バケツ

高下

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十六、

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「君、まだこの間のこと引きずってる?」
店の冷蔵ショーケースから下げた惣菜の容れ物を黙々と洗っていると、珍しく厨房に出て勤務していた倉持が声をかけたきた。世川はスポンジを握りしめた泡だらけの手を止めて考え、数日前に彼と裏口で話した時の光景と、剥き出しの弁当の記憶が、ダイジェストのように蘇った。
「いや、そういうわけじゃ」
「だったらいいけど。なんか今日、ぼおっとしてるだろ」
その日は日曜で、平日の夜ほどの混雑はなかった。それゆえに、世川は先日の新島との会話を、別れ方を、幾度も頭の中で反芻し、その度に強烈な自己嫌悪と羞恥とに襲われ、嫌な汗を滲ませていた。
「聞いてくれますか」
世川が相談を持ちかけようとすると、倉持はそれを察して「うわ、言わなきゃよかった」と嫌な顔をしてその場を離れたが、すぐに使用済みのトングや皿を持って戻ってくる。それから廃棄のハムカツをレジ前で暇そうに立ち尽くしている高校生バイトに手渡し、自身もハムカツを齧る。
「で、何かあったの」
萎びたハムカツを咀嚼しながら倉持が促すので、彼女にある秘密がバレてしまったという話をかいつまんで伝える。その秘密が自傷だということは伏せたが、倉持はその話を聞いても「君、浮気以外にも隠し事があるのかよ」と面白がっているだけで、それ以上は追求してこなかった。
「逆に、君が彼女に見せている部分に、本当のことってあるわけ?」
「普段いっしょにいる時は、本当のはずです……」
「本当にぃ? いい顔ばっかり見せてるんじゃないの」
「そんなことは……」
ない。とは、言い切れなかった。皿を必要以上に丁寧に洗いつつ、七部丈の制服の袖から覗く黒いサポーターに視線を落とす。本当の自分とは一体どれだろうか。アルバイトをしている時の自分、大学にいる時の自分、新島と過ごしている時の自分、それから一ノ瀬といる時の自分。全てが少しずつ違う気がした。
「倉持さんは、付き合ってる人には本当の部分しか見せていないんですか」
念の為声を潜めてそう言うと、彼は「さてね」と言ってスポンジと皿で手の塞がっている世川の口にハムカツを咥えさせ、さっさと明日の仕込みを始めた。


新島の態度は、以前と変わらないように思えた。腕について聞いてくることもなければ、過度に気遣ってくることもない。だけどその「いつも通り」そのものが彼女の気遣いから成るものだと気づいてから、世川は自分がどう振る舞うべきか、今まで彼女の前でどう振る舞っていたのかわからなくなり、日々精神を消耗していった。
聡い新島はすぐにそんな世川の様子に気付き、あまり気にしなくて良いだとか何かあったら話しを聞くだとかの優しい言葉をかけ、世川に寄り添う姿勢を見せた。献身的な彼女に感謝し、必ず報いたいと強く思ったが、しかし、それがプレッシャーとなり余計に身の振り方がわからなくなってギクシャクする悪循環にハマっていく。
腕を切ることだけでもやめられたらまだ良かったが、それすら出来ず、バケツの中の赤黒い液体は日に日にかさを増す。
「ごめん、僕、おかしくて」
ふと、世川がそう呟くと、新島は微笑を崩すことなく「おかしくなんてないよ」と世川の手を握る。
「おかしくないよ、大丈夫だよ」
「新島さんは、僕なんかの、どこが好きなの」
「言ったでしょ、全部だって。ね」
新島は、血色の良い顔で優しく微笑む。世川は細くて柔らかい指を握り返した。その指は少し力を込めれば折れてしまいそうなほどに脆いと感じるのに、新島の表情からも口調からもその脆さは感じられず、むしろ豪然とした意思のようなものが華奢な身体の奥深くで燃えているように思えて、世川は畏怖にも似た感情を覚えた。
少なくとも、もう、全部ではなくなったはずだ。だが、「だから、大丈夫だよ」と世川に向けられる慈愛に満ちた瞳を前にすると、それ以上考える必要はどこにもないのだと思えてきて、世川は思考を放棄する。


蒸し暑い夜だった。風呂から上がって髪を乾かし、ぼんやりと網戸の向こうの闇を見るめていると、電話が鳴った。新島からかと思い受話器を上げると、「世川さんですか!?」と聞き覚えのある声が聞こえ、その人物はアルバイト先の店名と自分の苗字を早口で名乗った。弁当屋のアルバイトの男子高校生だった。
シフトを飛ばしたのかと思っていると、受話器の向こうの彼は
「倉持さん今日で最後だって知ってました?」と焦った声で言う。
「最後って、え、辞めるの?」
「やっぱ聞いてないですよね? そうなんですよ、今日で最後って、もうお店出ちゃいそうで。結婚して地元に戻るとかで……」
アルバイトは誰も聞いてなかったし、世川さんもきっと聞いてないだろうと思って連絡しました。した方がいいと思って。そう言う彼に礼を言って、すぐに家を飛び出した。
もう外に出る予定はなかったため、手首も腕も剥き出しの状態だったが、気にしていられなかった。裸足にスニーカーで全速力で走る。店の前につくと、ちょうど電話をくれた高校生が出てきたところで、「ついさっき出て行っちゃいました」と駅の方を指さした。
「ありがとう!」
言いながら駆け出し、駅へと続く狭い道を走っていると、見覚えのある背中があった。息を切らしながら名前を呼ぶと、振り返った倉持は驚いたように目を丸くした。その手には、大きな花束が抱えられている。
「辞めちゃうんですか、さっき、聞いて。結婚するって」
息も絶え絶えになんとかそう伝えると、倉持は「あのガキだな」と店の方を見て意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「何で、黙って行っちゃうんですか」
「だって君、絶対しんみりするだろ。俺そういうの嫌だし」
「しないですよ」
「今、既にしそうだけどな」
世川は息を整え、口を結んで倉持を見上げる。批判的な視線を受け取った倉持は、「ほら」と可笑しそうに笑う。その笑顔が妙に清々としたものに見えたのは、彼が抱える鮮やかな花束のおかげだろうかと頭の片隅で考えた。
「何でそんな、急に」
「急って訳でもないさ。結構前から決まってはいたんだ」
結婚がですか? と世川が言うと、倉持は「そう」と何でもなさそうに答える。どうして、と世川は口の中で呟く。
「だって、倉持さんは、その、付き合ってる人が……」
世川が口籠ると、倉持は
「一本付き合ってくれるか」とポケットから煙草を取り出して、パチンコ屋の近くにある寂れた喫煙所を指さした。世川は黙って頷き、倉持に続いて薄暗くて埃っぽい喫煙所の敷居を跨ぐ。先客が使っている灰皿から一つ離れたスタンド灰皿の前で彼は足を止めた。
「会うのも多分最後だし、君にだけ言うから、後で全部忘れて欲しい」
言って、倉持は片手で花束を持ち、片手で煙草を取り出して咥える。世川は彼のポケットからライターを取り出して火をつけてやり、無言の同意をする。
「地元の母親の希望なんだよ、結婚して孫を見たいっていうのは。もうずっと昔からさ」
「……地元ってどこなんですか?」
「沖縄」
沖縄!? 驚く世川を見て倉持はうんざりした調子で言う。
「見えないだろ。しかも、相当な過疎地でさ。俺はガキの時からどうにも周りのやかましくて図々しい連中に馴染めなくてな。しかも暑いのも嫌いだし。それで十九の時にこっちに出てきたんだ」
馴染めないだろうことは、倉持と関係の浅い世川にもなんとなく想像はついた。十代の倉持が飛行機に乗り、一人で上京する姿を想像する。きっと不機嫌な顔をしていたのだろうと思う。
「うちは母子家庭で、親族の付き合いもほとんどなかったんだ。でも大して迷うこともなく母を一人残してこっちに出てきた。後悔もほとんどしてない。はずだったんだけど、少し前に母に癌が見つかってさ、胃癌。しかもステージ三だってさ。五年後に生きてる確率は五十%らしい」
内容に相応しくない、抑揚のない機械的な声で、彼はつまらなそうに経緯を語る。世川は特に口を挟まずにそれを聞く。そうすることを求められている気がした。
「まぁタイムリミットだなと思ってね。母の希望で見合いをして、相手もいい人だったよ。俺のことも好いてくれてるしな。若い時自由にやった分、ここらが潮時なんだろうなって、こう、すとんと理解したんだよ。別にやりたいことがあって上京したわけでもないからさ。それで、地元に戻って落ち着くことにした。そういう感じ」
倉持が逆さに持っている花束から、花弁が一枚地面に落ちた。血のような濃い赤だった。
「付き合ってた人は、なんて言ってるんですか」
「わかってくれたよ」
「でも、いいんですか。だって、あんなに楽しそうに……」
笑い合っていたのに。と続けようとして、口をつぐむ。何を言ったところで、それは彼にとって、タチの悪い雑音にしかならないだろう。
「あいつはさぁ、六年前に知り合って、五年ぐらい付き合ったんだ」
倉持は世川の考えを見透かしたかのように、相手のことを話し始める。少しだけ声が優しくなった気がしたが、世川がそう思いたいだけのような気もした。
「まぁ、本当は今の関係がずっと続けばいいと思ってはいたけどさ、そうもいかないだろ」
「どうしてですか」
倉持は煙を吸い込むためか、少しの間沈黙する。それから「無鉄砲になりきれなかったんだな、俺が」と口を開いた。世川はその言葉の意図が読めずに首を傾げる。
「まぁ、そうだな。俺は唯一の肉親を捨ててまであいつを取ることができなかったってこと。そういう選択肢もあったはずなのにね」
言って、火を揉み消した煙草を灰皿の中に捨てる。吸い殻の山に飲み込まれた煙草を見送った倉持は、ふと世川の方に顔を向ける。
「それにな、相手、既婚者なんだよ。君には色々言ったが、俺だって大概碌でもないんだ」
世川は面食らって驚きの声も出せなかった。倉持は晴れやかな笑顔で「こんな仕事さらさら続ける気もなかったしな。結婚相手は小さい会社の社長令嬢で、コネで入社させてもらえんだって。ラッキー」と言い、花束を抱え直した。世川は文句の一つでも言ってやろうかと思い、呆気に取られて思考停止した脳を働かせようとした。すると、倉持はその花束を世川に突き出す。
「あげる、これ。いらないから」
「え、あ、はい」
思わず受け取ると、倉持は満足そうな顔をする。
「君の恋愛沙汰は最後まで聞いてやれないが、まぁ大丈夫だろう。意外と肝が据わっているから」
喫煙所を出ると倉持は、「じゃあな」と手をあげて歩き出す。世川は花束を抱えて離れていくその後ろ姿を見送っていたが、不意に「倉持さん!」と名前を呼んだ。彼は立ち止まって振り返る。
「あの、僕が話してた好きな奴っていうのは、本当は、女の子じゃなくて、男なんです」
最後の最後で何を言っているんだろうと、自分でも思った。しかし、ぽかんとした顔をしていた倉持がすぐに声を出して笑ったので、これで良かったのだと思った。自然と頬が緩むのを自覚する。
「会えてよかったです。お幸せに」
「君もね」
きっと今生の別れだ。世川は振り返ることなく駅の構内に飲み込まれていく倉持の姿を見つめていた。彼の姿が見えなくなってからも暫く、その場に立ち尽くしていた。
気を抜いたら涙が溢れる予感がして、世川は不似合いな花束を抱えたまま奥歯を強く噛んだ。これが喪失感というものなのだと、抗いようもなく思い知らされていた。
生きていたとしても、もう二度と会えなくなる人もいる。親しい人間との明確な別れを共有し、その事実を初めて身を持って知った。
世川は小さく深呼吸をして、踵を返して帰路を辿り始める。例えばその相手が一ノ瀬だったら。そう考えると、耐えられない。世川は花束を抱える腕に力を込めた。青っぽい匂いが鼻をつく。
一ノ瀬と今生の別れが存在するとしたら、それは死ぬ時でないといけないと思った。

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