ほのぼの夫婦の不思議な一日

牧野きうい

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前編

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 私には未だに分からない事がある。

 それは三歳年上である私の旦那様が、何故私を生涯の伴侶に選んだかという事だ。

 私は自慢じゃないが、軽く標準体重を超える。

 BMIは25と数値の上ではギリギリ肥満ではないがお腹は出てるし、胸は太っているからそこそこあるものの、重力に負けたのか最近下垂し始めている。

 髪の毛はチリチリの天然パーマで、湿気を感じた日にはすぐに爆発してしまう。
 これで顔が可愛ければ、散々あげつらった欠点も帳消しになるとは思うが、私の顔は至って平凡で普通だ。

 主人たっての希望で専業主婦をしているが、ハッキリ言って家事は得意ではない。
 しかし、主人が家事の事には一切口出しをしないし、文句を言われた事も無い。

 朝ご飯は簡単なものでいいと言ってくれるし、お昼は社員食堂で食べるからお弁当はいらないと言うし、夕飯は私の作ったものを好き嫌いなく美味しそうに食べてくれる。

 仕事は一緒にした事がないから分からないけど、上司からは信頼され、部下からは慕われ、仕事もできると聞いている。そんな彼の役職は現在係長である。



 これで顔でも不細工であれば私の疑問もそこそこ解決するのだが、そうではない。
 目の覚めるイケメンという訳ではないが、十分顔は整っている。

 切れ長の目にスッと通った鼻筋、少し薄めの唇に形のいい顎。顔の大きさは私よりも小さく、髪の毛もサラサラで禿げる気配は皆無。
 優しくて穏やかな性格をしており、人の悪口は絶対に言わない。

 ……これって相手が私じゃなくてもいいんじゃないだろうか。



 クローゼットの奥にあった秘蔵のAVをこっそり観たことがある。
 顔が綺麗で腰が細く、胸も大きい人が画面に大きく映し出されていた。色っぽく喘ぐ姿はとても艶めかしくて、こんな人が好みなんだと思い落ち込んだ事は記憶に新しい。



 私は食べると直ぐに太ってしまう体質だが、食べる事が好きなのでなかなか痩せなかった。主人が「そのままでいいよ」と言ってくれているのでそれに甘んじてしまっている。
 もう完全にぬるま湯に浸かってしまっていて抜け出せないようになっている。

 これで別れを切り出されたらどうしようと思い、常にビクビクしてるような気がする。
 彼はそんな事を言い出さないと分かっていても、いつかこんな私に嫌気がさしてしまうのではないだろうかととても不安なのである。



 ある日の夕方買い物をしていると、携帯に主人から連絡があった。
 今夜は後輩達と飲みに行くらしい。珍しいな。週末だから偶にはそんな日もあるよね。
 帰りに迎えを頼んでもいいかと遠慮がちに書いてあった。私が主人の役に立つ事など滅多にないので、快く引き受けた。

 飲みに行く店はまだ決まってないので、後で時間も合わせて連絡するとの事。かなり私に対してマメである。うん。浮気の心配も無さそう。だから余計に私でいいのかと思ってしまう。

 今晩はお鍋にしようと思っていたけど、明日に回そうか。今日は何を食べよう?
 一人だからお弁当でも買って帰ろうかなと思い、安い中華弁当をひとつ買った。



 いつも買い物へ行く大型スーパーは歩いて5分程の所にある。とても便利なところに住んでいるが、この新居を決めたのも主人である。なんてできた夫か。

 買い物を済ませ歩いていると、どこからか声が聞こえてきた。


「お嬢さん、お嬢さん」


 若い男の人の声のようだ。声が遠かった事もあり、誰を呼んでいるかは分からないが少なくとも相手が私ではないだろうと判断し、通り過ぎようとした。


「ねえ、お嬢さん」


 いきなり肩を叩かれて、思わず「ぎゃあ!」と叫んでしまった。


「酷いなあ。しかも色気ない声」

 
 イヤイヤ、脅かすアンタが悪いんでしょうがと言いたかったが私も大人だ。ぐっと堪え、「何か御用でしょうか」と恐る恐る振り返った。
 するとそこにはいかにも怪しい風貌の若い男が立っていた。

 緑色のハンチング帽に丸いサングラス。左耳にすごい数のピアスをつけ黒いジャケットを羽織っている。帽子から見える髪の毛は真っ赤だ。
 いや、これ関わったら駄目なやつだ。逃げるが勝ちと走り出そうとしたその時、指輪だらけの手が私の腕を掴んだ。


「ヒィィィィ! お金は持ってません!」
「いやいや。悪いようにはしないから話だけでも聞いて行ってよお嬢さん」
「お嬢さんって歳ではありません。布団も壺もいりません! 離してくださいぃ」

 細身なのに力が強いのはやっぱり男の人だからなのか。ちょっと暴れてもなかなか解くことができないでいた。


「ますます酷いな。押し売りなんかしないって」


 そんなもの信用できるか!


「ちょっとこっち来てよ」

 と言ってズルズルと引っ張られ、怪しい路地裏に連れて行かれた。
 もうおしまいだ。ヤられる!男って穴があればいいのか!
 人でなし!と叫ぼうと思っていたら掴んでいた腕をやっと離してくれた。


「ね、お嬢さん。何でも願いが叶う石鹸いらない?」
「は?」


 ハッキリ言って訳が分からない。いや、それはさっきからなんだけれども更に訳が分からないんだけど。


「これね、体はモチロンの事、顔にも使えるしなんと髪の毛にも使えちゃうんだよね~。ピッカピカ、つっやつやになるし願いも叶うし一石何鳥? 十鳥くらいあるかもねっ」


『ねっ』っていう問題じゃないと思うんだけど。


「いりません」
「いやいやいや。そんな速攻で返事しなくてもっ」


 そんな話聞いて買う人いないでしょ。怪しすぎる。早く解放して欲しい。


「と言うわけで、それじゃ」


 自然な感じでその場を離れようとしたのに、その人は許してくれなかった。


「待って待って。初回は無料タダでいいからさ。はいこれ」


 再び腕を掴まれ、手のひらの上にポンと四角いものが置かれた。外国の新聞のような包装紙で丁寧に包まれているようだ。微かに香水のような匂いもしてくる。
 只より高い物はないって言うよね。やっぱり怖いから返そうと思い顔を上げるとそこには誰もいなかった。

 途中で捨てる訳にもいかず、そのまま持ち帰ってしまった。リビングのテーブルに石鹸を置いて考えてみたが、知らない人から物を貰って良かったのだろうか。子供でも受け取ったりしない。でも捨てると何だか呪われそうだし……。取り敢えず洗面所にでも置いておこう。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 午後十時。主人から連絡があった。場所はここから車で三十分ほどの居酒屋だ。
 私は自家用車である黒のミニバンに乗り込んだ。
 この車は主人が独身時代から乗っている車である。

 夜の道は空いていてスムーズに進み、目的地に着いた。
 少し早めに着いた事もあって直接迎えに行こうと思い、近くのパーキングに車を放り込んで店まで歩いた。

 するとちょうど主人が居酒屋から出てきたところで、後ろから主人の後輩らしき男女も四、五人出てきた。
 皆出てきてからも楽しそうで、「次行こー」とか「カラオケー」とか言って盛り上がっていた。
 一早く主人が私に気が付くと、嬉しそうに近寄ってくる。


「いいタイミング。お迎えありがとう」


 赤ら顔でくしゃっと可愛くほほ笑むその顔は私の萌えポイントだ。


「あ~っ! 係長の奥さんですか? お迎えいいなあ」
「ほんとっ。ラブラブですね~」
「あーっ。奥様。係長にはいつもお世話になっております。お綺麗ですね~」


 主人の後輩達は見事に酔っぱらっており、誉め言葉なんてお世辞だろうと思いながらも内心悪い気はせず、愛想よく挨拶を返しておいた。


「ハイハイ。これにて解散。各自帰るなり次に行くなり好きにしてね。お疲れさん」
「「「「はい! 係長、ごちそうさまでした!」」」」
「いえいえ。また月曜日に。あまり羽目を外し過ぎないように」


 どうやら後輩たちは今からカラオケに向かうようだ。若いっていいなあ。飲んだ後で歌うパワーは今の私には無い。


「さて。帰ろっか。車どこに止めてるの?」
「近くのコインパーキング。すぐそこ」
「分かった。行こう」


 主人は私の手を取りギュッと握ってくる。すぐだって言ったのに、何でこの人はいつも手を繋ぎたがるんだろう。
 酒に酔った主人より私の顔の方が赤くなってるような気がする。暗くて良かった。

 車に乗ると隣の人はすぐに眠ってしまった。お酒にはあまり強くないので、飲みに行く事態も珍しい事ではある。週末なので仕事の疲れもプラスになっているのだろう。規則的な呼吸が聞こえてくる。
 家に到着してからもそのままだったので、気持ちよさそうに眠っていたところ申し訳なかったが、軽く揺すって起こした。


「着いたよ起きて。お風呂入る? 眠たいなら明日にする?」
「いや大丈夫。気持ち悪いから入るよ」
「シャワーだけにしといてね」
「うん」


 家に入ってから主人はすぐにシャワーを浴びに行った。
 こんな時でも自分の着替えをきちんと持ってきているのが主人らしい。

 しかしやっぱり随分疲れが溜まっていたようで、風呂から上がると髪の毛も乾かさずにそのまま寝てしまった。まあ髪の毛短いから大丈夫かな。
 シーズン的には少し早いけど、朝晩は冷えてきたしエアコン入れておこう。
 エアコンのスイッチを入れ温度を調節してから私も浴室へ向かう。

 脱衣所で服を脱いでふと鏡を見るといつもの自分が写っていた。主人の後輩からお世辞でも綺麗と言われて少し浮き上がっていた心が一気に沈んでしまった。

 ふと今日強引に渡された石鹸に目をやる。これを使えば何か変われるだろうか。
 騙されたと思って使ってみる事にした。

 薄紫色をした四角い石鹸を泡立ててみると、クリーミーできめ細かな泡がすぐにたった。香りはラベンダーに近いだろうか。割と好きな匂いだ。
 顔にも髪にも使えると言っていたので、くまなく全身を洗う。
 そして泡を流すと、肌がツルツルになった。すごい。髪の毛は乾かしてみないと分からないけど、この肌感はじめてかも。

 ドライヤーをかけていると髪の毛もツヤツヤになっている事が分かった。
 怪しいお兄さんごめんなさい。お兄さんの言ってた通りだった。あの態度はなかったんじゃないかとは思ったがどう見たって不審人物だったし、やっぱり私は間違ってなかったと思い直した。

 ふと鏡を見て「あれ?」と思った。
 もちろん写っているのは私だ。それは間違い無いのだが。見間違いかと思い目をゴシゴシしてみると鏡の中の自分も同じ仕種をする。

 顔が若返ってる……?それだけではない。身体を見下ろすと胸は大きいのに形が良く上向きにツンと上がりキャミソールを押し上げている。腰はキュッとくびれ、お尻は私が理想とする程よい大きさで引き締まっている。そう言えば下着がちょっときつくなっている?足はスラっとしているが細すぎない。おまけに肌はツルツルだ。

 夢でも見ているのだろうか。こんなにスタイルが良くなった事なんて一度もない。
 突然ハッと思い出した。あの怪しいお兄さんは何て言った?


『何でも願いが叶う』


 そんな眉唾物の話を誰が信じると言うのだ。しかしこれは。
 私があのセクシー女優のようなスタイルだったら、との願いを叶えてくれたのかも……。

 その場であーでもないでもこれはこーでもないとやってるうちに冷えてしまったようで、ひとつ大きなくしゃみをして我に返った。

 ドキドキしながらベッド寝ている主人の隣に入る。
 結婚する時に主人が選んだダブルベッドで、寝相が悪いからシングル二つを買おうとする私の反対を押し切って買ったものだ。
 今の私だったら自信が持てるかもしれない。この身体だったら喜んでくれるかもしれない。情熱的に愛してくれるかも……。

 と思っていたら主人がもぞもぞと動いた。どうやら私がベッドに入った事で起きたらしく、こちらを向き寝ぼけまなこで私をじっと見ている。


「ん。お風呂入ったの? いいにおいがする」
「う、うん」


 すると主人は私を思い切り抱き締めてきた。そして首元の匂いをスンスンと嗅ぐ。
 これは付き合い始めてからずっとやってる主人の癖だ。こうやっていつも私の匂いを嗅ぎたがる。いつまで経っても慣れないんだけど。

 しばらくそうしていたが、徐に顔を上げこう言ったのだった。


「君はだれ?」
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