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第一章 ブレイン・クラッキング
第7話 梓川恋華の帰郷
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早朝の空港ロビーで、梓川恋華は昨夜の機上の騒動を思い返して呻いた。
「うぅ……頭重い。体痛い」
激しく揺れる機体の中であちこちに体をぶつけながら全力で走り、操縦室ではあやうく絞殺されかけたため、首をはじめとして体のいたるところに痛みが走り、恋華はすっかり疲れ切ってしまっていた。
さらには自身の特殊能力を使った影響で鈍い重さの残るこめかみをさすりながら彼女は一人ごちた。
「1級感染者の修正プログラム作成ってやっぱ負荷キツイなぁ」
そう言うと恋華はロビーの柔らかな椅子に深く腰掛け、空港の高い天井を見上げた。
「日本に着いた途端にこんなにボロボロだなんて私、大丈夫かしら……」
あの騒動の後、予定時刻より1時間ほど遅れて飛行機は空港へ着陸したが、操縦室への無断の立ち入りを敢行したせいで恋華は真夜中過ぎまで空港の取調室に拘束される羽目になった。
国際機関である【カントルム】の根回しによって、全て不問に処されたときにはすでに空がうっすらと白みがかってきていた。
頭痛の原因は長時間の取り調べのせいもあるだろうと恋華はうんざりした顔でため息をつく。
世間一般的にはその存在を知られていない悪魔祓いの国際組織【カントルム】。
そこに所属するエージェントである恋華には国際的な捜査権が付与されている。
世界百数ヶ国で保護されるその捜査権のため、恋華は今こうして罪に問われることもなく自由の身でいられるのだった。
彼女はケータイを手に米国のカントルム本部へと連絡をとった。
2コールで電話に出たのは落ち着いた声の女性だった。
『ああ。恋華か。無事に日本に着いたようだね』
「はい。イクリシア先生。何とか到着しました。連絡が遅れてすみません」
電話の相手である恋華の師・イクリシアは弟子の言葉に泰然と返事をした。
『気にするな。ひと暴れしたせいで拘束されていたんだろう? 解析ログを見たが、2体の感染者が発生したようだな』
「はい。それも1体は正常者を装っていました」
『1級感染者か。ヒヤヒヤしたんじゃないのか?』
わずかに面白がるような電話の向こうの声に恋華はため息をついた。
「はぁ。しましたよ。無事に私の脳が仕事をしてくれてよかったですけどね」
『そうか。思っていたよりも出来る相手のようだな。事前に伝えた通り、日本側での協力者と落ち合ってくれ』
「はい。イクリシア先生」
欧米を中心に支局を展開するカントルムだったが、日本には独自の神道組織が存在することもあって、支局を開設できていない。
恋華がこの作戦行動において頼れるのは己と米国からの支援、そして日本側の協力者だけであった。
『待ち合わせ場所は事前に伝えた通り。時刻は午前9時前後。今回の件、しっかり頼むぞ』
「了解しました」
恋華は電話を終えると椅子の背もたれに再び深く背中を預けた。
平日の早朝とはいえ、空港の客足は決して少なくない。
せわしなく行き交う人の群れを眺めながら、恋華は首に手を当て、絞められた箇所のヒリヒリする痛みに目を伏せた。
同じ航空便に乗っていた乗客と副操縦士。
明らかに正気を失っていたその二人。
恋華の所属するカントルムの常識で言えば彼らは悪魔によって魂と肉体を乗っ取られた悪魔憑きと呼ばれる状態にあるのだが、ここ数年の間にそうした業界の常識を覆すケースが世界のあちこちで散見されている。
従来の悪魔祓いによって解決できない悪魔憑きとは似て非なる現象は、カントルムの内部でも懸念の種となっていた。
カントルムにおける数年間の研究の結果、それらは術者が被害者の脳に何らかの霊的なシグナルを送り、その脳を不正に占拠する秘術ではないか、という可能性が浮上していた。
その秘術によって被害者の自我を失わせ、術者の制御下に置くという悪魔憑きに似せた人為的犯行であることが強く疑われていた。
それはまるで他者のパソコンに不正アクセスをして、それを乗っ取るクラッキングという行為に酷似しているため、カントルムではこれらの現象を【ブレイン・クラッキング】(脳への不正アクセス)と呼ぶことにしている。
そして脳を乗っ取られた被害者をパソコンのウイルス感染を例に、感染者と呼んだ。
こうした現象の発生による被害を食い止め、状況の解決策を見出すべく、テストエージェントとして梓川恋華は【カントルム】から派遣されたのだった。
「二人同時にクラッキングできるってことは、場合によってはもっと多くの人を同時に感染させられる恐れもあるってことよね……」
そうつぶやくと恋華は目の前を行き交う人々を眇め見た。
もしここで大勢の人間が同時にクラッキングされてしまえば、それはもう地獄絵図のような状況だろう。
想像して恋華は思わず身震いをすると、自分の左右の手にはめた2つの指輪を見つめた。
「……私は絶対に引くわけにはいかない」
恋華はそう自分に言い聞かせ、弱気の虫を腹の奥底に引っ込めた。
本音を言えば、危険な感染者を前にすれば恐怖を感じるし、そうした感染者らのいる現場へ赴く際には足取りが重く感じられることも少なくない。
それでも彼女には後ろを向くわけにはいかない理由があった。
(父さん。母さん。砂奈。私、日本に戻ってきたよ)
恋華は米国に残してきた両親に思いを馳せた。
3年前まで彼女はこの日本で両親と10歳離れた妹とともに暮らしていた。
だが、ある事件をきっかけに両親は心と生活能力を失い、今ではカントルムの保養所で療養している。
二人ともただ食事を取り、睡眠をとり、それ以外の時間は無言で宙を見ているだけ。
恋華の両親がそうしたおよそ人間らしからぬ生活を強いられているのは、何者かによるブレイン・クラッキングによって体を乗っ取られてしまったことに起因していた。
そして恋華の幼い妹・砂奈はその事件の中でまだ若い命を落とした。
恋華がカントルムという組織に入り今の任務に就くことを選んだ理由は、この不可解な現象の解明によって自身の両親を元に戻し、妹のような犠牲者を二度と出したくないという思いからだった。
左手の人差し指にはめられた指輪型霊具【スクルタートル(調査官)】によって不正プログラミングを検知し、恋華の脳に蓄積された数千種類のプログラミングデータベースの中から選出された最も適切な修正プログラムを右手の指にはめた【メディクス(医師)】で相手に注入する。
それこそがそれぞれ何千通りもある悪しきプログラムに侵された感染者を解放する唯一の方法であり、恋華のただひとつの武器だった。
師であるイクリシアが作り出したこのシステムの試作品を身につけ、感染者らを救い、その感染源となっている人物を特定するために恋華は来日した。
それがいずれこの不可解な現象を解決へと導く鍵となり、やがて自分の両親を救うことになると信じて。
恋華は膝の上に置いた両拳を固く握り締め、決意の表情を浮かべた。
(必ず元に戻して見せる。絶対に)
恋華は膝の上に置いたベージュ色のバックを手に立ち上がり、空港玄関外のバスターミナルへと向かった。
「うぅ……頭重い。体痛い」
激しく揺れる機体の中であちこちに体をぶつけながら全力で走り、操縦室ではあやうく絞殺されかけたため、首をはじめとして体のいたるところに痛みが走り、恋華はすっかり疲れ切ってしまっていた。
さらには自身の特殊能力を使った影響で鈍い重さの残るこめかみをさすりながら彼女は一人ごちた。
「1級感染者の修正プログラム作成ってやっぱ負荷キツイなぁ」
そう言うと恋華はロビーの柔らかな椅子に深く腰掛け、空港の高い天井を見上げた。
「日本に着いた途端にこんなにボロボロだなんて私、大丈夫かしら……」
あの騒動の後、予定時刻より1時間ほど遅れて飛行機は空港へ着陸したが、操縦室への無断の立ち入りを敢行したせいで恋華は真夜中過ぎまで空港の取調室に拘束される羽目になった。
国際機関である【カントルム】の根回しによって、全て不問に処されたときにはすでに空がうっすらと白みがかってきていた。
頭痛の原因は長時間の取り調べのせいもあるだろうと恋華はうんざりした顔でため息をつく。
世間一般的にはその存在を知られていない悪魔祓いの国際組織【カントルム】。
そこに所属するエージェントである恋華には国際的な捜査権が付与されている。
世界百数ヶ国で保護されるその捜査権のため、恋華は今こうして罪に問われることもなく自由の身でいられるのだった。
彼女はケータイを手に米国のカントルム本部へと連絡をとった。
2コールで電話に出たのは落ち着いた声の女性だった。
『ああ。恋華か。無事に日本に着いたようだね』
「はい。イクリシア先生。何とか到着しました。連絡が遅れてすみません」
電話の相手である恋華の師・イクリシアは弟子の言葉に泰然と返事をした。
『気にするな。ひと暴れしたせいで拘束されていたんだろう? 解析ログを見たが、2体の感染者が発生したようだな』
「はい。それも1体は正常者を装っていました」
『1級感染者か。ヒヤヒヤしたんじゃないのか?』
わずかに面白がるような電話の向こうの声に恋華はため息をついた。
「はぁ。しましたよ。無事に私の脳が仕事をしてくれてよかったですけどね」
『そうか。思っていたよりも出来る相手のようだな。事前に伝えた通り、日本側での協力者と落ち合ってくれ』
「はい。イクリシア先生」
欧米を中心に支局を展開するカントルムだったが、日本には独自の神道組織が存在することもあって、支局を開設できていない。
恋華がこの作戦行動において頼れるのは己と米国からの支援、そして日本側の協力者だけであった。
『待ち合わせ場所は事前に伝えた通り。時刻は午前9時前後。今回の件、しっかり頼むぞ』
「了解しました」
恋華は電話を終えると椅子の背もたれに再び深く背中を預けた。
平日の早朝とはいえ、空港の客足は決して少なくない。
せわしなく行き交う人の群れを眺めながら、恋華は首に手を当て、絞められた箇所のヒリヒリする痛みに目を伏せた。
同じ航空便に乗っていた乗客と副操縦士。
明らかに正気を失っていたその二人。
恋華の所属するカントルムの常識で言えば彼らは悪魔によって魂と肉体を乗っ取られた悪魔憑きと呼ばれる状態にあるのだが、ここ数年の間にそうした業界の常識を覆すケースが世界のあちこちで散見されている。
従来の悪魔祓いによって解決できない悪魔憑きとは似て非なる現象は、カントルムの内部でも懸念の種となっていた。
カントルムにおける数年間の研究の結果、それらは術者が被害者の脳に何らかの霊的なシグナルを送り、その脳を不正に占拠する秘術ではないか、という可能性が浮上していた。
その秘術によって被害者の自我を失わせ、術者の制御下に置くという悪魔憑きに似せた人為的犯行であることが強く疑われていた。
それはまるで他者のパソコンに不正アクセスをして、それを乗っ取るクラッキングという行為に酷似しているため、カントルムではこれらの現象を【ブレイン・クラッキング】(脳への不正アクセス)と呼ぶことにしている。
そして脳を乗っ取られた被害者をパソコンのウイルス感染を例に、感染者と呼んだ。
こうした現象の発生による被害を食い止め、状況の解決策を見出すべく、テストエージェントとして梓川恋華は【カントルム】から派遣されたのだった。
「二人同時にクラッキングできるってことは、場合によってはもっと多くの人を同時に感染させられる恐れもあるってことよね……」
そうつぶやくと恋華は目の前を行き交う人々を眇め見た。
もしここで大勢の人間が同時にクラッキングされてしまえば、それはもう地獄絵図のような状況だろう。
想像して恋華は思わず身震いをすると、自分の左右の手にはめた2つの指輪を見つめた。
「……私は絶対に引くわけにはいかない」
恋華はそう自分に言い聞かせ、弱気の虫を腹の奥底に引っ込めた。
本音を言えば、危険な感染者を前にすれば恐怖を感じるし、そうした感染者らのいる現場へ赴く際には足取りが重く感じられることも少なくない。
それでも彼女には後ろを向くわけにはいかない理由があった。
(父さん。母さん。砂奈。私、日本に戻ってきたよ)
恋華は米国に残してきた両親に思いを馳せた。
3年前まで彼女はこの日本で両親と10歳離れた妹とともに暮らしていた。
だが、ある事件をきっかけに両親は心と生活能力を失い、今ではカントルムの保養所で療養している。
二人ともただ食事を取り、睡眠をとり、それ以外の時間は無言で宙を見ているだけ。
恋華の両親がそうしたおよそ人間らしからぬ生活を強いられているのは、何者かによるブレイン・クラッキングによって体を乗っ取られてしまったことに起因していた。
そして恋華の幼い妹・砂奈はその事件の中でまだ若い命を落とした。
恋華がカントルムという組織に入り今の任務に就くことを選んだ理由は、この不可解な現象の解明によって自身の両親を元に戻し、妹のような犠牲者を二度と出したくないという思いからだった。
左手の人差し指にはめられた指輪型霊具【スクルタートル(調査官)】によって不正プログラミングを検知し、恋華の脳に蓄積された数千種類のプログラミングデータベースの中から選出された最も適切な修正プログラムを右手の指にはめた【メディクス(医師)】で相手に注入する。
それこそがそれぞれ何千通りもある悪しきプログラムに侵された感染者を解放する唯一の方法であり、恋華のただひとつの武器だった。
師であるイクリシアが作り出したこのシステムの試作品を身につけ、感染者らを救い、その感染源となっている人物を特定するために恋華は来日した。
それがいずれこの不可解な現象を解決へと導く鍵となり、やがて自分の両親を救うことになると信じて。
恋華は膝の上に置いた両拳を固く握り締め、決意の表情を浮かべた。
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