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己を知らぬ大魔法使い
39、この先見えない樺色の空気の話をしよう
しおりを挟む乱れた息が漂う室内。大きな塊の周りには、数刻でハギレ同然になってしまった鉄紺の元ジャケットが散らばる。笑うのにも呆れるのにも疲れてしまったカルドネは、大きく息を吸い込み、迷える思考を手放した。肋と背骨がミシミシと音をたて、それを受け入れる。ただそれだけの単純な作業が瞼を重くさせ、大波のような眠気を誘う。
カルドネはゆっくりと全身の強張りを緩めた。
「{しまった、サボってしまった}」
普段はシャツの胸ポケットに懐中時計を入れている。今も当然のように胸元を弄った。しかし無意識に定位置をすり抜けた手が、肌着の隙間を通過した。
剥がれた服は今頃どこにあるのだろうか、泥に沈みこむ様な倦怠感が全身を襲う。今のカルドネにとって考える事、動く事、何もかもが面倒でならなかった。
束の間の休息。しかし見知った気配にすぐさま我に返る。カルドネは濁る思考を振り絞り、その行手を阻んだ。出所が分からない焦燥感に急かされ、何故か視線の先に散らばる鉄紺を、懸命に脚や腕で掻き集める。
カルドネが自室に他人を入れた事などない。それはこの先も変わらない。しかし分かっていても手が止まらない。床に出来た歪な穴は瞬く間に鉄紺で塞がれる。
獣人の狩猟本能という事にしたい、しよう、カルドネは自身に強力な暗示をかけた。
「{···専属きゅ、メルリっメルリア殿!}」
廊下の端をテクテクと歩いていたメルリアは、突然の呼びかけに肩を大きく跳ねさせた。強ばった小さな身体は、緊張に耐えられず肩の筋を攣つらせる。
「{···殿??}」
そんな呼ばれ方された事があっただろうか、思考を巡らせるも誰にも辿り着けないメルリア。
「{ど、どちら様でしょうか?}」
恐る恐る声の主を探す小さな人影は、未だ廊下の端を彷徨っていた。メルリアが立つその場所は、使用人寮男子館、通称『ラインズドミトリー』4階。ペテンの専属になる前の接客女中とうい役職では、足を踏み入れる事さえ憚られた場所だ。
使用人寮は公爵邸、裏手に建てられている。5階建ての2棟が連なったそこは男女別で分けられており、建物内ではそれぞれ種族別で更に部屋が細分化されていた。しかしそれらも身体の外見での区分けに過ぎず、実をいうと小さな衝突は常に絶えない。しかしその区分は、身分や種族や性別など分け始めたらキリがない為、家令により強制的に取り決められたものだ。
暗黙の了解として職種の階級が高い程、上の階に部屋を当てられ、使用人内でも一種のヒエラルキーが存在している。各館は、主や屋敷内の緊急時に迅速な対応ができるよう最上階の連絡通路で繋がっていた。しかし普段は施錠され、5階に住む限られた使用人しか開ける事を許されていない。寮の行き来に門限や制限はないが、人の目が多い為、進んで風紀を乱す者は稀だった。
カルドネは男子館4階、メルリアは女子館『ポインズドミトリー』1階にそれぞれ自室を構えている。2階以上に踏み込んだ事のないメルリアにとって、4階は未知の世界、ましてや男子館など不気味な原始林と大差がなかった。
「{···私だ}」
「{わ、たし···そうですか}」
遠くから聞こえる全く答えになっていない返答に樺色の毛先が逆立つ。極度の緊張と疑心がメルリアの足元を酷く揺らした。
「{では、急ぎの用がありますので失礼致します}」
誰も居ない廊下の端で55度に上半身を倒したメルリアは、小さく息を吐き本来の自分を取り戻す。
「{···何故貴女が此処に?}」
上を向き、匂いの波を辿るカルドネは、声音を整えメルリアへと問うた。しかし余りにも不自然な呼び掛けは、益々メルリアの『不安』を煽る。
「{······}」
カルドネには足音の遠さで廊下の奥、十数メートル先に居るであろうメルリアが足を止めるのが分かった。そして、ほのかに漂い始めた玉ねぎの焦げに似た匂いで、自身がメルリアを極度の緊張状態に追い込んでしまっている事も分かった。
分かった、がその先どうしたいとも思わなかった。
「{ちょっお待ちな···}」
言いかけたままカルドネの声が途切れる。
「{不思議だ}」
そう、カルドネは不思議だった。
一瞬の焦りはあるも、取り繕おうとは思わない、良い顔をしたいとも思わない。
扉一枚隔てた先の自身のとっ散らかった現状。肌着は乱れ、腰元は汚れ、思考も儘ならない。体調だって最悪だ。しかしだからどうした。また会うか会わないかも分からない存在に虚勢をはる必要があるのだろうか。
カルドネがうだうだと考えているうちに、背後の扉が控えめに叩かれた。
コンコンッ
「{お忙しい所、失礼致しますカルドネ様いらっしゃいますか?お加減は良くなられましたか?}」
「{あぁ私だ}」
「{·········}」
「{·········}」
「{わたっ···カルドネさまっ}」
「{あぁ私だ。リマインダー公爵領副執事を拝命しているカルドネだ}」
「{あ、あのっそんな事は存じております。先程は失礼致しました}」
「{···いえ、ご用件は何でしょうか?}」
「{あのっペテン様が心配しておられます。体調はまだ優れませんか?}」
『{ペテン}』他人の口から聞こえるだけで飛び上がる心臓。カルドネは扉一枚隔てた先に居る小さな部下に大きな劣等を感じた。
「{はい、問題はありません。貴女は業務に戻って頂いて結構ですよ}」
「{そう、です···か}」
互いの声がくぐもって響く館内。何故か数刻前聞いた時よりもカルドネの声が遠く感じたメルリアは、首がすくみ、見る見るうちに背が内へと丸まっていた。メルリアの視線を覆う扉の木目が、瞬く間に分厚い鉄壁と化す。
機嫌を損ねてしまったのかしら、メルリアは記憶の中にあるカルドネとの接点を探った。しかし何も思い当たらない。そもそも副執事と接客女中の交流など無いに等しく、こちらが一方的に存在を知っていた程度でしかない。
「{嫌われてしまうほどの関係構築はしていない筈なのだけど}」
小さな手が扉にそっと触れる。なんだかほんのり生暖かい。
「{それとも私がお嫌いなのかしら}」
そもそもペテンの専属に任命したのは他でもないカルドネだ。接点が増える事も考慮していたとメルリアは思っていた。眼鏡を掛けているはずなのに、メルリアの視界は段々と狭まっていく。
「{はぁ···面倒だわ}」
呟く言葉に覇気はない。途端に身動きの取れない窮屈さがメルリアの足元に立ち込める。小さな身体は更に小さく縮こまり、最早ミジンコと大差ない。
メルリアは、ひたすら自室へと逃げ込みたくて仕方がなかった。
「{更地にならないかしら}」
エプロンを握った手に力が入る。
物心ついた時からメルリアは、顔を覚えられる事、名前を呼ばれる事を極端に嫌った。他人に認知される事すら耐えられなかったのだ。他人の中に架空の自身が存在すると思うと、それだけで全身が震えた。それが良い印象だと尚更だ。もういよいよ耐えられない。他人に巣喰う美化された得体の知れない虚像が、大きなプレッシャーとなり自身の肩へとのし掛かる。ただでさえ無いに等しい自己肯定感が押し潰され、すり潰され、忽ち素粒子状になり方々へ飛散してしまう。
『{挨拶をしてくれる}』『{真面目で素直}』
そんな事を言われてしまったらもうアウトだ。目を見て笑顔で声を掛けてくれたその人が、メルリアの目には意思疎通の叶わない個体に見えてしまう。
何故かはいまいち分からない。しかしアトピーやアレルギーとも思える蕁麻疹が、大人になった今でも名前を呼ばれただけで全身を駆け巡った。
我に返るメルリア。扉の先にはトグロを巻いた大きな『恐怖』が確かに存在する。数日前、突然メルリアを指名した副執事。それだけでもうメルリアは怖くて堪らなかった。
「{······}」
苦しい呼吸と共に、ペン先程しか見えなくなってしまった狭すぎる視界。
此処に居る限りカルドネとの人間関係が出来てしまう。でもこれは仕事なのだから少なくとも専属給士の任が解かれない限り、副執事との関係は必要よ。でもでも上司に戻れと言われたのだから戻れば良いじゃない。でもでもでもペテン様はきっとシュンとしたお顔をされるわ。
今の主はペテン様。円滑な業務をする為には使用人同志の関係構築も大切よ。これは仕事なの。空気は見えてしまうものよ。ペテン様の視界に入る全てき気を付けなければ。引いてはそれがペテン様の過ごしやすい環境構築に繋がるのだから。これは仕事、仕事なのよ。
扉の木目の溝に暗示を掛けるメルリア。近づき過ぎてしまったせいで、眉間に眼鏡の金具が食い込む。
「{はぁぁ···面倒だわ}」
静かに銀縁の眼鏡を外すメルリア。途端に視界が茶色一色に塗り潰された。遠視の分厚いレンズに無数の指紋がつく。何処も見ていないメルリアは、すんっと真顔になり誰に気付かれる事もなく、そっと心を閉ざした。
見えないこの世界が好きだ。何も見なくて良いのだから。
好かれたくも嫌われたくもない。良いことも悪いことも要らない。白と黒の丁度真ん中、濁りない灰色が大好きだ。
居るか居ないのか分からない。そんな存在になりたかった。公爵邸でもそれを目指した。
「{いつの間にか、慣らされてしまったのね}」
ペテンの専属になって数日、笑って泣いて驚いて、身振り手振りのジェスチャーで全身が筋肉痛になって、諦めた絵を数年ぶりに沢山描いて、とてもとても。
「{···面倒だったわっ}」
思わず笑みを溢すメルリア。その紫水晶には薄らと涙が滲む。
「{だって、余りにも目を見てくるのだものっ}」
最初はペテンが怖くて仕方がなかった。絵画から飛び出してきたような余りにも浮世離れした容姿。何を考えているのか分からない表情。聞いたことがない言葉。
メルリアはその時、石膏像に魂が宿ったかのような一種の危うさを感じた。
整いすぎると人は恐怖してしまうのね、ペテンの眠った姿を見てそんな事を思った程だ。
そして数日接して分かった事は、全てが杞憂だったという事。
ペテンは王国語こそ話せないにせよ、豊富な知識を持っていた。絵日記を始めてそれを改めて実感させられたメルリア。食器や家具の使い方、書籍や地図の見方まで、ペテンは様々な物を教えるまでもなく完璧に扱っていた。そのくせ目を離せば、使用人がやるような掃除や畳み仕事も完璧にこなしている始末。正直、部屋の中での仕事と言ったら食事の配膳と、王国語を教えて絵を描く事くらいだった。
そして一番驚いた事は、言動に他人の目がないという事だ。
どう見られる、思われるといった概念がそもそもない。
美味しい食べ物は心底美味しそうに食べるし、苦手な人間には隠さず怪訝な表情を見せる。大きい図体をしているのに物凄く頼ってくるし、時々笑わせようと変な顔までしてくる。そして絵が物凄く味わい深い。いや、下手くそだ。また、あろう事かそれを得意げに見せてくる。褒めてくれても良いよ、とでも言いたげな誇らしげな表情で見せてくる。
不快に思う隙さえ与えず、執拗に名前を連呼するペテン。毎回違うイントネーションは、まるでそれが言葉の集合体でしかないと言われているようだった。
出した食事は疑いもせず完食し、教えた言葉はまま覚える。スクロールを失敗した時は、怒るどころか率先して掃除を始めた。一緒にスクロールの残骸を片付けた時は、余りの葉脈箒の似合わなさに笑ってしまった。
しかし短絡的に見える動作にも途方もない思考があるようにメルリアには思えた。
ペテンは全てを自分で選ぶ。使いたい物も、食べたい物も、覚えたい言葉も全て。メルリアが提示したものは、一旦やんわりと断り、自分で考えてから自分のものとして選んでくれる。たとえそれがメルリアが最初に提示したものでも、ペテンが自分の『やりたい事』として消化してくれる。
それがメルリアの為だと分かったのは最近の事だった。いや、正しく言うと明確にちゃんと分かった訳ではない。
ただ、いつもより呼吸が苦しくなくなっただけの話しだ。
空気は読むものじゃなくて吸うものだと改めて分かった、というだけの話し。
それからは名前を呼ばれる事も苦しくなくなった。本当の名前で呼ばれたいとさえ思った。
主に気を遣わせているのだから給士としては失格だろう。しかし指名したのは扉の先に居るであろう副執事だ。
責任が無いという事は、メルリアにとってとても大切な事だった。
「{筋肉痛って笑うだけでなってしまうものなのね}」
微かに残る腹部の筋肉痛を、名残惜しげにそっと摩る。
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