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第二幕 神凪 響詩郎
神凪 響詩郎の事情(後編・上の巻)
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「はぁ、はぁ……」
まだ年端もいかぬ幼い子供が、クリスマスイブの歓喜に彩られた夜の歓楽街を必死に駆けていた。
6歳の神凪響詩郎は何度も何度も後ろを振り返る。
その視線の先では複数の男たちが彼を追ってきていた。
「はぁ……はぁ……父さん、母さん」
幼い響詩郎の足ではとても逃げ切れそうになかったが、彼は巧みに狭いビルの間をすり抜けていく。
子供にしか通り抜けられそうにない隙間を次々とくぐり抜ける響詩郎は自分が追われる理由を知っていた。
追っ手の彼らにとって自分は餌《えさ》なのだ。
「はぁ……はぁ……桃先生」
やがて細い路地裏をいくつも通り抜けるうちに、響詩郎は地下街に足を踏み入れていた。
そこにはいくつもの有料ロッカーボックスが立ち並んでいる。
立ち止まって息を整える響詩郎は、黙って家を飛び出してきたことに罪悪感を感じながらポツリと呟きを漏らした。
「桃先生……怒ってるかな」
今、幼い彼と同居しているのは趙香桃という女性だった。
響詩郎の両親は魔界で特別な仕事に就いているため、息子とは年に数回しか会うことはない。
特別な仕事というのがどんなものであるのか幼い響詩郎には分からなかったが、そんな彼にも分かることがあった。
自分の暮らしが普通の家庭とは違うということだった。
小学校に上がったばかりの彼は、周囲の友達らの暮らしぶりを見てそのことに初めて気が付いたのだ。
以来、幼い彼の胸には疑問や割り切れない思いがくすぶり続けていた。
生まれてからまだほんの数年しか経っていない子供にも関わらず、彼には本音でぶつかったりワガママを言える相手がいなかったのだ。
今の同居人である香桃は響詩郎の衣食住の面倒を見てくれているが、母親の代わりというわけではなかった。
「私はあんたのママじゃない。あんたのママは今日も遠い魔界であんたのことを思ってるさ。だから甘えたいなら次に会った時にしな」
現に香桃は折に触れて響詩郎にそう言っていたのだ。
だが、彼は年に数回しか会えない母親にワガママを言って困らせることは出来なかった。
そんな思いを抱えながら迎えた今日のクリスマスイブ。
香桃は急ぎの仕事で昼間から出かけていて帰りは遅くなるようだった。
響詩郎はこんな日に一人でいることに言いようのない寂しさを感じて、ひとり家を飛び出したのだった。
「魔界って遠いのかな」
そう言う響詩郎の胸は両親への郷愁で満ちていた。
だがその時、強い力でいきなり背中を押されて響詩郎は床に倒れ込んでしまった。
「うわっ!」
肩を床に強打して強い痛みに顔をしかめながら響詩郎はワケも分からず立ち上がろうとした。
だが背中を誰かに足で踏みつけられ、床に押し付けられたまま起き上がれなくなってしまう。
「ようやく見つけたぞ。ガキめ。おい! おまえら! こっちだ!」
頭上から降り注いだその声は粗野な男のものだった。
そして大勢の声と足音が近づいてきた。
(つ、つかまっちゃった)
愕然として必死にもがく響詩郎だったが、子供の力ではどうすることも出来ない。
「こいつか。趙香桃の秘蔵っ子ってのは」
「確かにうまそうだ。血肉と一緒に霊力をたっぷり吸い取ってやろうぜ」
男たちが口々に言うその言葉に、自分がこれからどうなってしまうのかを悟った響詩郎は震え上がった。
「や、やめてよ! ぼ、僕……僕……何も悪いことしてないよ」
恐怖のあまり、ほとんど懇願するような言葉を口にする響詩郎だったが、掠れて弱々しいその声は男たちの嗜虐心を煽り立てるだけだった。
響詩郎を踏みつけていた男が突然、彼の首根っこを掴むと無理やり立ち上がらせる。
「うくっ……」
後ろから首を掴まれてその痛みに顔をしかめる響詩郎は、そこで初めて自分を取り囲む男たちの顔を見た。
それは全員が動物や昆虫のような顔や手足を持つ半人半妖のような異形の化け物たちだった。
「ひっ!」
魔界に生まれ、妖魔の趙香桃の元で育てられている響詩郎は妖魔の姿こそ見たことがあるが、これほど多くの妖魔が眼前に集結する様子に圧倒されて息を飲む。
ましてや彼らは自分に危害を加えようとしているのだ。
恐慌してガタガタと震え出す響詩郎を見て、そんな彼を捕まえている狼の頭を持つ男が舌なめずりをしながら言う。
「悪いことしてない? だからひどい目に遭わないとでも言うのか? 生憎だったな。そいつは世の中のルールとは違う。なぜなら俺らは悪いことばっかりしてるが今こんなに楽しいぜ」
そう言うと狼男はその鋭い爪を響詩郎の二の腕にブスリと突き立てた。
「痛いっ! 痛いよぉっ!」
腕に突き刺さる鋭い痛みに響詩郎は悲鳴を上げた。
狼男はその腕を掴み上げ、響詩郎に見せつけるように彼の眼前に持っていく。
腕からはどくどくと真っ赤な血が流れ出ていた。
血まみれになっていく自分の肌を見た響詩郎は恐ろしくて声も出せずに喘ぐ。
「っく、ひぐっ……」
「おい見ろ。赤い血が出たぞ。痛いだろ? 痛いよな? でも今からもっと血が出るし、もっと痛くなるんだ。泣いても震えても誰も許してくれないぜぇ? 悪いことしてないのに、こんなひどい目に遭ってかわいそうになぁ」
そう言うと狼男は楽しくてたまらないといった様子で笑い声を上げた。
それにつられて周りの妖魔たちも下品な笑い声を上げる。
妖魔らの嬌声が恐ろしい大合唱となって地下道に響き渡り、響詩郎の恐怖は頂点に達した。
彼の下腹部から生温かい液体が漏れ出てきた。
「ハッハー! ガキが小便漏らしやがったぞ!」
嘲るようにそう言う狼男だったが、すでに茫然自失となっている響詩郎は涙を流して震えるだけだった。
そんな響詩郎をいたぶり飽きて狼男は鋭い爪を響詩郎の喉元に突き付けた。
「残念だったな。おまえは俺らの餌になるために死ぬんだ。あきらめろ」
そう言うと狼男は爪を振り上げて響詩郎の首に狙いをつけた。
(た、助けて。父さん、母さん……桃先生)
響詩郎は心の底からそう願った。
心は折れ、かと言って死を覚悟する度胸もなく、彼が最後に出来ることは救いの手を求めることだけだった。
(これは桃先生の言いつけを破って勝手に外に出た罰なんだ)
彼の心に後悔の念とともに浮かぶのは、香桃の顔だった。
そして狼男の鋭い爪が振り下ろされた。
それは幼い響詩郎の命運を刈り取る死神の鎌となって彼に襲い掛かるのだった。
まだ年端もいかぬ幼い子供が、クリスマスイブの歓喜に彩られた夜の歓楽街を必死に駆けていた。
6歳の神凪響詩郎は何度も何度も後ろを振り返る。
その視線の先では複数の男たちが彼を追ってきていた。
「はぁ……はぁ……父さん、母さん」
幼い響詩郎の足ではとても逃げ切れそうになかったが、彼は巧みに狭いビルの間をすり抜けていく。
子供にしか通り抜けられそうにない隙間を次々とくぐり抜ける響詩郎は自分が追われる理由を知っていた。
追っ手の彼らにとって自分は餌《えさ》なのだ。
「はぁ……はぁ……桃先生」
やがて細い路地裏をいくつも通り抜けるうちに、響詩郎は地下街に足を踏み入れていた。
そこにはいくつもの有料ロッカーボックスが立ち並んでいる。
立ち止まって息を整える響詩郎は、黙って家を飛び出してきたことに罪悪感を感じながらポツリと呟きを漏らした。
「桃先生……怒ってるかな」
今、幼い彼と同居しているのは趙香桃という女性だった。
響詩郎の両親は魔界で特別な仕事に就いているため、息子とは年に数回しか会うことはない。
特別な仕事というのがどんなものであるのか幼い響詩郎には分からなかったが、そんな彼にも分かることがあった。
自分の暮らしが普通の家庭とは違うということだった。
小学校に上がったばかりの彼は、周囲の友達らの暮らしぶりを見てそのことに初めて気が付いたのだ。
以来、幼い彼の胸には疑問や割り切れない思いがくすぶり続けていた。
生まれてからまだほんの数年しか経っていない子供にも関わらず、彼には本音でぶつかったりワガママを言える相手がいなかったのだ。
今の同居人である香桃は響詩郎の衣食住の面倒を見てくれているが、母親の代わりというわけではなかった。
「私はあんたのママじゃない。あんたのママは今日も遠い魔界であんたのことを思ってるさ。だから甘えたいなら次に会った時にしな」
現に香桃は折に触れて響詩郎にそう言っていたのだ。
だが、彼は年に数回しか会えない母親にワガママを言って困らせることは出来なかった。
そんな思いを抱えながら迎えた今日のクリスマスイブ。
香桃は急ぎの仕事で昼間から出かけていて帰りは遅くなるようだった。
響詩郎はこんな日に一人でいることに言いようのない寂しさを感じて、ひとり家を飛び出したのだった。
「魔界って遠いのかな」
そう言う響詩郎の胸は両親への郷愁で満ちていた。
だがその時、強い力でいきなり背中を押されて響詩郎は床に倒れ込んでしまった。
「うわっ!」
肩を床に強打して強い痛みに顔をしかめながら響詩郎はワケも分からず立ち上がろうとした。
だが背中を誰かに足で踏みつけられ、床に押し付けられたまま起き上がれなくなってしまう。
「ようやく見つけたぞ。ガキめ。おい! おまえら! こっちだ!」
頭上から降り注いだその声は粗野な男のものだった。
そして大勢の声と足音が近づいてきた。
(つ、つかまっちゃった)
愕然として必死にもがく響詩郎だったが、子供の力ではどうすることも出来ない。
「こいつか。趙香桃の秘蔵っ子ってのは」
「確かにうまそうだ。血肉と一緒に霊力をたっぷり吸い取ってやろうぜ」
男たちが口々に言うその言葉に、自分がこれからどうなってしまうのかを悟った響詩郎は震え上がった。
「や、やめてよ! ぼ、僕……僕……何も悪いことしてないよ」
恐怖のあまり、ほとんど懇願するような言葉を口にする響詩郎だったが、掠れて弱々しいその声は男たちの嗜虐心を煽り立てるだけだった。
響詩郎を踏みつけていた男が突然、彼の首根っこを掴むと無理やり立ち上がらせる。
「うくっ……」
後ろから首を掴まれてその痛みに顔をしかめる響詩郎は、そこで初めて自分を取り囲む男たちの顔を見た。
それは全員が動物や昆虫のような顔や手足を持つ半人半妖のような異形の化け物たちだった。
「ひっ!」
魔界に生まれ、妖魔の趙香桃の元で育てられている響詩郎は妖魔の姿こそ見たことがあるが、これほど多くの妖魔が眼前に集結する様子に圧倒されて息を飲む。
ましてや彼らは自分に危害を加えようとしているのだ。
恐慌してガタガタと震え出す響詩郎を見て、そんな彼を捕まえている狼の頭を持つ男が舌なめずりをしながら言う。
「悪いことしてない? だからひどい目に遭わないとでも言うのか? 生憎だったな。そいつは世の中のルールとは違う。なぜなら俺らは悪いことばっかりしてるが今こんなに楽しいぜ」
そう言うと狼男はその鋭い爪を響詩郎の二の腕にブスリと突き立てた。
「痛いっ! 痛いよぉっ!」
腕に突き刺さる鋭い痛みに響詩郎は悲鳴を上げた。
狼男はその腕を掴み上げ、響詩郎に見せつけるように彼の眼前に持っていく。
腕からはどくどくと真っ赤な血が流れ出ていた。
血まみれになっていく自分の肌を見た響詩郎は恐ろしくて声も出せずに喘ぐ。
「っく、ひぐっ……」
「おい見ろ。赤い血が出たぞ。痛いだろ? 痛いよな? でも今からもっと血が出るし、もっと痛くなるんだ。泣いても震えても誰も許してくれないぜぇ? 悪いことしてないのに、こんなひどい目に遭ってかわいそうになぁ」
そう言うと狼男は楽しくてたまらないといった様子で笑い声を上げた。
それにつられて周りの妖魔たちも下品な笑い声を上げる。
妖魔らの嬌声が恐ろしい大合唱となって地下道に響き渡り、響詩郎の恐怖は頂点に達した。
彼の下腹部から生温かい液体が漏れ出てきた。
「ハッハー! ガキが小便漏らしやがったぞ!」
嘲るようにそう言う狼男だったが、すでに茫然自失となっている響詩郎は涙を流して震えるだけだった。
そんな響詩郎をいたぶり飽きて狼男は鋭い爪を響詩郎の喉元に突き付けた。
「残念だったな。おまえは俺らの餌になるために死ぬんだ。あきらめろ」
そう言うと狼男は爪を振り上げて響詩郎の首に狙いをつけた。
(た、助けて。父さん、母さん……桃先生)
響詩郎は心の底からそう願った。
心は折れ、かと言って死を覚悟する度胸もなく、彼が最後に出来ることは救いの手を求めることだけだった。
(これは桃先生の言いつけを破って勝手に外に出た罰なんだ)
彼の心に後悔の念とともに浮かぶのは、香桃の顔だった。
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