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十五、
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世川が退勤時刻になってタイムカードを切り着替えを済ませても、倉持はまだ仕事が残っているようだった。他のアルバイトと共に挨拶をし、裏口から店を出る。夜道を少し歩いて解散したところで、世川は再び店に戻り、裏口近くの吸い殻入れの近くに座り込んだ。このまま帰ったら、きっと後悔すると思った。
店内の音や声、ドアの曇りガラスから漏れる光をぼんやりと見つめながら三十分ほど経ったかという頃、曇りガラスに人影が映り、裏口が開いて倉持が姿を表した。しゃがみ込んだ世川が黙って見つめていると、倉持が「うお」と声を上げ、世川はその声に驚く。
「何してんの……」
「倉持さんが休憩に来るのを待ってました」
「なんで」
何故だろう。世川は返す言葉を考えたが、具体的な理由は思いつかなかった。ただ、このまま倉持と別れたら、次に会う時には埋められない溝ができてしまうような気がした。
世川が黙っていると、倉持は「さっきの話なら、気にしなくていい」と言いながら、煙草に火をつけた。
「別に言いふらしたっていいしね」
「そんなことしません」
少しむきになって言うと、倉持は鼻を鳴らして笑い、煙を吸い込んで一息で吐き出した。世川は腰を上げて倉持の隣に並ぶ。
「あの、誰にも言ってませんし、言うつもりもないです」
「そんなこと言うために一時間もここにいたのか?」
「一時間も経ってるんですか?」
「もう十一時だよ」
タイムカードを切ったのは十時のはずだった。世川が「ぼおっとしてたら、すぐでした」と呟くと、倉持は煙を吐き出しながらふふと笑った。
「君がそういう奴じゃないっていうのは、わかってるよ。悪かったな、あんまり見られたくなかったし、ああいう切り出し方をされて変に警戒したんだ。経験上、見られたり気づかれたりしたら、いい反応はされないから」
「いえ、すみません。僕も、わざわざ言わなくてもいいことを」
でも、見たことを黙って倉持さんと話すの、なんだか嘘をついてるみたいで嫌で。ずるい感じがして。倉持の煙草の火を見つめつつに言う。
「浮気男のくせにぃ?」
倉持が笑いながら言う。その顔は、新宿で見た倉持の笑顔に少し近いように思えた。世川は無意識にむっとした顔をしていたようで、倉持はニヤニヤしながら「冗談だよ」と世川の肩を小突いた。
世川は息を吐き出し、フェンスに体を預ける。自分も同じかもしれないのだと、言ってしまおうか迷った。いつも相談している話の、片方の子は、実は女の子じゃなくて、男なんです。一ノ瀬という、男なんです。
しかし、それを打ち明けることで、倉持との関係がその共通点頼みになってしまうのは、嫌だった。同じだから打ち解けられたのだと、彼だけでなく自分自身にも、そう片付けられてしまうのが、たまらなく嫌だった。
倉持が短くなった煙草を吸い殻入れに落とし、「大人気なかったなぁ」と呟く。それから「ちょっと待っとけ」と言い店内に引っ込んだかと思うと、弁当を手に戻ってくる。
「これ、持って帰れ」
「いいんですか、これ、ちょっと高いやつじゃ」
「俺が持って帰ろうと思ってキープしておいたんだけど、やるよ。職権濫用だ」
シールに印字された賞味期限は、明日の朝方だった。世川は「いただきます」と、彼の夕食になるはずだった弁当を受け取る。
「前に、倉持さんの彼女は幸せだろうなって言ったじゃないですか」
「言ってたね」
「すみません、なんというか、軽率で」
「いや、いいよ。普通はそう言うだろ」
倉持は全く気にしていないという風に飄々として言った。以前、この言葉を彼に伝えた時、彼はどんな表情をしていただろうか。思い出そうとしたが、記憶の中の倉持の顔はぼやけていて、わからなかった。
俺はまだ仕事があるから、気をつけて帰れよ。そう言って倉持はかったるそうに店内に引っ込み、世川は剥き出しの弁当を手に、夜道を歩き始める。
倉持は、以前自分が放ったあの言葉に、煩わしさを覚えただろうか。何度も何度も言われて、もう慣れてしまったのだろうか。何度も言われるたびに、苦しんだのだろうか。
ふと、公園に差し掛かって、ほんの少し前にスニーカーを捨てたゴミ箱に目を向ける。今この瞬間は、捨てたいと思う物は持っていない。世川は急ぐ気にもならず、ゆっくりと足を進めた。倉持に「普通」と言われたのに、嬉しい気持ちにはなれそうになかった。
「世川くん、昨日大学の近くにいた?」
数日ぶりに顔を合わせた新島に言われて、世川はぎくりとした。
特に予定もない日は、相変わらず歩き回るようにしていた。もちろんそれで一ノ瀬を見つけられるとは思っていないが、愛美にはもうかけてくるなと電話口で激怒されたばかりだし、他に打つ手がないのだ。それに、やることがない時は歩き回るでもしていないと落ち着かない。気休めに続け、やがて、何のために歩き回っているのかもわからなくなっているところだった。
「テニスサークルの子が、世川くんが一人でいるの見たって言うから」
新島が隣を歩きながら、大学に用事でもあったの? と上目遣いに言う。今日の彼女は髪を肩の辺りで二つに結っていて、いつもよりも落ち着いて見える。
「いや、散歩していただけ」
「ええっ。あの辺散歩して、楽しい? 私はもう見飽きちゃったな。何にもないし」
「うん、もう飽きた」
同じ範囲を、道を変えて、ぐるぐるぐるぐる巡っている。飽き飽きしていた。蝉はうるさく、日差しも強く、特に真新しい建物や綺麗な風景もない。袋小路に迷い込んでいるかのようで、うんざりしていた。
「飽きたのに道を変えないの?」
新島がクスクスと笑う。散歩ばかりしているせいで世川は少し日に焼けたが、新島の肌は白いままだった。
「もう、あの道じゃないと、なんだかしっくりこないんだ」
「じゃあ、今度は私も誘って」
一緒に歩けば、新しい道が開拓できるかもだし。新島が笑顔を向けてきたので、世川も「そうする」と微笑み返した。でも、きっと誘うことはないだろうと思った。
昼食を済ませ、特に予定も立てていなかったためどうするかと話していると、新島が「世川くんの家、近いんだっけ? 行ってみたいな」と提案した。
世川は断る理由を探したが、特に上手い理由を捻出できずに了承した。一ノ瀬との約束は、先にあっちが破ったのだし、反故にしたところで今の一ノ瀬はそんなこと知る由も無いのだ。
新島を玄関の外で待たせ、バケツを慎重に物置に隠してから、家に上げた。
「話には聞いてたけど、本当に、何も無いね!」
殺風景な部屋を物珍しそうに見渡す新島は、妙に楽しそうだった。
「テレビでもあれば、まだ違うんだろうけど……。ごめんね、本当に何もなくて」
「ううん、全然。新鮮で面白いよ」
新島が言葉通り愉快げにあちこちに視線を飛ばす中、世川は一ノ瀬のために置いていた灰皿代りのグラスを流し台の端に寄せた。それから道中で購入したサイダーとロックアイスを戸棚から取り出したグラスに注ぎ、新島に差し出す。彼女は礼を言ってそれを受け取ろうとする。
その時だった。新島の手に確かに渡ったと思ったグラスだが、彼女の手元が狂ったようで、中身の半分以上が世川の手と、手首にかかって、濡れた。それが、ちょうど、傷と化膿で爛れている左腕だったのだ。
新島が「ごめん!」と声を上げた。グラスをテーブルに置き、鞄からハンドタオルを取り出す。まずいと思いつつも何もできないでいるうちに、新島は世川の濡れたシャツの袖を捲り上げた。そこには、手首から関節の手前にかけて、広範囲で包帯が巻いてある。
新島は炭酸水に浸されたその包帯を、ハンドタオルでぽんぽんと抑えた。それから、「服、早く脱いじゃった方がいいよ。冷たいでしょ」と世川を見る。
心臓が恐ろしくバクバクと音を立てていた。見られてしまった。しかし、彼女は何も言わない。世川はその場で白い長袖シャツを脱ぎ、着替えを取りに行くという正当な理由でこの場を離れようとした。が、
「包帯、外して洗ったほうがいいんじゃないかな。ベタベタしちゃうから」
新島はそう言って世川が逃げるのを許さなかった。それは彼女にとっては善意かもしれなかったが、世川にとっては糾弾の準備のように思えてならなかった。
従うことも拒否することもできずにいる世川の腕をとった新島が、「外してもいい?」と聞く。いつもの優しい笑顔を浮かべていたが、逆にそれが恐ろしくて、否応なしに頷く。包帯がするすると解かれていく。
一ノ瀬以外の知人にこの傷だらけの腕を見られるのは、初めてだった。
「炭酸、しみた?」
「いや、大丈夫……」
「水で流そう」
新島は世川の手を引いて流し台に向かい、蛇口を捻る。ぬるい水道水がベタつく液体を洗い流していき、新島はその腕をまたタオルで拭く。その一連の動作を終えても、彼女は顔色ひとつ変えない。世川だけが顔を青くしていた。
「自分でやってるんだよね」
世川の腕から手を離した新島が言った。自傷行為で間違いはないかと聞いているのだ。世川は何か誤魔化す言葉を探したが、どう考えても無謀だったため、「うん」と答える。
「いつも長袖だったもんね」
彼女は自分のタオルで床にこぼれたサイダーを拭き取り、流し台ですすいで絞り、床に置いてあった鞄の中に戻す。世川はそれを止めることすらできずに、突っ立って呆然と眺めていた。
「何か、悩みとかがある……ってことかな」
新島が鞄の前でしゃがみ込んだまま、独り言のように言う。世川は、なんと返そうか迷った。そういう理由では、ないのだ。いや、きっとこの衝動が起こる要素の一つに、悩みやらの精神的な負荷が含まれているのだろうが、それだけではない。しかしそれを言葉で説明するのは到底不可能な気がした。何よりも、世川自身が何故自傷行為をするのかわかっていないのだから、他者に説明のしようがない。
酒好きな人間が酒を飲むように、ヘビースモーカーが煙草を吸うように、世川も腕を切るだけなのだ。そして、その血を、花にやるだけなのだ。
それをそのまま伝えられたらいいが、きっと頭がおかしいと思われるだろうことは世川にもわかったため、「なんというか、癖になってて」と濁した。が、言ったあとに、それすらも少し変かもなと思った。
新島は座り込んだまま何も答えなかった。世川は、もしかして泣いているのではないかと心配になり、膝をついて新島の名前を呼んだ。しかし顔を上げた彼女は、まったくの無表情だった。目が合うと、眉尻を少しだけ下げて言う。
「痛いでしょう、それ」
「うん、まぁ……」
「私、話とか、聞くから」
新島の手が、世川が床についていた手に重なる。互いに水に触れたので、どちらの手も湿っていて、少し冷たい。
「力になれないかもしれないけど、でも、支えになりたいとは思うから」
「……ありがとう」
「だから、もう、あんまりしないでほしい」
世川は息を呑む。
「自分の手でそうしてるんだとしても、世川くんが傷つくの、嫌だよ。心配だよ」
新島は、至極真っ当なことを言った。喜ぶべきだろうと思う。きっと普通は、新島のような女性にこんなことを言われたら、老若男女問わず、嬉しいと感じるはずだ。もちろん世川にも、嬉しいと思う気持ちはある。
「何でも話して。辛い時は一緒にいるから」
うん。と返しながら、物置の方に目をやった。今ここで、あのバケツの中身を見せて、あの悪癖の一部始終を説明したら、目の前の優しい少女は受け入れてくれるのだろうか。そんな訳はない。確実に、やめてほしいと言うだろう。それどころか、今この場で別れを切り出されるかもしれない。
「だから、やめてほしい」
新島がはっきりと言う。僕も、そうしたい。こんなことは、もうやめたい。と、世川は思う。本心からそう思う。
「今日はもう、帰るね。」
鞄を手に立ち上がった新島は、笑顔を作ってそう言った。世川は駅まで送っていくと言ったが、彼女はそれを「大丈夫だよ。道覚えたから」と明るく断る。
「ごめん、せっかく来てもらったのに」
「ううん、私の方こそごめんね。隠してたことを無理やり暴いたみたいで……」
サンダルを履いた新島はそう言って立ち上がり、世川を振り返る。そして「大丈夫。きっと、やめられるよ」と笑いかける。だけどその声は、まるで自分に言い聞かせているみたいに響いた。
一ノ瀬は、やめろだなんて一度も言ったことがなかったな。世川は一ノ瀬の揶揄うような笑顔を思い浮かべながら、新島を見送った。
続
店内の音や声、ドアの曇りガラスから漏れる光をぼんやりと見つめながら三十分ほど経ったかという頃、曇りガラスに人影が映り、裏口が開いて倉持が姿を表した。しゃがみ込んだ世川が黙って見つめていると、倉持が「うお」と声を上げ、世川はその声に驚く。
「何してんの……」
「倉持さんが休憩に来るのを待ってました」
「なんで」
何故だろう。世川は返す言葉を考えたが、具体的な理由は思いつかなかった。ただ、このまま倉持と別れたら、次に会う時には埋められない溝ができてしまうような気がした。
世川が黙っていると、倉持は「さっきの話なら、気にしなくていい」と言いながら、煙草に火をつけた。
「別に言いふらしたっていいしね」
「そんなことしません」
少しむきになって言うと、倉持は鼻を鳴らして笑い、煙を吸い込んで一息で吐き出した。世川は腰を上げて倉持の隣に並ぶ。
「あの、誰にも言ってませんし、言うつもりもないです」
「そんなこと言うために一時間もここにいたのか?」
「一時間も経ってるんですか?」
「もう十一時だよ」
タイムカードを切ったのは十時のはずだった。世川が「ぼおっとしてたら、すぐでした」と呟くと、倉持は煙を吐き出しながらふふと笑った。
「君がそういう奴じゃないっていうのは、わかってるよ。悪かったな、あんまり見られたくなかったし、ああいう切り出し方をされて変に警戒したんだ。経験上、見られたり気づかれたりしたら、いい反応はされないから」
「いえ、すみません。僕も、わざわざ言わなくてもいいことを」
でも、見たことを黙って倉持さんと話すの、なんだか嘘をついてるみたいで嫌で。ずるい感じがして。倉持の煙草の火を見つめつつに言う。
「浮気男のくせにぃ?」
倉持が笑いながら言う。その顔は、新宿で見た倉持の笑顔に少し近いように思えた。世川は無意識にむっとした顔をしていたようで、倉持はニヤニヤしながら「冗談だよ」と世川の肩を小突いた。
世川は息を吐き出し、フェンスに体を預ける。自分も同じかもしれないのだと、言ってしまおうか迷った。いつも相談している話の、片方の子は、実は女の子じゃなくて、男なんです。一ノ瀬という、男なんです。
しかし、それを打ち明けることで、倉持との関係がその共通点頼みになってしまうのは、嫌だった。同じだから打ち解けられたのだと、彼だけでなく自分自身にも、そう片付けられてしまうのが、たまらなく嫌だった。
倉持が短くなった煙草を吸い殻入れに落とし、「大人気なかったなぁ」と呟く。それから「ちょっと待っとけ」と言い店内に引っ込んだかと思うと、弁当を手に戻ってくる。
「これ、持って帰れ」
「いいんですか、これ、ちょっと高いやつじゃ」
「俺が持って帰ろうと思ってキープしておいたんだけど、やるよ。職権濫用だ」
シールに印字された賞味期限は、明日の朝方だった。世川は「いただきます」と、彼の夕食になるはずだった弁当を受け取る。
「前に、倉持さんの彼女は幸せだろうなって言ったじゃないですか」
「言ってたね」
「すみません、なんというか、軽率で」
「いや、いいよ。普通はそう言うだろ」
倉持は全く気にしていないという風に飄々として言った。以前、この言葉を彼に伝えた時、彼はどんな表情をしていただろうか。思い出そうとしたが、記憶の中の倉持の顔はぼやけていて、わからなかった。
俺はまだ仕事があるから、気をつけて帰れよ。そう言って倉持はかったるそうに店内に引っ込み、世川は剥き出しの弁当を手に、夜道を歩き始める。
倉持は、以前自分が放ったあの言葉に、煩わしさを覚えただろうか。何度も何度も言われて、もう慣れてしまったのだろうか。何度も言われるたびに、苦しんだのだろうか。
ふと、公園に差し掛かって、ほんの少し前にスニーカーを捨てたゴミ箱に目を向ける。今この瞬間は、捨てたいと思う物は持っていない。世川は急ぐ気にもならず、ゆっくりと足を進めた。倉持に「普通」と言われたのに、嬉しい気持ちにはなれそうになかった。
「世川くん、昨日大学の近くにいた?」
数日ぶりに顔を合わせた新島に言われて、世川はぎくりとした。
特に予定もない日は、相変わらず歩き回るようにしていた。もちろんそれで一ノ瀬を見つけられるとは思っていないが、愛美にはもうかけてくるなと電話口で激怒されたばかりだし、他に打つ手がないのだ。それに、やることがない時は歩き回るでもしていないと落ち着かない。気休めに続け、やがて、何のために歩き回っているのかもわからなくなっているところだった。
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新島が隣を歩きながら、大学に用事でもあったの? と上目遣いに言う。今日の彼女は髪を肩の辺りで二つに結っていて、いつもよりも落ち着いて見える。
「いや、散歩していただけ」
「ええっ。あの辺散歩して、楽しい? 私はもう見飽きちゃったな。何にもないし」
「うん、もう飽きた」
同じ範囲を、道を変えて、ぐるぐるぐるぐる巡っている。飽き飽きしていた。蝉はうるさく、日差しも強く、特に真新しい建物や綺麗な風景もない。袋小路に迷い込んでいるかのようで、うんざりしていた。
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新島がクスクスと笑う。散歩ばかりしているせいで世川は少し日に焼けたが、新島の肌は白いままだった。
「もう、あの道じゃないと、なんだかしっくりこないんだ」
「じゃあ、今度は私も誘って」
一緒に歩けば、新しい道が開拓できるかもだし。新島が笑顔を向けてきたので、世川も「そうする」と微笑み返した。でも、きっと誘うことはないだろうと思った。
昼食を済ませ、特に予定も立てていなかったためどうするかと話していると、新島が「世川くんの家、近いんだっけ? 行ってみたいな」と提案した。
世川は断る理由を探したが、特に上手い理由を捻出できずに了承した。一ノ瀬との約束は、先にあっちが破ったのだし、反故にしたところで今の一ノ瀬はそんなこと知る由も無いのだ。
新島を玄関の外で待たせ、バケツを慎重に物置に隠してから、家に上げた。
「話には聞いてたけど、本当に、何も無いね!」
殺風景な部屋を物珍しそうに見渡す新島は、妙に楽しそうだった。
「テレビでもあれば、まだ違うんだろうけど……。ごめんね、本当に何もなくて」
「ううん、全然。新鮮で面白いよ」
新島が言葉通り愉快げにあちこちに視線を飛ばす中、世川は一ノ瀬のために置いていた灰皿代りのグラスを流し台の端に寄せた。それから道中で購入したサイダーとロックアイスを戸棚から取り出したグラスに注ぎ、新島に差し出す。彼女は礼を言ってそれを受け取ろうとする。
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新島が「ごめん!」と声を上げた。グラスをテーブルに置き、鞄からハンドタオルを取り出す。まずいと思いつつも何もできないでいるうちに、新島は世川の濡れたシャツの袖を捲り上げた。そこには、手首から関節の手前にかけて、広範囲で包帯が巻いてある。
新島は炭酸水に浸されたその包帯を、ハンドタオルでぽんぽんと抑えた。それから、「服、早く脱いじゃった方がいいよ。冷たいでしょ」と世川を見る。
心臓が恐ろしくバクバクと音を立てていた。見られてしまった。しかし、彼女は何も言わない。世川はその場で白い長袖シャツを脱ぎ、着替えを取りに行くという正当な理由でこの場を離れようとした。が、
「包帯、外して洗ったほうがいいんじゃないかな。ベタベタしちゃうから」
新島はそう言って世川が逃げるのを許さなかった。それは彼女にとっては善意かもしれなかったが、世川にとっては糾弾の準備のように思えてならなかった。
従うことも拒否することもできずにいる世川の腕をとった新島が、「外してもいい?」と聞く。いつもの優しい笑顔を浮かべていたが、逆にそれが恐ろしくて、否応なしに頷く。包帯がするすると解かれていく。
一ノ瀬以外の知人にこの傷だらけの腕を見られるのは、初めてだった。
「炭酸、しみた?」
「いや、大丈夫……」
「水で流そう」
新島は世川の手を引いて流し台に向かい、蛇口を捻る。ぬるい水道水がベタつく液体を洗い流していき、新島はその腕をまたタオルで拭く。その一連の動作を終えても、彼女は顔色ひとつ変えない。世川だけが顔を青くしていた。
「自分でやってるんだよね」
世川の腕から手を離した新島が言った。自傷行為で間違いはないかと聞いているのだ。世川は何か誤魔化す言葉を探したが、どう考えても無謀だったため、「うん」と答える。
「いつも長袖だったもんね」
彼女は自分のタオルで床にこぼれたサイダーを拭き取り、流し台ですすいで絞り、床に置いてあった鞄の中に戻す。世川はそれを止めることすらできずに、突っ立って呆然と眺めていた。
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新島が鞄の前でしゃがみ込んだまま、独り言のように言う。世川は、なんと返そうか迷った。そういう理由では、ないのだ。いや、きっとこの衝動が起こる要素の一つに、悩みやらの精神的な負荷が含まれているのだろうが、それだけではない。しかしそれを言葉で説明するのは到底不可能な気がした。何よりも、世川自身が何故自傷行為をするのかわかっていないのだから、他者に説明のしようがない。
酒好きな人間が酒を飲むように、ヘビースモーカーが煙草を吸うように、世川も腕を切るだけなのだ。そして、その血を、花にやるだけなのだ。
それをそのまま伝えられたらいいが、きっと頭がおかしいと思われるだろうことは世川にもわかったため、「なんというか、癖になってて」と濁した。が、言ったあとに、それすらも少し変かもなと思った。
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「痛いでしょう、それ」
「うん、まぁ……」
「私、話とか、聞くから」
新島の手が、世川が床についていた手に重なる。互いに水に触れたので、どちらの手も湿っていて、少し冷たい。
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「……ありがとう」
「だから、もう、あんまりしないでほしい」
世川は息を呑む。
「自分の手でそうしてるんだとしても、世川くんが傷つくの、嫌だよ。心配だよ」
新島は、至極真っ当なことを言った。喜ぶべきだろうと思う。きっと普通は、新島のような女性にこんなことを言われたら、老若男女問わず、嬉しいと感じるはずだ。もちろん世川にも、嬉しいと思う気持ちはある。
「何でも話して。辛い時は一緒にいるから」
うん。と返しながら、物置の方に目をやった。今ここで、あのバケツの中身を見せて、あの悪癖の一部始終を説明したら、目の前の優しい少女は受け入れてくれるのだろうか。そんな訳はない。確実に、やめてほしいと言うだろう。それどころか、今この場で別れを切り出されるかもしれない。
「だから、やめてほしい」
新島がはっきりと言う。僕も、そうしたい。こんなことは、もうやめたい。と、世川は思う。本心からそう思う。
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