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最終章 モール・イン・ザ・ダーク・ウォーター
第15話 目の前に座るのは
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記憶は混濁としていて途切れ途切れだった。
母・甘枝の心象世界である庭園で来訪者と出会い、それから闇の中を漂いながら不思議な商店街へと降りていった。
そこまでは覚えているが、気付くと甘太郎は幼少の頃より母と過ごしたアパートの一室で過去の出来事を思い返していた。
母の帰りを待っていた日々。
母が倒れた日にそれを知らせに来てくれた幸之助と泣きじゃくっていた八重子。
そして母が帰らぬ人となった後のアパートの空虚な空気。
古い思い出のひとつひとつが鮮明に浮かんでは消えていく。
ただ一つだけ思い出せないことがあった。
そのせいで甘太郎は焦りにも似た気持ちが自分の胸にくすぶり続けているのを感じていた。
それは燃え上がることもせず、かと言って決して消えようともしない熾火のようだった。
気付くと甘太郎はアパートのダイニングキッチンに置かれた懐かしい椅子に腰をかけていた。
母と二人で食卓を囲んだテーブルの周囲には今、靄がかかり、向かい側の椅子に座る誰かの気配を感じる。
顔は見えない。
姿もおぼろげだった。
「誰だ……?」
しかしテーブルの周囲を包む靄はより深くなっていき、一寸先すら見通せないほどになる。
感じていた気配が遠のいていこうとしている。
甘太郎は思わず追いすがるように手を伸ばした。
もがくように伸ばしたその手は宙をかいて何も掴むことは出来ない。
「誰もいやしないか……」
甘太郎は自嘲気味に口元を歪め、差し出した手を引っ込めようとした。
だが、視界を埋め尽くす靄の中で、ふいに甘太郎の手を掴み返してくれる手があった。
「えっ……」
甘太郎は思わずビクッと身をすくませて手を引っ込めようとしたが、思いとどまった。
彼の手を握ってきたその手は力強いが、振り解けないほどではない。
だが、自分の冷えた両手を包んでくれるその手の温かさに甘太郎はその手を振り解くことが出来なかったのだ。
そして手を握られた途端に、頭の中に不思議な声が鳴り響いた。
『……アマタローくんと一緒にいるよ。アマタローくんの側にいるよ。ずっと待ってたんだよね。でも、もう一人じゃないよ』
それは女性の声だった。
自分を呼ぶその声は聞き覚えがあるような、それでいて聞いたことのない声のような気がしたが、不思議と甘太郎の気持ちを落ち着かせてくれるやわらかな声だった。
『帰ってきて。私のところに帰ってきて。アマタローくん』
その声は切実な思いが込められているように思えて、その響きが甘太郎の胸に深く刻み込まれる。
(だ、誰だ? 誰なんだ? どうして俺を……)
甘太郎は困惑しながら自分の胸の内を探る。
自分を呼ぶ人物の影を追う。
甘太郎は見えないものを見ようとして靄で煙る周囲に目を配る。
だが、視界のきかない中でそれは意味を成さず、甘太郎は落胆してうつむいた。
「ん?」
甘太郎がふとテーブルに目を向けると、いつの間にかテーブルの上には手の平に乗るくらいの小箱が置かれていた。
「いつの間にこんなもの……」
そう呟いて甘太郎が手に取ったそれは、指輪を収めるためのリングケースだった。
その箱の手触りを感じ取ると、ふいに甘太郎の頭の中に、初老の神父の姿が浮かび上がる。
その神父が自分にこの小箱を手渡してくれたことを甘太郎は思い出したのだ。
ジミー・マッケイガン神父からこの小箱を託された。
そのことを今の今まで忘れていたということに、甘太郎は唇を噛んだ。
「そ、そうだ……俺は、これを誰かに渡さないといけなかったんだ」
なぜそれを今まで忘れてしまっていたのだろう。
甘太郎は思いも寄らない記憶の蘇生に頭をブルブルと振った。
「でも誰に……誰に渡せばいい?」
甘太郎は自分の周囲にかかる靄が、自分の記憶の中にも濃密に漂っていることを感じた。
頭の中の靄を晴らせないまま、もどかしい思いで甘太郎はそのリングケースを開ける。
そこには当然のように緑色の宝石を埋め込んだ白銀の指輪が収められていた。
だが、その指輪を見た甘太郎は、同じような指輪が誰かの指にはめられていたことを断片的に思い出す。
(指輪……赤と……青の……光)
呆然としながら甘太郎はそっとその指輪に手を触れた。
その途端、周囲の状況が劇的に変化していき、甘太郎は息を飲んだ。
急激に靄が薄れていく。
同時に甘太郎の頭の中の靄も晴れていき、様々な出来事が浮かんでは消えていく。
不意に頭上から強い風が吹いて白い霧を吹き飛ばした。
代わりにキラキラと黒く輝く粒子が降り注いできて、それが甘太郎の思考回路を甦らせていく。
押し寄せる記憶の波に翻弄されながら、甘太郎は思わず目を見張った。
靄が全て消え、明瞭になった視界の中、甘太郎の向かい側の椅子に一人の人物が座っていたためだ。
甘太郎は顔を上げたまま、その人物の顔を凝視する。
目の前に座っていたのは女性だった。
その顔も、その姿も忘れるはずのない女性だった。
なぜなら甘太郎にとって彼女は守るべき依頼者であり、大切なパートナーでもあったからだ。
「れ……恋華さん」
意図せずに己の口から零れ出た彼女の名前に、甘太郎は全てを思い出した。
母・甘枝の心象世界である庭園で来訪者と出会い、それから闇の中を漂いながら不思議な商店街へと降りていった。
そこまでは覚えているが、気付くと甘太郎は幼少の頃より母と過ごしたアパートの一室で過去の出来事を思い返していた。
母の帰りを待っていた日々。
母が倒れた日にそれを知らせに来てくれた幸之助と泣きじゃくっていた八重子。
そして母が帰らぬ人となった後のアパートの空虚な空気。
古い思い出のひとつひとつが鮮明に浮かんでは消えていく。
ただ一つだけ思い出せないことがあった。
そのせいで甘太郎は焦りにも似た気持ちが自分の胸にくすぶり続けているのを感じていた。
それは燃え上がることもせず、かと言って決して消えようともしない熾火のようだった。
気付くと甘太郎はアパートのダイニングキッチンに置かれた懐かしい椅子に腰をかけていた。
母と二人で食卓を囲んだテーブルの周囲には今、靄がかかり、向かい側の椅子に座る誰かの気配を感じる。
顔は見えない。
姿もおぼろげだった。
「誰だ……?」
しかしテーブルの周囲を包む靄はより深くなっていき、一寸先すら見通せないほどになる。
感じていた気配が遠のいていこうとしている。
甘太郎は思わず追いすがるように手を伸ばした。
もがくように伸ばしたその手は宙をかいて何も掴むことは出来ない。
「誰もいやしないか……」
甘太郎は自嘲気味に口元を歪め、差し出した手を引っ込めようとした。
だが、視界を埋め尽くす靄の中で、ふいに甘太郎の手を掴み返してくれる手があった。
「えっ……」
甘太郎は思わずビクッと身をすくませて手を引っ込めようとしたが、思いとどまった。
彼の手を握ってきたその手は力強いが、振り解けないほどではない。
だが、自分の冷えた両手を包んでくれるその手の温かさに甘太郎はその手を振り解くことが出来なかったのだ。
そして手を握られた途端に、頭の中に不思議な声が鳴り響いた。
『……アマタローくんと一緒にいるよ。アマタローくんの側にいるよ。ずっと待ってたんだよね。でも、もう一人じゃないよ』
それは女性の声だった。
自分を呼ぶその声は聞き覚えがあるような、それでいて聞いたことのない声のような気がしたが、不思議と甘太郎の気持ちを落ち着かせてくれるやわらかな声だった。
『帰ってきて。私のところに帰ってきて。アマタローくん』
その声は切実な思いが込められているように思えて、その響きが甘太郎の胸に深く刻み込まれる。
(だ、誰だ? 誰なんだ? どうして俺を……)
甘太郎は困惑しながら自分の胸の内を探る。
自分を呼ぶ人物の影を追う。
甘太郎は見えないものを見ようとして靄で煙る周囲に目を配る。
だが、視界のきかない中でそれは意味を成さず、甘太郎は落胆してうつむいた。
「ん?」
甘太郎がふとテーブルに目を向けると、いつの間にかテーブルの上には手の平に乗るくらいの小箱が置かれていた。
「いつの間にこんなもの……」
そう呟いて甘太郎が手に取ったそれは、指輪を収めるためのリングケースだった。
その箱の手触りを感じ取ると、ふいに甘太郎の頭の中に、初老の神父の姿が浮かび上がる。
その神父が自分にこの小箱を手渡してくれたことを甘太郎は思い出したのだ。
ジミー・マッケイガン神父からこの小箱を託された。
そのことを今の今まで忘れていたということに、甘太郎は唇を噛んだ。
「そ、そうだ……俺は、これを誰かに渡さないといけなかったんだ」
なぜそれを今まで忘れてしまっていたのだろう。
甘太郎は思いも寄らない記憶の蘇生に頭をブルブルと振った。
「でも誰に……誰に渡せばいい?」
甘太郎は自分の周囲にかかる靄が、自分の記憶の中にも濃密に漂っていることを感じた。
頭の中の靄を晴らせないまま、もどかしい思いで甘太郎はそのリングケースを開ける。
そこには当然のように緑色の宝石を埋め込んだ白銀の指輪が収められていた。
だが、その指輪を見た甘太郎は、同じような指輪が誰かの指にはめられていたことを断片的に思い出す。
(指輪……赤と……青の……光)
呆然としながら甘太郎はそっとその指輪に手を触れた。
その途端、周囲の状況が劇的に変化していき、甘太郎は息を飲んだ。
急激に靄が薄れていく。
同時に甘太郎の頭の中の靄も晴れていき、様々な出来事が浮かんでは消えていく。
不意に頭上から強い風が吹いて白い霧を吹き飛ばした。
代わりにキラキラと黒く輝く粒子が降り注いできて、それが甘太郎の思考回路を甦らせていく。
押し寄せる記憶の波に翻弄されながら、甘太郎は思わず目を見張った。
靄が全て消え、明瞭になった視界の中、甘太郎の向かい側の椅子に一人の人物が座っていたためだ。
甘太郎は顔を上げたまま、その人物の顔を凝視する。
目の前に座っていたのは女性だった。
その顔も、その姿も忘れるはずのない女性だった。
なぜなら甘太郎にとって彼女は守るべき依頼者であり、大切なパートナーでもあったからだ。
「れ……恋華さん」
意図せずに己の口から零れ出た彼女の名前に、甘太郎は全てを思い出した。
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