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掃除人と血濡れの名前

1.

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 電話が、鳴っている。

 龍樹たつきの端末を鳴らすことができる人間は多くない。正確に言うならば仕事先の人間と、相方である幼馴染しかいない。

子犬のワルツle Petit chien』の着信音が響く時は、その幼馴染からの電話だ。
「……どうした」

 今日は大型連休のど真ん中。広いマンションで独り暮らしをしている龍樹の睡眠を妨げる物など何もなく、龍樹はひたすら惰眠を貪っていた。龍樹の行動パターンを大方把握している幼馴染にして相方のあやは、滅多なことでは龍樹の睡眠を邪魔したりはしない。よほどのことがあったのだろうということは、電話に出る前から分かっていた。

 端末の向こうにいるのであろう綾はなかなか言葉を発しようとしない。しばらく辛抱強く待ったが、声が聞こえてくる気配はなかった。

「……綾?」

 そっと呼びかける。耳を澄ませば吐息が震える音が聞こえてきた。

 龍樹はベッドの上に体を起こすと、瞳をすがめて端末を握り直す。

 普段は無邪気な女子高生でも、綾は場数を踏んだ掃除人だ。滅多なことでは取り乱さない。その綾が、状況を説明する言葉を口にできないくらい混乱している。

「……綾、大丈夫だ。俺がいるから」

 龍樹は意識して穏やかに聞こえるような声音を作り出す。実際に綾を目の前にしていたら綾を落ち着かせるためにできることはたくさんあっただろう。だが電話越しではじっと綾の言葉を待つこと以外にできることはない。

「何があっても俺はお前の味方だから。……言ってみろ。何があった」
『……………っ、が……っ!!』

 ようやく聞こえた綾の声はまるで悲鳴のようだった。かすれた叫び声が龍樹の耳を叩く。

『彼岸花っ、が……っ!!』

 その言葉に龍樹は目を見開いた。

『買い物から、帰ってきたら……っ!! い、家中に…ばらまかれてて……っ!!』
「色は」
『し……しろ……………っ!!』

 掃除人に片付けられた人間の傍らには彼岸花が添えられる。その花は真実の解明を拒む証。国の指令である以上、一般人がとやかく口を挟む余地はないのだとその花は見る者に無言で語りかける。

 その花の色は血の色を映したあか色だと相場は決まっている。だが例外がないわけではない。そのことは誰よりも掃除人当人達が良く知っている。

『どうして……っ!? 私、仕事失敗してないよっ!? 今の生活に文句なんてないっ!! なのに……どうしてっ!!』

 白の彼岸花リコリス

 それが行使される現場を見るのは、掃除人のみ。

『どうして私が片付け者に指定されてるの……っ!?』

 始末予告。

 掃除人とは世に不要とされた人間を片付ける国家直属の殺し屋。国家人口管理局『リコリス』に鎖でつながれ、普段人を片付ける側に立っている彼らは、その鎖から解き放たれれば一気に片付け者のトップへ躍り出る。

 掃除人という肩書きがあるから人に後ろ指指されないだけで、やっていることは巷の殺人鬼と同じなのだから。

 白い彼岸花リコリスは掃除人から片付け者へ堕ちた人間の元に送られる花だ。

『いや……っ!! 嫌だよたっちゃんっ!! 私、死にたくないっ……死にたくないよっ!! 殺されたくなんかないよ……っ!!』
「……っ!!」

 綾の相方は龍樹だ。万が一綾の仕事に過失があったというならば、龍樹がその一部始終を知らないはずがない。そして原因の一端は必ず龍樹にあるはずだ。綾の単独行動はから、綾単体で責を負わなければならないような状況には決してならない。綾が掃除人として動く傍らには必ず龍樹がいるからだ。

 だが龍樹の記憶のどこをさらっても綾が責を問われるような事件は起きていない。そして何より、龍樹の元へは白彼岸の花びら一枚でさえ届けられていない。

『助けて……たっちゃん』

 ――敵の狙いは、おそらく……

 龍樹は静かに瞳を閉じた。

 耳を澄ませば、綾が吐息だけですすり泣いている声が聞こえる。その小さな涙一つ一つが、龍樹の心に大きな波紋を生み出していく。

「綾」

 ――何もかもを失っていた。この世に生を受けた時から、自分には何も与えられていなかった。

 そう思い込んでいた龍樹を優しく包み込み、ここまで生かしてくれた人達がいた。その縁を最初に紡いでくれたのは、間違いなく綾だ。

 確かに自分には何も与えられていなかったかもしれない。今まで生きてきた時間の中でも、得ることよりも失うことの方が多かったような気がする。
だからこそ。

「大丈夫だ、綾。お前に瑕疵は一切ない。俺が保障してやる。これは、間違いだ」

 だからこそ、この両手の中に残ったたった一つの大切な存在ヒトを奪おうとする存在モノは、誰であろうと、何であろうと、龍樹は許さない。傷つけられることも、脅かされることも、許すつもりはない。

文也ふみやさんは、どこにいる?」

 急な話題転換についていくことができなかったのだろう。綾からの返答には一瞬不自然な間が開いた。

『昨日からお母さんについて、病院に……』

 その言葉に龍樹は内心で思わず舌打ちを放った。

 綾の義父・文也はかつて『血濡れの彼岸花』と恐れられた屈指の掃除人だ。せめて文也が傍にいてくれれば下手な掃除人など恐れることはなかっただろうに。

「呼び出せないのか?」
『ダメッ!! もしもお母さんにこのことを知られちゃったら……っ!!』

 綾の義母・春日かすがは医者でさえ匙を投げる末期患者だ。文也に連絡を入れれば、春日は必ず異変に気付く。余計な心配はかけたくないという綾の心境も理解できなくはない。

「……分かった」

 文也の助力は期待できないとなれば、即急に片を付けなければならない。

 綾を安心させるために『間違い』と断言したが、龍樹の予測が正しければ白彼岸の予告自体は決して間違いではないだろう。綾は処刑台への招集を予告されている。ただその招集はリコリス本庁から公式に通達されたものではない。誰かの私欲から発された、いわば権力争いの一つの余波。

 さらに言えば、相手は綾を殺すことではなく、この状況を作り出すこと自体を目的としている。鈴見すずみ綾をいたぶることで、龍樹を苦しめることが真の目的だ。恐怖におびえる綾を救えないまま殺されて、精神的に龍樹が死ねば上々といった所だろうか。

 敵の狙いは遠宮とおみや龍樹。この状況からそう考えておそらく間違いはない。届けられたのが本物の白彼岸だったら、こんなまどろっこしい状況は生まれない。それは誰よりも龍樹自身が一番よく知っている。

 龍樹を痛めつけるために、龍樹の掌中の珠とも言える綾に狙いを付けた。つまり敵は、を知っている、そこそこに上層部に食い込む連中の内の誰かということになる。あまりのんびり構えている余裕はない。

「俺がリコリス本庁に問い合わせる。予告は十中八九間違いだが、気の早い連中が勘違いしたまま動く可能性はある。お前は安全な場所に隠れておけ」
『わ……分かった』

 電話の向こうで綾がコクリと喉を鳴らしたのが分かった。

「……綾」

 その瞬間、スルリと龍樹の唇から無意識の内に言葉がこぼれた。

「全部終わったら、俺とお前にしか分からない方法で呼ぶ。……大人しく、隠れてるんだぞ」
『……うん』

 電話は綾の方から切れた。無機質な音だけが綾との会話の余韻を残す。

 龍樹は溜め息をついてから端末を放り投げた。ポスン、と音もなくシーツの海に埋もれた端末を見つめている間に、自分の瞳から感情が抜けていくのが分かる。

 ――助けて……たっちゃん

 耳の奥で反響する、涙で濡れた声。

 顔からは表情が抜けていくのが分かるのに、心の奥底には反比例するかのように冷え冷えとした殺意が込み上げてくる。

「……―――――」

 龍樹はベッドを下りると、服を脱ぎ捨てながらクローゼットを引き開けた。その勢いのまま、最奥に仕舞い込み普段はなるべく触れないようにしている服を引き出す。

 シャツの色は白。首を絞めつけるネクタイは漆黒。その上に礼服と呼ぶには重苦しく、喪服と呼ぶには豪奢な黒衣を纏う。

 ひとつ黒を纏うごとに揺れていた心が凪ぎ、シンと研ぎ澄まされた殺意だけが内側に降り積もっていく。

「仕事だ」

 漆黒よりもなお深い闇色の仕事服に身を包んだ龍樹は、玄関へ歩を進めながら無造作に片手を翻した。チェストの刀架に乗っていた一振りの日本刀が過たずその手の中へ納められる。

『赤』の血濡れ名を持つ掃除人・赤椿あかつばきが、目を覚ます。

使、このクズどもが」




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