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しおりを挟む「発注は、ギャンブルです」
僕にいきなりリンゴジュースを差し出したその人は、無表情のままそんなことをのたまった。
『産地直送生絞りジュース』と書かれたラベルの隣には、デカデカと『150円引』というシールが貼られている。ちなみに消費期限は一週間前の日付だった。よくぞこんなに古い在庫が店に残っていたものだと、僕は一瞬、話の本筋から外れたことを思う。
「来店予想客数、昨対、PI値、天気予報、イベント情報、テレビCM予定……。色んな情報を根拠に論理的に考えてはみても、結局最後に物を言うのは発注者のカンである上に、根拠となる数も結局、予想やら過去のデータでしかない。裏切られることなんて、当たり前なんです」
廃棄品のリンゴジュースを実に美味しそうに飲み干した彼女は、淡々と僕に語りかけながらもじっと僕の手元にあるリンゴジュースに視線を落としている。僕が口をつけないことに不満を感じているのか、はたまた飲まないなら譲ってほしいと思っているのか。イチミリも動かない表情からその内心を察することはできなかった。
「だから、発注はギャンブルなんです。D2発注と呼ばれる、我々農産の発注は特に。週間発注やらチラシ特売シートに至っては、もう完全に机上の空論で数字を入れるしかない」
視線が気になった僕は、手の中にある大瓶を左右に動かしてみた。彼女の漆黒の瞳は、そんな僕の手の動きをとても素直に追ってくる。
「ただ、このギャンブルのいい所は、自分が負けても自分の財布に一切ダメージがないことですね。店の金で博打を打っているようなものですし、おまけに店は我々にその博打を大きく打てと言っているようなものなんですから」
その視線の動きから彼女が『飲まないなら譲ってくれ』と視線で訴えているのだと判断した僕は、受け取ったばかりのリンゴジュースの瓶を彼女の手の中に返す。一度目を瞬かせた彼女は素直に瓶を受け取るとキュリッといい音をさせながらアルミ製のキャップをひねった。800mlの大瓶に直接口をつけてリンゴジュースをあおった彼女は、無表情のままわずかに目元を和らげて僕に視線を据え直す。
「だから、仕事に対する心構えなんて、そんな程度でいいんです」
それがリンゴジュースに満足したからこその変化なのか。
あるいは、僕を安心させるために笑みかけてくれたのか。
「……いいん、ですか?」
僕はこの時初めて、まともに口をきいたのだと思う。
そんな僕に、ステンドグラスの下に腰を下ろした彼女は、無表情のままゆっくりと首を縦に振った。
「ええ、いいんです」
仕事着のまま、頭には目深に被せられた作業帽子。表情は無表情のまま目元にだけわずかに笑みを浮かべて。
この時の彼女が、なぜか教会のマリア像に似ていると思ったのは、きっとステンドグラスが差し込む光がキラキラと輝いていたせいだ。
「ゆるゆると、ここで新たなスタートを切りましょうね」
僕は、その言葉に泣いていた。
まだまだ残暑が残る九月の暮れ。
僕は、彼女の言葉とともに、新社会人としての再スタートを切った。
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