった煙草を諏訪の口元に運ぶ。短い煙が浮遊してから消えるのを見届けて、吸い殻をぎゅうっとすり潰した。
「さすがに怖いな」
諏訪がひび割れた声で、途切れ途切れに弱音を吐いた。
「大丈夫だよ諏訪。僕がやる」
安心させるように優しく言い聞かせてから、青木は諏訪に覆いかぶさって喉元に手を回した。指が柔らかい肉に埋まっていく。真ん中の硬さを持った塊が邪魔だった。
鈍い心音が指を食い破って血に混ざって流れてきて、心臓が痛いくらいに鼓動を早める。更に締め上げると、諏訪が死にかけの蝉みたいな声で鳴いて、青木の手首を強く握った。
「諏訪が望むところに行けるなら、僕は」
濁った白目の中で爛々と輝く黒がじっとりと青木を見上げていた。青木は、緩みそうになる両手に無理矢理力を入れた。時折視界がぼやけたが、夢中でやつれた首を絞め続けた。
脳内で、過去の記憶が上映される。
白いティーシャツに穴が空いたジーパンを履いている諏訪が、棒アイスを食べながら駄菓子屋の前のガチャガチャを睨んでいて、青木はチューパットを吸いながらそれを見ている。出会って一ヶ月と経たない頃の記憶だ。
「ねぇ、気になってたんだけど」
そう切り出すと、諏訪は顔を上げた。青木は隣接しているペンキが剥げているベンチに腰を下ろして続ける。
「僕と一緒にいてもつまらないんじゃない」
「何でそう思う」
「皆がそう言うから」
「なんだそりゃ」
諏訪が笑う。溶けたアイスが棒を伝って地面にポタポタと落ちた。
「そういう評価って、大抵当たってることが多いでしょ。自分でもそうだろうなって思うし」
「ふーん、そういうもん?」
興味がなさそうにガチャガチャのつまみを捻り、カプセルを拾い上げて落胆する。それから中身ごとカプセルをゴミ箱に投げ捨てて、「俺は楽しいから、どうでもいいよそんなの」と言った。本当にどうでもよさげな声だった。
どうして今、そんなことを思い出すんだろう。
諏訪が動かなくなっても、青木はしばらくの間、首に回した手を離さなかった。温度を失っていく身体に跨ったまま、白くなった顔を見つめる。
諏訪の表情は、見惚れるほどに穏やかなものだった。久しぶりに見るその表情を確認してから、ようやくのろのろと手を離し、疲弊した声を吐き出す。
「これで大丈夫だよ」
静まりかえった部屋に、青木の声だけが響いた。手のひらが諏訪のものか自分のものかわからない汗でぬめっていて、気持ちが悪かった。
進路面談の日程がクラスの人数分羅列している藁半紙を通学かばんに乱暴に突っ込み、先端が痛いくらいに冷えている足でもたもたと階段をのぼる。ひやっとする鍵を鍵穴に差し込んで右に回すが、あるはずの手応えを感じない。不審に思ってノブを捻ると戸が開いたので、昨日から姿を消していた諏訪が戻ってきているんだろうなと思い部屋に入った。
寒々しい光が窓から差し込む部屋に、確かにそれはいた。
トイレから這い出している途中だったようで、腕を面白い方向に折り曲げて床に伏している。その身体からは骨の存在を感じられず、タコを連想させた。焦げた匂いが充満し、針の錆びた注射器が流し台に乗っかっている。
「うちでやるなって言ってるだろ。あとちゃんと鍵をかけてよ」
内側から施錠して、マフラーを外しカバンと共に床に放る。
近頃、諏訪は言葉通りに立派な薬物中毒者になっていた。見たところ仕事もしておらず、探しているそぶりもない。入れ込んでいる女とやらのところに出かけて、ラリって帰ってくるだけだ。青木は何を言うでもなく、ただ諏訪の世話を焼いた。諏訪の行動を止める術を知らなかったし、止める資格が自分にあるとも思えなかったからだ。
コートを脱ごうとした青木は、そこでようやく異変に気がついた。諏訪が、まるで犬のように短く下手くそな呼吸を繰り返しているのだ。
「諏訪?」
呼びかけても返事はない。胸にざわざわと不安がこみ上げる。恐る恐る近づいて首筋に触れるとひどく冷たく、ぬるぬるとした汗を流して小さく痙攣し、薄眼を開けて「痛い」としきりに呟いている。
これは、まずいんじゃないか?
本能的に危険を察知し助けを呼ぼうとして踵を返すと、諏訪の手が青木のコートの端を握った。どこにそんな力が残っているんだと驚くほど引っ張られて、青木はその手を外そうと振り返る。淀んだ黒目と視線がぶつかった。拳をこじ開けようとするが汗で滑って苦戦する。青木も冷や汗をかいている。
「離せ、救急車を呼んでもらおう」
「いい」
掠れて消えそうな声が提案を拒否した。
「よくないだろ、死ぬぞ!」
「いい」
慣れない大声を出しても、諏訪はコートから手を離さなかった。次いで、「もう、たくさんだ」と諦観したように呟いた。どこかで聞いた言葉だと思ったけれど、どこで誰が言ったのかは思い出せない。
「ずっと、早く終わらせたいと思ってたんだ、本当は」
濡れた口元が僅かに口角を持ち上げる。その独白は、青木が奥底に隠していた気持ちの蓋を開けて、抗う術もなく完璧に共鳴してしまった。足の力が抜けてへたり込むと、諏訪の手もぼたっと重たい音を立てて床に落ちる。陽射しの中で、沢山の埃が舞っているのがよく見えた。
諏訪が小さく「愛されたかったんだ」とこぼした。青木は口を開きかけたが、その言葉が諏訪にとって何の救いにもならないと気づき、無理やり押し込んだ。そうして、苦しそうに膨らんだ胸を見ていると、いつかの言葉が蘇る。
ーー俺を救ってくれると言ったんだ
ーー今度こそ俺は幸せになれるんだよ
「そうか、やっぱり駄目だったか、誰でも」
観念した青木はコートをゆっくりと脱いで、丁寧に畳む。畳み終えると諏訪のポケットに入っているマルボロの箱から一本だけ抜き取り、床に落ちていたライターのフリントを回した。火をつけるのは初めてだったためか手こずって思いっきり息を吸い込んでしまい、重たい煙が肺に押し寄せてむせ返った。
それからじっくりと時間をかけて一本の煙草を吸った。
冷蔵庫の電子音と巻紙が燃える音、それから諏訪の呼吸する音だけが聞こえていた。苦くて舌が痺れた。灰がぽとぽと床に落ちて短くなった煙草を諏訪の口元に運ぶ。短い煙が浮遊してから消えるのを見届けて、吸い殻をぎゅうっとすり潰した。
「さすがに怖いな」
諏訪がひび割れた声で、途切れ途切れに弱音を吐いた。
「大丈夫だよ諏訪。僕がやる」
安心させるように優しく言い聞かせてから、青木は諏訪に覆いかぶさって喉元に手を回した。指が柔らかい肉に埋まっていく。真ん中の硬さを持った塊が邪魔だった。
鈍い心音が指を食い破って血に混ざって流れてきて、心臓が痛いくらいに鼓動を早める。更に締め上げると、諏訪が死にかけの蝉みたいな声で鳴いて、青木の手首を強く握った。
「諏訪が望むところに行けるなら、僕は」
濁った白目の中で爛々と輝く黒がじっとりと青木を見上げていた。青木は、緩みそうになる両手に無理矢理力を入れた。時折視界がぼやけたが、夢中でやつれた首を絞め続けた。
脳内で、過去の記憶が上映される。
白いティーシャツに穴が空いたジーパンを履いている諏訪が、棒アイスを食べながら駄菓子屋の前のガチャガチャを睨んでいて、青木はチューパットを吸いながらそれを見ている。出会って一ヶ月と経たない頃の記憶だ。
「ねぇ、気になってたんだけど」
そう切り出すと、諏訪は顔を上げた。青木は隣接しているペンキが剥げているベンチに腰を下ろして続ける。
「僕と一緒にいてもつまらないんじゃない」
「何でそう思う」
「皆がそう言うから」
「なんだそりゃ」
諏訪が笑う。溶けたアイスが棒を伝って地面にポタポタと落ちた。
「そういう評価って、大抵当たってることが多いでしょ。自分でもそうだろうなって思うし」
「ふーん、そういうもん?」
興味がなさそうにガチャガチャのつまみを捻り、カプセルを拾い上げて落胆する。それから中身ごとカプセルをゴミ箱に投げ捨てて、「俺は楽しいから、どうでもいいよそんなの」と言った。本当にどうでもよさげな声だった。
どうして今、そんなことを思い出すんだろう。
諏訪が動かなくなっても、青木はしばらくの間、首に回した手を離さなかった。温度を失っていく身体に跨ったまま、白くなった顔を見つめる。
諏訪の表情は、見惚れるほどに穏やかなものだった。久しぶりに見るその表情を確認してから、ようやくのろのろと手を離し、疲弊した声を吐き出す。
「これで大丈夫だよ」
静まりかえった部屋に、青木の声だけが響いた。手のひらが諏訪のものか自分のものかわからない汗でぬめっていて、気持ちが悪かった。
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